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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

日蓮正宗での信仰のあり方は、仏教学からは学べないことを確信しました。

ネットでの活動は、多くの折伏成果へとつながっているようですね。

入信された方の体験発表などでも、時々報告されています。

しかし、その一方では、日蓮正宗をまことしやかに批判するサイトやブログも多く存在しています。

一番多いのは創価学会員を中心とする、いわゆる誹謗中傷派。創価学会から目覚めて入信してきた人は、いまさらお門違いの誹謗中傷には惑わされないでしょうね。

創価学会の歴史や、身近な創価学会員の振る舞いには、世間の批判もありますしなにより自分で嫌な思いをした人も多くいることでしょうし・・・。

最近、気になるのは私自身の反省も込めて申し上げますと、法華講員による魔に紛動された姿です。主に人間関係が発端になっているようですね。人の好き嫌いで信心を捨ててしまうのは、もったいないことです。静かに唱題行をして、大聖人様に対し信心の発心を御祈念してまいりましょう。

必ず誤解を斥け正しい信仰心を取り戻すことができるでしょう。

一番やっかいなのは、ネット上を徘徊する賢人モドキのまことしやかな批判です。

仏教学の知識を基にして、さも悟ったかのように教義の上から日蓮正宗を攻撃しています。攻撃の対象は、戒壇の御本尊様と血脈相承が中心ですが、天台教学や日蓮大聖人様の知識まで広げている人も大勢です。

何が正しい信仰なのか迷いが生じてしまっては、もったいないどころの騒ぎではなく、無間地獄への道を開いてしまいます。

今日、私は教学と仏教学の違いと、信仰者としての学び方について私見ではありますが、披露させていただきたいと思っております。

1 決定版としての三大秘法義

 

三大秘法義

三大秘法義

 

現在の日蓮正宗信徒が手に入れることのできる教学書で、最も詳しい猊下のご指南は

三大秘法義だと思われます。

富士学林での講義テキストがベースになっていますので、非常に難しく感じるかもしれませんが、本尊・題目・戒壇の全てを総説・各説と細密に学ぶことができます。

本尊とは何か、題目とは何か、戒壇とは何か。戒定恵を中心に、末法の修行としての三大秘法へ展開されて解説されています。異流儀の論難にも教学の上からしっかりと回答できるようになっています。

2 教学と仏教学の違い

我が国の仏教学と言えば、中村 元 氏が真っ先に思い浮かびます。仏教学の論客は中村氏の本などを勉強している方が多いですね。

教養として一度お読みになるのもいいかもしれません。私は、龍樹 (講談社学術文庫)を読みました。

 

龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

 

中論も全訳が載っていますし、竜樹の逸話や思想の解説もわかりやすいです。ハイデガーの「存在と時間」の答えがわかります。

しかし、仏教学というのはあくまでも学問であって、教学ではありません。ここに大きな落とし穴があるのですが、元創価学会員の論客の人たちは忘れてしまっているのです。

二乗の命が強くなると、探究心が刺激されて真実を理性の赴くままにしてしまうのです。しかし、信仰心は決して理性から生じるものではないようです。いやむしろ、末法の凡夫には信仰の妨げになることの方が多いかもしれません。

御書の真蹟問題や、本尊の字画判定などはいくら資料を読み込んだとて、大聖人様の御内証へは到達できず、迷いから迷いへと彷徨うだけなのです。

最終的には、日蓮正宗を誹謗するテンションだけがあがってしまい、なんら決定的な信仰の核と申しますか、建設的な信仰体系は創出できないで終わってしまいます。

田中智学さんが良い例ではないでしょうか。

3 逸話の大切さ 

新編妙法蓮華經并開結には、鳩摩羅什の逸話が存在しますね。

法華経の翻訳にも数種類が存在しますし、原典重視の論客もいます。

日蓮大聖人様は鳩摩羅什の焼け残った舌をもって、法華経の真の力用を引き出されていますし、ご自身が身で読まれています。

 

新編妙法蓮華經并開結

新編妙法蓮華經并開結

 

また、日寛上人様の書籍には蕎麦の逸話があります。歴代上人様はいずれの方も、日蓮大聖人様の御内証を受け継がれておりますが、教学の中心に日寛上人様がおられるのは、やはりその逸話によるところが大きいのではないでしょうか。

ご自身が研鑽された成果を書き遺すにあたり、死にざまをもって正邪の判定とされました。お亡くなりになる前に、各所に挨拶をし好きな蕎麦を七箸召し上がられ、御本尊様に自我偈を奉読する中でお亡くなりになったと聞いております。

それは、生前の遺言通りの御遷化であったが故の尊崇ではないでしょうか。

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 
六巻抄

六巻抄

 

4 最後に

信心は信ずる心と書きます。

信は人の言うことと書きます。

証明とか論証とかというのは、あくまで補助的な手段なのです。

哲学者の中には非常に知能の優れた人がいましたが、誰一人としてこの世の秘密を解き明かした人はいません。

現実の証拠を心で感じるしか方法はないのです。

なぜ何もないのではなくこの世が存在するのか?答えた人は居ません。

また、人は死んでしまうのになぜ苦労して生きなければならないのか?答えた人はいません。

頭で考えて答えはでないのです。

日蓮正宗を誹謗する人は大勢いますが、彼らとて、じゃあどうするのだ?聞かれたら日蓮正宗の教学を超えるようなものはなにも持ち合わせていません。

単なる迷いの衆生なのです。

御本仏さまが居なければ、この世は真っ暗闇になってしまうだけ。

それこそ、第六天大魔王の思うつぼです。

必ず功徳を実感できます。

それには、信じることが第一です。信じられなくては元も子もないのです。そして、行です。修行が必要です。その作法もきちんと定められています。学はさらに信心を深めるためのものです。

不思議の妙法を心で感じ取るためのものなのです。

 

創価学会日蓮正宗であったころ、どのようにして批判を破したのかお読みになってみることをお勧めいたします。