形而上学と倫理学や美学、それに価値論とか

形而上学とは真理の探究を目標にする学問で、僕が子供のころから取りつかれている関心に、最も直截的なアプローチを試みてくれる学問だ。

真理とは最も普遍的な事実の探究によって解明されるべきもので、「ある」とは何かについて答えることだと思っている。

「ある」もしくは「存在」と呼んでもいいのだが、このことの意味が解明されれば、全てのややこしい問題に決着がつくと想定され、古今東西の哲学の徒や、宗教信徒は様々な真理を考え自分たちなりの答えも出している。

もっとも有名な定義というか、結論的な言葉はデカルトの「我、思う、故に我有り」ではないだろうか?日常、哲学に何の関心もない人も、このフレーズは聞いたことがあるかもしれない。

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

簡単に言えば、何をどんなに疑ったとしても、今この考えている自分はあるのだから疑いの入る余地がない、最も普遍的な事実だと断定して間違いないだろうということだ。

深く考えなければ、なるほどとなるのであるが、ほんの少し考えを意地悪にしてみると、この決め台詞も意味が明確でない概念から成立していることがわかる。

「我」とは何か?僕・私・あなた・君たち、一人称・二人称・三人称って英語の初歩で習う、あれのことです。私は誰という意味ではないし、自分探しの旅的な意味でもない。自明だと思っている「我」と呼び、考えているものそれ自体のこと。これもなんだか分かるようで分からないことなんだと思うのだが。

「思う」だって奥が深いけど、一応の納得はできるもので二次的な事柄。感覚器官(目・鼻・口・耳・皮膚・脳)による情報処理で、実はVRなど使わなくても我々が現実と認識している現実は、巧妙に感覚器官によって形成された仮想現実だと解明されている。

そして最後の「有り」。自分も含めて何もないのではなくて、「ある」のよね何かが。これが究極なんだけど、自明すぎる上に説明の仕方もないから、スルーするのが正しい哲学的作法だとしてずっと無視され続けている。

 

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 

「我、思う、故に我有り」とは我=存在だから、我が無くなると存在もなくなるとなるよね。つまり死ねば終わり、生きているうちが花ってこと。

哲学というのは300~400年くらいかけて、山に水がしみ込むように一人の天才の頭脳から、億万人の大衆の中に浸透して来るという不思議な作用があって、自由とか民主主義とかも、元々はどこかの屁理屈屋が考え出した極論だったものが、今では世界規模の自明の理になっているよね。自明の理が正しいかどうか考えることが哲学であるとも言えるけど。

日本人が宗教的な意識を持たないとは思わないが、たいていは死んだら終わりで無になると考えやすいのは、デカルト的二元論(我と有るが大元という考え、心身二元論とも)を科学的教育によって、意識下に浸透させられてしまっているから。

形而上学が仮に確定されれば、倫理学や美学もすっきりと確定される。宗教国家を観察すればよく分かるが、普遍的真理が神だと前提されれば、善悪も美醜も宗教の教義や聖者の言葉を基準になんのためらいもなく策定されている。

仮に形而上学を捨ててしまえば、是々非々の価値論しかなくなり、損得や利害によって時々の価値基準が出てきて、時代の変遷で180度転換も可能になる。

 

価値論 (レグルス文庫)

価値論 (レグルス文庫)

 

宗教の中で創価学会初代会長の「価値論」はその言葉通りで、宗教的価値の大元に戒壇の御本尊様は置くものの、信仰者にとっての価値の根源であるとして、利益(損得であれば得、善悪であれば善、美醜であれば美)を与えてくれる魔法のランプ(幸福製造機)としてしまった。一神教的でありながら自己中心の御利益信心という、宗教界の雑種を生み出してしまったのだ。そして、雑種はしぶとく強いので、日本という特異な環境下でも、最大規模の信者数となる教団まで出来てしまった。

真理に価値はないという価値論は、形而上学の否定と非生産性を強調し大衆を目先の御利益に猪突猛進させることに成功したが、やはり根本的な思索が未熟なままではほころびが出てくるのも当然で、いまや創価学会は御本尊が何であるかについてさえ迷うようになってしまった。

私は現代という時代は内外相対の時代だと思っている。別の言い方をすれば、形而上学VS価値論(≒プラグマティズム)の時代である。

かつて西洋科学主義の頂点を目指したドイツ帝国で、形而上学によって国家社会や文明のあり方を問いかけたフッサールハイデガー。この二人の哲学的営為が仏教的であったのは偶然だろうか。

西洋の側から内外相対にアプローチした姿勢は、現代でも再考されるべき価値が大いにあると思うのだが。

死後の世界はあるのか?現代の日本でこの言葉を真顔で発すれば、ふふんと鼻で笑われてしまいだが、科学という計量数学という方法論だけで人生全般を決定することの危うさは、原爆や原子力発電所の問題だけではない。

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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