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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆さんのご質問について考えよう

watabeshinjun.hatenablog.com

非活さんのブログはコメントできませんので、自分のブログで検討させていただきます。

非活さんの質問は、

①『御本尊七箇相承』にある「仏滅度後二千二百三十余年」と弘安2年戒壇本尊にある「仏滅後二千二百二十余年」ではどちらが正しくてどちらが間違っているのか。


大石寺66世日達法主は「僧宝は日興上人のみ」、大石寺宗務院は「僧宝は日興上人以下歴代の上人」、26世日寛の『三宝抄』では「僧宝は歴代の上人並びに門流の大衆」となっているが、どれが正しくてどれが間違っているのか。


大石寺17世日精は両巻の『血脈抄』をもって日目、日代、日順、日尊に相伝したとあるが、相伝は唯授一人なのか、それとも『血脈抄』の相伝は一人には限られないのか、どちらが正しくてどちらが間違っているのか。


④『御本尊七箇相承』では「日蓮御判」と書くべきとされているが、日目上人による元弘3年10月13日書写本尊では「日蓮聖人」と書かれている。正しいのはどちらで、間違っているのはどちらなのか。


⑤『御本尊七箇相承』では「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」とを「書くべし」としているが、弘安2年戒壇本尊には書かれていない。どちらが正しくてどちらが間違っているのか。

以上の五点であります。

私が分かるのは①の質問だけですね。

これは御隠尊日顕上人猊下様の三大秘法義349ページ以降、364ページまでに渡って詳説されております。ご参照ください。

 

三大秘法義

三大秘法義

 

相伝に関することですので、私が簡単に書くことはできませんが、日寛上人様の観心本尊抄文段の中の、仏滅讃文解釈を敷衍されて、「二十余年」「三十余年」の意味を解説してくださっています。

私は信心の糧として学び、大いに納得できました。

すごいな!

の一言です。

②の僧宝の解釈ですが、どの解釈も正しいように思います。目くじら立ててどれが正しいのかって思う心が、信仰心とは程遠いように思います。三宝一体の御本尊様を、別体で論じれば客殿の本尊形式になります。

仏は日蓮大聖人、法は御本尊様、僧は日興上人ということです。日興上人から連なる日目上人以降御歴代上人様は、法水写瓶の御内証を受け継がれておりますから、僧宝と拝し奉ります。さらに、「門流の大衆」にまで名乗りを許されたのは慈悲でありまして、創価学会もかつては自分たちを僧宝の一分と称していたのです。

③以降は一信徒の立場としては存じ上げません。

日蓮正宗の信徒として、相伝のしかも御本尊様の相貌に関することなど、全くあずかり知らないのであります。

末寺の御僧侶といえども、相伝部分については御存じないのではないでしょうか?

非活さんにしてみれば、それ見たことかと溜飲を下げるでしょうが、学問と信仰は全く別次元のことであります。

創価の法論マニュアルにも、御書に記載のないのを百も承知で、「〇〇について御書の文証を示せ」と論難するハウツーがあるようですが、信徒の立場としては載ってませんと答えるほかないのであります。

盲信だ~!

というのでしょうが、信仰は無限遡及に耐えられないのは哲学で証明されています。

信は人の言葉を信じるという文字です。

信仰を見失い思索漂流を繰り返すのは自由ですが、共産主義者と同じく資本主義批判は一流だけど、結局どうすればいいの?って疑問には答えられないジレンマに陥っていますね。

 

妙法七字拝仰 上巻

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妙法七字拝仰 下巻

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増補版 寿量品説法 下巻

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増補版 寿量品説法 上巻

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