悦可衆心(えっかしゅうしん)の人生  慈本寺御住職の法話より

【始めより終わりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし】

 皆さんが朝晩唱える法華経『方便品』のなかに、「如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。(如来は能く種々に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ)」と説かれています。
 これは、仏は優しく穏やかな言葉をもって、人々を悦ばせるという意味です。仏の言葉は、聞く人を素直な心にし、悦びで満たすことが出来るのです。
 我々も日々心がけたいものですが、ただしお世辞を言うことではありません。
 御本仏日蓮大聖人は、御書のなかで、末法の衆生を救済するために様々な御教示されています。私たちがその御教示のままに実践していくならば、必ず大功徳に浴し、生命に歓喜が満ちて、人生を力強く歩むことができます。
 どんなに厳しい状況にあっても、御本尊に唱題するなかでそれをすべて喜びに変える、それが信仰の極意であり、自分のみならず、他の人をも「悦可衆心(えっかしゅうしん)」とする人生となるのです。


【世法の喜び】
 人は願望として、毎日あくせく働かずに、美味しいものを食べ、旅行へ行ったり映画を見たりと楽しいことをして、面白おかしく暮らせたらどんなに幸せだろうかと夢を見たりするものです。
 しかし、これが毎日でしたら果たしてそう感じるでしょうか?
 いくら美味しいものでも、同じメニューを毎日食べ続ける事は出来ませんし、医学的にもやめた方が良いです。
 楽しいはずの毎日が、かえって、憂いや苦悩、倦怠感にさいなまれる事でしょう。
 人は働いて、なにがしか世の中の役に立ってこそ一人前の人間と認められますし、そこに自分の価値を見いだすものです。

 話はそれますが、世の中には若くて健康であるにも関わらず「自分に合う仕事がない」と働かずに引きこもる人が大勢います。
 まずは、理屈をこねる前に、とにかく仕事に就くべきです。働けば友人も出来ますし、人からも信頼されます。働きながら、自分に合った仕事を探せばいいのです。
 まだ、家事手伝いをしていればマシですが、部屋から一歩も出てこないような人もいるようです。これは、家族にも責任があります。誰だって餓死したくありませんから、お腹が空けば部屋から出てくるものですが、部屋の前まで食事を運んでいては引きこもって当然です。

 実家の近所に、引きこもりの五十歳を過ぎた一人息子を抱える家がありました。そこの御主人が亡くなり、将来を悲観した奥さんが自死してしまいました。すると、さすがにその息子さんも、今では働きに出ているというのです。なんともやりきれない話ですが、現代ではそんなに珍しくもない話かも知れません。
 当たり前の人としての営みが難しくなった世の中では、世間的な歓びを感じることでさえ難しい面がありますが、それらを凌駕する仏法における真の大歓喜は存在するのです。


【信心の歓喜】
 総本山第26世日寛上人は、
「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫(しばら)くも此本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕れざる無きなり(観心本尊抄文段上 御書文段189頁)
と、素直な信心をもって唱題に励む人は祈りが叶い、福徳が積まれる等、大きな歓喜につながることを御指南されています。
 ところが、いくら信心をしているといっても、その歓喜がだんだんと薄れてきたり、信心そのものが苦痛になったりする場合もあります。
 なぜなら『法蓮抄』に、
「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見るなり。たとへば餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随て見るところ各別なり。」(御書819頁)
と説かれているように、同じものを見ても、境界の違いによって価値観に種々の違いが生じてくるからです。
『法華題目抄』に、
「謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。」(御書221頁)
と説かれています。
 仏の教えに背いた謗法の心からは真の信仰の歓喜は生じません。御本仏大聖人の教えにしたがってこそ、信仰の歓喜が生ずるのです。
 また、大聖人様は『松野殿御返事』に、
菩提心を発(お )こす人は多けれども、退せずして実の道に入る者は少なし。都(すべ)て凡夫菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。」(御書1048~9頁)
と、往々にして信心の持続が難しいのは、悪縁にたぶらかされ、事にふれて移りやすいためであると仰せられています。
 かつて御法主日顕上人猊下は、
「お題目を唱える功徳によって、過去遠々劫の謗法罪障を消滅し、心と身体が本当に清浄になり、自然と喜びと安楽の境界になっていくのです」(大日蓮H8年1月号42頁)
「『南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり』という大聖人様の御指南をかみしめていただいて、お題目を唱えることこそ一番の楽しみであり、喜びであるということを真に感じていただきたいと思うのです」(同)
と御指南されました。
 題目を唱えられることが何よりもありがたく、一番の楽しみであり、喜びであると感じられるような信心でなければ、安楽な境界になれません。唱題の心構え一つとっても、実に深く厳しいものがあります。 


【信心の醍醐味】
 日蓮大聖人は、
「人身は得難く、天上の糸筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値(あ )ひ難き仏教を見聞しつ、今生をもだし(黙止)て又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき」(聖愚問答抄下 御書402頁)
と御教示されています。
 つまり、得難き人界に生を受け、会い難き仏法に会いながら、いたずらに日々を送ることほど愚かなことはない、との仰せです。

 入信当初は、誰もが直面する悩みや苦しみを乗り越えるために真剣に祈り・唱題をするものです。その結果、願いが叶い、そこに自ら信心の歓喜と御本仏への報恩感謝の気持ちが涌いてきます。
 病気に苦しむ人はその病を治したいと願い、経済苦に悩む人がそれを打開したいと願うのは当然のことであり、仏法はそうした欲求を否定するものではありませんし、そうした現在の苦しみも必ずその功徳によって開かれていきます。
 しかしまた、正しい信仰はむやみな欲望を満たすためのものではありません。
 大聖人様は、すべての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに、過去世の罪障を消滅し、今世のみな
らず未来永劫(みらいえいごう)にわたって清浄な幸福境界を確立することが「真実の利益」であると教えられています。
 ところが、年数が経ってくると、ついつい初心を忘れてそこに安住してしまい、さらなる前進を怠りがちになってしまいます。
 日蓮大聖人は、
「始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みを運びて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め侯べき。」(新池御書 御書1457頁)
と御教示されています。
 私たちが御本尊に巡り値えたのは、ひとえに過去世に積んだ善根によるものであること確信して、常に求道心を持ち続け、生涯にわたって怠りなく信心の歩みを運ぶことが肝要です。
 それによって、やがて人の幸せのために生きること、折伏を行ずることが人間としての本当の生きがいであり、真の幸せであり、最良の喜びであると感じられる境界へと高まっていきます。
 もし、そんな気持ちには全くならないと言う方は、その事を真剣に悩んで祈ってください。
 そうすることによって、いよいよ本物の信心が磨かれていくのです。
 近年、日本はもとより世界中で大災害が頻発していますが、多くの法華講員が仏天の加護をいただいています。
 日蓮大聖人は『治病大小権実違目』にて、
「彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人のすくなき故か。又御信心の強盛なるか。」(御書1237頁)
と示され、仏天の加護が厳然とあることを仰せです。
 私は、世界の災害・テロの模様や被害の状況を見るに付け、「この国が、この人達が日蓮正宗に入信していればよかったのに…」といつも思い、世界広布へ思いを馳せます。
 私たちはこの大聖人様の御金言を堅く信じ、より一層、広布への決意に立ち、喜びをもって唱題していきましょう。
 正しい信仰者には、こうした災害時のみならず、さらには生活の全般にわたっても、仏天の加護が厳然とあることを忘れてはなりません。

 

病によりて道心はおこり候―祈りは必ず通じる (法華講員体験シリーズ)

病によりて道心はおこり候―祈りは必ず通じる (法華講員体験シリーズ)

 
悪変じて善となる―変毒為薬の実証明らかに (法華講員体験シリーズ)

悪変じて善となる―変毒為薬の実証明らかに (法華講員体験シリーズ)

 
御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

 
信仰の寸心を改めて―改宗して本当に良かった! (法華講員体験シリーズ 4)
 
祈りとして叶わざるなし―なんとしても折伏させてください (法華講員体験シリーズ)

祈りとして叶わざるなし―なんとしても折伏させてください (法華講員体験シリーズ)

 
大願とは法華弘通なり―地湧倍増は折伏にあり! (法華講員体験シリーズ 3)
 
広宣流布の時なり―世界に広がる折伏の息吹き (法華講員体験シリーズ 5)