フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

秀逸すぎる「(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ」に脱帽しました。

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先日、スルメジャコフさんより次のようなコメントをいただきました。

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私は創価学会が嫌いです。しかし、大御本尊も、信じられません。
その理由は、私の祖父が、創価学会の破門と同時に脱会し、
以後月一の登山を続け大御本尊への信仰を貫いたにもかかわらず、
晩年は、癌に罹患し、国の薬事関連の政策の転換期だったことから
一切の痛み止めを打つ事が出来ず、壮絶な苦しみの中で亡くなっていった事です。
祖父は、学会員、時には親族からの誹謗にも耐えながら自らの信仰を貫きました。
その祖父が激痛による煩悶に暴れ苦しみながら、修羅の相で亡くなっていった事ー
この事がどうしても消化できずにいます。
大御本尊への信仰は、この世の幸福をもたらすものではないのでしょうか?
単に死後の安泰を約束するだけのものなのでしょうか?
仮に私が大好きだった祖父の信仰を受け継ぐならば、
現世においては苦しみを甘受しながら、死後に賭けるべきなのでしょうか?
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今日はこのコメントへの私なりの考えを書きます。
まずはスルメジャコフさんの御尊祖父様のご冥福をお祈りいたします。

さて、このような体験を持っている創価法華講員の方は多いと思います。
「あの人は、純粋に信心をしていたのにあんなに苦しむのだろう」と。
私も信心をする前は、学会員さんとかみて
そのように思ったことは何度もあります。
「信心なんてしたって幸福になってないじゃないか」と。
では信心をしない方が苦難に遭遇しないのか?
といえばそれもまた違いますね。
苦難に遭遇することと、信仰の有無は無関係です。
信心していても苦難に遭遇することもあるし
信心を否定しても苦難に遭遇しないこともある
また、苦難の種類もスルメジャコフさんの御尊祖父様のように
臨終に際しての苦しみもあれば
生きている中での苦しみもあります。
これらはどっちが苦しいという事はなく
どちらも同じ苦しみであると思います。
このようにこの世に生まれ生き死んでいく。
それはあるいみ苦難の連続だと思います。
「何事もない」人生などあり得ないし
「何事もない」人生を望んでもそれは手に入らない。
「何の苦難にも合わない人生を歩ませてください」
と祈ることは
「宝くじを当ててください」と祈ってるのと同じです。
この世には「何事もない幸福な一生」というものは存在しない。
そもそも何事もなければ幸福と感じることすらないでしょう。
幸福とは「何事もない」という事でなく
「何事があっても大丈夫」ということだと思います。
では、「何事があっても大丈夫」とはどのような状況かと考えると
苦難の原因が分かっていて、それを取り除く方法を知っている。
そういう状況だと考えます。
それが「現世安穏」であり「安穏」であることが利益です。

病気でも原因不明だと治療ができない。
治療ができなれば夜も眠れぬほど不安でしょう。
原因・病名が分かっていて、それに対する処方箋があれば不安は消えます。
「病気になる」というのは生きていれば避けられない
その時に治療方法を分かっていれば幸福であり、知らなければ不幸。
知っていれば安穏。知らなければ不安。
多くの世の中の不幸は「知らない」ことに起因していると私は思うし
この世の幸不幸とはそのようなものだと思っています。

そうしたこの世における苦しみや悩みの原因とその治療法
さらには治療後はどうなるのか?
それらは全て日蓮大聖人が教えてくれますし
説明をすることもできます。
でも、その説明はいたしません。
なぜなら、それによって誤解が生じ不信が生じるからです。
ですが、大御本尊への純粋な信心を貫かれた御尊祖父様には
それらは全て分かっていらっしゃったと思います。
そして分かっているからこそ覚悟もされていたと思われます。
確かに臨終に際して、痛くて苦しいことは辛すぎます。
できれば安らかに眠るように。と誰しも思いますが
御尊祖父様はそれすら分かっていて覚悟をしていたと思います。
それが信心です。
そして壮絶な最後を遂げたとしても成仏されていることは間違いないです。
(それも私が勝手に言っているわけじゃありません)
しかしその現実を周囲の人が消化できないという気持ちも分かります。
この現実を消化する方法は
大好きだった御尊祖父様の信仰を受け継ぐ以外にありません。
御尊祖父様と同じ立場に立たなければ
同じ景色は見ることはできません。
もちろん信仰を強制したり
信心をした方がいいですよ。などと勧誘する気もありません。
ましてや「大好きなおじいさんの為に・・」なんて
見え透いたことを言うつもりはありません。
ただハッキリと言えるのは
大御本尊を信じて見える景色は
今見えている景色とは明らかに違う。
御尊祖父様が見ていたのは、
周囲の方が見ていた景色と違う。
という事です。
その景色を見るも見ないも個人の自由です。
今の景色に満足されているのであれば
他の景色を無理に覗くこともないでしょう。
もしも今見ている景色が自分にとって気持ちよくない景色ならば
他にある景色を見てみようとするのも悪くありません。
どちらにしてもスルメジャコフさんが思うようにされるのが一番です。
ご質問の答えになっていないかもしれませんが
以上が私の所感です。

最後にコメントありがとうございました。
またいつでもお好きな時にコメントください。

私が感慨無量となった記事をそのまま引用させていただきました。

宗教組織は餓鬼道に堕ちやすい。

功徳が欲しい人で溢れているから。

のび太ドラえもんを頼るような。

ドラえもんのオチが道具による悲劇で終わるのは、藤子不二雄先生の見識の高さかもしれない。

私の父も母も死ぬ間際は壮絶だった。

質問者のスメルジャコフさんの御尊祖父様の死に顔は、御葬儀の後安らかになられたのでしょうか?

私の父母は幸いにも、通夜と葬儀によって安らかな死相になりました。

自分はどうだろうか?

考えると背筋がゾッとすることがあります。

それでも、自分なりに大聖人様の仏法に縁した者としての、景色を見る日が来るのでしょう。

創価学会顕正会では見ることができなかった景色が。

創価ダメ出しさんは、日寛上人様の教学によって見識を身につけられたとか。

六巻抄・御書文段を何度も繰り返し拝読しなきゃって思いました。

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

  

六巻抄

六巻抄