久しぶりの寺院参詣、広布唱題会、御塔婆申し込み

久しぶりの菩提寺参詣。

広布唱題会に参加し、秋季彼岸法要での御塔婆建立を申し込んできた。

1 日蓮正宗の御供養で一番御利益があるのは御塔婆供養

7年間の法華講活動で、現世利益を実感できたのは御塔婆供養であった。

これは単なる私見であるので、人によっては登山という人もあるだろうし、折伏だという人がいてもいいと思う。唱題行だって言う人も大いに結構だ。

同じ宗門内では多様性のある組織の方が良いと思う。

私がなぜ御塔婆供養の功徳を礼賛するかというと、生活面での実感もさることながら、道理の面から考えても自然だと思うからだ。

今の日蓮正宗創価学会を破門してからも、当時のままの無謬性路線を貫いている。僧侶の妻帯・肉食・蓄財・飲酒等を改める風もない。創価学会に加担して国立戒壇を放擲したことも、開き直ってしまって戒壇義を論ずることが大謗法だとまで言い放つありさま。顕正会の浅井のように、御開扉即不敬というのは言い過ぎだが、登山にノルマなど持ってのほかだとは思う。

しかし、日蓮正宗の化儀に大きな功徳があることだけは間違いない。戒壇の大御本尊様への信を持ち、日蓮正宗の血脈を受けること以外に成仏も幸福もないのだから。

日蓮大聖人様が御認めにならない御供養よりも、故人の精霊への功徳の回向を積極的にしていくことで、自行化他の御供養ができるのではないだろうか。

2 増えない参詣者と変わらない顔ぶれ

うちの寺は住職が自慢するように、折伏誓願連続達成の有名寺院だそうだが、広布唱題会の参加人数は減る一方。

顔ぶれは新顔などほとんどいない。

こんな茶番をいつまで続けるのだろうか。

法華講連合会などというものも、在家の横のつながりをフォローするものではないようで、住職のイエスマンばかりが役職に就いてご機嫌をうかがっているだけ。

折伏と言っても功徳で釣って勧誘してきて、御授戒受けてさよならというのでもましな方。葬儀や法要に来た親族で、御授戒を受けてない人にその場で御授戒というのもよく聞く。当の本人は何をしたのかもわかってはいまい。

とどめは住職の法話で、声は小さいしダラダラしゃべるだけだから、何を言っているのかもよくわからない。戒壇建立の目的観を見失ってしまっているから、寺院の折伏ノルマだけしか頭にない。心に響くような話を聞いたことはほとんどない。勤行中に居眠りするような御坊様だからしかたないけどね。住職の嫁はいつも唱題会の終わりごろに、こっそり奥から出てきてすました顔して後ろで座っている。信者が気づいてないとでも思っているのだろうか。

3 大難の時代を覚悟するとき

国立戒壇を放棄してから50年がもうすぐやってくる。

国立戒壇は御書にないとか、田中智学の云々はよく聞くが私が言っているのはそんなことではない。

本門寺戒壇建立のことを、創価学会日蓮正宗国立戒壇建立と呼んでいたことを言っているのだから。

公明党の結党は国会での発議を目指してのものであった。福祉の党を目指したのではないのだよ。

昭和20年の敗戦から昭和45年の間も国立戒壇建立を目指し、創価学会折伏を頑張ったから今の日本があると思っている。

池田大作という野心家がどうこうといっても、今となっては生死不明の過去の人である。

昭和47年に正本堂を建立して事の戒壇ができましたとごまかしたのは池田である。しかし、それを本気で諫めてこなかった。国立戒壇建立放棄をさせずに、公場対決の時至れりで共産党と論戦させればよかった。

GHQの残していった占領基本法日本国憲法として、日蓮正宗が大聖人様の御遺命よりも優先し、世間の無用な誤解を招くなどとして戒壇義を故意に曲解させた罪は大きい。

それからちょうど7年後に日達上人様が相承の義を執行できずに亡くなってしまった。このことに触れると激怒する法華講員は多いが、他宗他門のトップであったら罰だと揶揄するのではないだろうか。

私は本当に恐ろしいものを感じ続けている。

 

「学会・宗門」抗争の根本原因

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