【湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり】  生命が変わり、環境が変わり、生活が変わる  慈本寺様御法話

【支部登山とお目通り】
 先週の支部登山は、晴天に恵まれ、常に富士山が見えている状態でした。十二月だというのに汗ばむ陽気で、清々しい登山となりました。
 嬉しいことに、休憩坊の本堂をお借りして、長年奥さんの入信を願っていた方の御授戒まであり、登山に華を添えていただきました。
 日如上人にお目通りを賜り、「広宣流布の一点に、講中が異体同心して邁進するように。」とのお言葉を頂戴いたしました。また、親しく記念撮影まで頂き、最高の登山となりました。
 朝の集合時間が七時半と早く、参加出来ない方が多かった事が誠に残念で、他の講中の方々にもこの感動を味わって欲しかったと強く思いました。
 来年も折伏を完遂して、今年より多くの講員さんと日如上人へ御報告できる支部登山としたいと思います。


【テニスの錦織圭選手】
 さて、テニスをそんなに詳しく知らない方でも、世界ランク「トップ10」に入り続けている錦織圭選手のことは、殆どの方がご存知だと思います。
 『日本経済新聞』(電子版12月9日付)の記事を参照しますと、
 2012年頃の錦織選手は「トップクラス」といわれる世界ランキング20位の壁を破り、安定した活躍をみせるようになりました。しかし、12年は15位が最高。翌13年には11位まで上昇しましたが、どうしても「トップ10」の壁が破れないでいました。
 テニスの場合、超一流の選手は、超一流の元選手にコーチを依頼しています。フェデラーは四大大会6勝のステファン・エドバーグ氏(48才、スウェーデン)を、ジョコビッチが同6勝のボリス・ベッカー氏(46才、ドイツ)をそれぞれコーチに選び、錦織選手は自分に足りない何かを求め、1989年に全仏を制し、世界ランク2位まで上り詰めたマイケル・チャン氏(42、米国)を選びました。
 選手は試合中、戦況が悪くても自分一人で打開策を見つけなければならないからこそ、トップで活躍していた選手ほど試合の流れを読む感覚は鋭く、現役トップ選手も素直にその助言を受け入れやすいそうです。
 錦織選手もマイケル・チャンコーチになって結果が出ています。
 試合をすれば、かつての名選手と言えでも、現役の選手には勝てないでしょうが、トップの選手が、素直にコーチの助言を聞くのですから、結果が出て当然です。逆に、素直に助言を聞けない人は、トップになれないのだと思います。


【人の意見を受け容れる】
 このように「人の意見を素直に受け容れる」というのは、どこの世界でも大事なことだと思います。
 例えば、音楽や絵画などの芸術の世界でも、自信やプライドが邪魔をして、助言を受け付けない人が多いようです。
 職人やサラリーマンの世界でも、もちろん我々僧侶の世界でもあります。
 しかし自分の経験や知識の量、能力には限界がありますし、なかなか自分を客観視することは難しいのです。
 
 落語家の間でよく語られる定義にこういうものがあります。
「この噺家(はなしか)、だいたい自分と同じくらいの上手さだなあ」と感じたら、その噺家は自分よりも数段も上手い人らしいのです。
 さらに、「うわー、この噺家、すごく上手いなあ」と感じたら、その噺家ははるか雲の上の人だし、逆に「この噺家、下手だなあ」と感じたら、その噺家は自分と同じレベルなのだそうです。
 人は自分を過大評価しがちなのです。自分で自分を認めてやらなければ、この娑婆世界を乗り切っていけないということもあるかと思います。

 これもまた、どの分野にも通じます。我々でしたら「噺家」を「信心」とか「行体」に置き換えればいいのです。
「あの人全然信心が無いな」と指差している人と自分は、実は同じレベルなのです。


【得意になって宗門批判をする可哀想な御信徒】
 我々信仰者にとって大事なことは、我見を捨てて師匠の指南に添うべく励むことです。
 最近、法華講員らしき人がインターネット上で、もっともらしく宗門や所属寺院の批判をしていますが、誠に残念でなりません。
 自分の懈怠を正当化するために、「数に追われる折伏や登山はおかしい」などと批判しています。

 大聖人様の教えに、折伏や登山をしなくてもいいという教えはありません。
 大聖人様の鎌倉時代にも、折伏をすると迫害されるので嫌気がさして、「お師匠様、もっと柔らかく法華経を人々に説くことは出来ませんか?私はその方法を研究したいと思います。」と進言し、大聖人様を嘆かせた者がいました。
 また、三位房は比叡山遊学中、貴族に招かれて説法したことを自慢し、
大聖人はその虚栄の心を厳格に叱責されました。それでも、将来の大成に期待されていましたが、生来の虚栄心、慢心に溺れる性格であったためか、ついに悪心を起して大難にあい、不慮の死を遂げてしまったのでした。

 我々は、常に我見を捨て、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の精神で信行に励まなければなりません。もし「何かのせい」にして、自分の力を「出し惜しみ」するなら、そこから堕落(だらく)が始まります。
 しかし、そういう時に「目標の数字」があることによって、みなで力を合わせて進んでいけるのです。そして、人の折伏成就を心から喜び、応援し、供に祈れる境界になれるのではないでしょうか。

 登山も、様々な事情で支部登山に参加できない状況の方もいますが、平日の添書登山に、希望者が四、五人揃えば私が連れて行ってあげます。
 道中の健康やトイレに不安を感じている方もいるようですが、そういう時に参加し、「登山しようと努力する」ことが大切です。 
 登山の道中で死ねるなら、これ程の歓びは無い位の気概を持って下さい。死にはしませんから。
 実際、登山できなくても、本気で決意し、半歩でも登山に近づく努力を継続している人には大きな功徳がありますし、逆に小さな理由で、一度登山を諦(あきら)めた後、そのままどんどん怠けてしまうと、功徳も無くなります。
 他人のことをとやかく言う前に「自分にできる努力」を行う事が大切です。そうすれば、自ずと「支部目標に貢献」し、自分の境界も上がっていきます。


【唱題のための唱題では何も叶わない】 
 ありがたいことに、日如上人猊下様が、具体的な信心の目標を示して下さっているのですから、我々は御本尊様に強く祈って、目標達成の為に必要な行動をすれば必ず結果出るのです。
 まずは、自分が変われるように祈ることです。変わろうと決めて、祈って動けば結果はでるのです。
 唱題しながら「願ってはいるけれども、無理だろうな。」と祈っている事はありませんか?これでは御本尊不信です。
 折伏に限らず、仕事や健康や人間関係など全てです。半信半疑で祈って叶うわけがありません。
 御書に、
「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(御書718頁)
とあります。「湿った木を燃やしてみせる、乾いた土から水を出してみせるという気概で強く祈るんだよ」と仰せなのです。

 同じ信心をしていても、功徳を受けてどんどんよくなる人、全然変わらない人、悪くなる人がいます。
 どこで差が出ると思いますか?

 ・歓喜と感謝で信心をしている人
 ・惰性と義務で信心をしている人
 ・不信と怨執(おんしつ)で信心をしている人
 この三種類の人が、同じように勤行唱題をしても、顕れる果報は全く違ってくるのです。

「住職や役員に怒られるし、罰が怖いからやる」では、信心が苦しくなります。そして、見放されて怒られなくなったり、命が濁って罰すら感じられなくなれば、自然と信心が続かなくなります。
 また、何時間唱題しても、不信ならば功徳はありませんし、どんなに頑張っても信心のことで愚痴と文句を言えば功徳はありません。
 いくら「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っても、愚痴と文句で自分の境界は開けません。
 功徳を受けたい人は愚痴と文句をやめることです。同志に怨嫉をすると功徳はありません。
「四恩」を知り御本尊様に御題目を唱えることで「怨嫉」は心から消滅させることが出来ます。「怨嫉」が生まれると相手に原因があると錯覚を起こしますが、自分自身の己心(こしん)の魔や師子身中(しししんちゅう)の虫が操っていることを覚ることが大事です。素直な信心をすれば明らかに見えるようになります。
 怨嫉する理由が何であっても、同志であれば罰が当たります。相手が間違っていれば、相手は因果の理法で御本尊様より裁かれます。人が裁くのではありません。法が裁くのです。
 私達は、とにかく相手の成長を祈ってあげることが肝要です。そうすれば自分も相手も良くなります。

 日蓮大聖人は、
「此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ」(御書1362頁)
と仰せられ、同志間では、どんなに不本意な事や不愉快な事があったとしても、それを見ないように、聞かないように、言わないように努め、仲良くして行きなさい。と言われております。
 さらに、
 「忘れても法華経を持つ者をば互に毀(そし)るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」(御書1047頁)
のお言葉は、常に自分に言い聞かせて下さい。

【信心に確信を持つには】
 誰しも自分が体験した功徳は疑いようがありません。功徳の体験があれば信心が深まって、さらに精進できます。
 体験がない信仰はただの観念ですから、何かあったら疑ってしまうのです。
 皆さんの子供さんはどうでしょうか?御本尊様のある家に生まれてくるのですから、過去世には相当福徳を積んでいたはずです。また、両親をはじめ家族の功徳に護られて育っているので、人間性が良い人が多いのです。
 しかし、何となく信仰している子供は体験がなく、信心が観念的になっています。やらされている信仰だから、自我が目覚めてくると重荷で苦しむのです。
 子供に勤行を強制して通じるのは、小学生までです。ただ「やれ」ではなく、何の為に信心をしているのか納得できるように教えていないと、信心嫌いになってしまいます。
 子供にもそれぞれ悩みはありますから、信心を教えるのは大事です。「こう祈れば絶対に乗り越えられるよ。やってごらん。」と教えればいいのです。
 ふてくされている子を無理矢理横に座らせて拝ませても功徳はありません。

 我が講中を見ても、何とか子供さんに仏縁を付けさせてあげよう、功徳を付けさせてあげようと、御供養や塔婆供養を子供さんの名前でしていらっしゃる方がおります。
 親心を感じますし、確かに功徳もありますが、成人した立派な社会人であれば、自分で御供養や塔婆供養をすることを教えてあげるべきです。
 どうしても、親の方が子供より先に亡くなってしまうのが世の常です。
 それらの実践を通して、御本尊様の功徳を必ず体感出来るのです。


【新たな御命題に向かって】
 先日、「秩父夜祭(ちちぶよまつり)」がユネスコ国連教育科学文化機関)の無形文化遺産への登録が決まりました。
「山・鉾(ほこ)・屋台行事」の一つらしいですが、広宣流布への障害が新たに出来たと感じました。
 祭りへの破折や、不参加を表明すれば「世界遺産登録」を盾に攻撃されると思いますが、こういう時流だからこそ、毎年の折伏目標をきちんと決めで、祈って努力して工夫して励むことこそが信心なのです。
「こんな御時世で折伏達成は無理」では御本尊不信になってしまいます。「だからこそ具体的な目標を決めて祈ろう!」というのが信仰ではないでしょうか。
 
 私達日蓮正宗の僧俗は、「今生人界」において、「何を目標として生きなければならないのか」明確な答えを末法の御本仏日蓮大聖人様より頂いています。
 世間の大多数の方が、「真の生きる意味も」知らず、誤った宗教に影響され、煩悩のまま無為に人生の貴重な時間を過ごしているのとは大違いです。
 そして、信心に行き詰まると、人生に行き詰まってしまいます。信心に行き詰まりの無い人は、人生に行き詰まることはありません。
 なぜなら、常に「生命を変革し、環境を変え、生活を変えることが出来る」からです。
 御書に、
「喜び身に余るが故に堪へ難くして自讃するなり」(734頁)
とあります。
 御本尊様がありがたく、嬉しくてしようがないからつい「日蓮大聖人様の仏法はすごいよ」と言ってしまう。これこそが本当の折伏ですし、皆さんも素直に、ひたむきに信心をすれば、そういう境界に必ずなれます。
 本当に皆さん一年間ご苦労様でした。
 そしてまた、来年の新たな目標に向かって、異体同心で頑張っていきましょう。

                        住 職 小橋 道芳

 

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