まずは、ドストエフスキーから始めてみよう

  

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

人生や信仰に疑問を持っている人は、ドストエフスキーの作品を読むことから始めればいい。

信仰に疑問を持った人々の苦悩が描かれているから。

古典であると同時に、第一級の犯罪小説。ストーリーは他のレビューなどにも書いてあるので、ネタバレにならないと思い、本レビューに必要な範囲で書くが、主人公のラスコーリニコフ(学生)は、殺人を論理的に正当化し、その標的として金貸しの老婆を選び、実行する。そのときに、偶然居合わせた老婆の妹も成り行きで殺してしまい、罪の意識にさいなまれる…といったもの。こう書いてしまうとそっけないが、検察官(注:主人公とヒロインの名前しか覚えていないので、その他の登場人物の名前は省略)が主人公を次第に追い詰めていき、読んでいるほうは、「検察官がどこまで確証を得ているのか、いつ逮捕するのか」とハラハラドキドキさせられる。それと並行して、主人公の妹と金持ちで中年のストーカー(?)との対決、主人公と娼婦のソーニャとの恋(といっても恋愛話らしい話ではない)など複数のストーリーが展開されていく。
 ドストエフスキーの小説は、文庫本になっているものはほとんど読んだが、この『罪と罰』に出てくる主人公が一番強烈で、小説の冒頭では、主人公が、自分の住まいから金貸しの老婆の家までの距離を歩数で数えている場面が描かれる。老婆を殺害するためのリハーサルであり、抜け目なさ、完璧主義、神経質という印象を受ける。
 そして、「一人の老婆を殺し、奪った金で大勢の人が助かるのであれば、実行すべきだ」という考えのもとに、計画を綿密に立てて殺人を実行する。
 このように書くと冷徹な人間のように思われるが、一方で、火事になった家から子供を救い出したり、家族からは慕われていたりして、悪い奴ではない。
 また、学生としては優秀だが、金もなければコネもない。屋根裏部屋に下宿し、貧しくて食事もろくにとっていない。「天井の低い部屋は精神を圧迫するよ!」と、一人のたまう。
 そして、常にくさくさしている。
 たとえば、くさくさしているときに、「もっとくさくさしてやれ。」と言って、あえて街中の人ごみのほうに向かっていく。また、唯一の友人を街中の人ごみの中で見かけたときに(話すのが面倒くさくて?)気づかないふりをして、友人のほうもそれに気づいて、見て見ぬふりをする。(読んでいるほうは「なんなんだ、こいつらは。知り合いなら一言くらい、声をかけろよ。」と思わされたりする。)
 こんな調子でありつつ、検察官と一歩も譲らない対決をしている中で、貧しいがゆえに家族を養うために娼婦になったソーニャに出会い、その優しさにふれて、次第に主人公は変わってゆく。どう変わってゆくか、また、逮捕劇の結末は、小説を読んでのお楽しみ。

 小林秀雄の批評が的を得ている(し、なんか、かっこいい)ので、以下、引用する。
 「これは、いかに生くべきかを問うた、ある『猛り狂った良心』の記録である」「ただ『葦(あし)』であるには『考え』がありすぎ、ただ考えるには葦でありすぎる」「ラスコーリニコフの影は、一切の人間的なものの孤立と不安を語る異様な背景を背負っている。・・・聞こえる者には聞こえるであろう。『すべて信仰によらぬことは罪なり』(ロマ書)と」

  

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

 

 ロシア社会に混乱を引き起こそうとする地下組織。その結束を図るため、脱退者を殺害したという「ネチャーエフ事件」の史実を元に、ドストエフスキー無神論的革命思想の成立過程およびその影響について探究した作品。
この作品は、土地の有力者ワルワーラ夫人、その住み込みの家庭教師ステパンがそれぞれ、虚無と悪徳に憑かれた主人公スタヴローギン、その腹心ピョートルを産み出してしまう設定になっています。若い二人の教師であったステパンの愁いが、現行の秩序や神の存在についての疑義につながり、そんな教師をもった生徒たちがニヒリズムに突っ走る結果になるというのは、作者のロシア社会に対する皮肉でしょう。つまり、作品の根底に、ロシアにおいて、無神論はどこから生まれて来たのか、というドストエフスキーの問題意識があるのです。当時のロシアは、農奴解放令によって旧秩序が崩壊し、動揺と混乱の只中にありました。激動の中人びとは新しい秩序を模索しますが、無神論ニヒリズムに基づく行動規範は混乱を深めるだけです。ドストエフスキーは、信仰をもたない人間は、生き方の倫理的基盤が定まらず危うい、とこの作品で痛切に批判しているのです。その問題意識自体はきわめて現代的ですが、キリスト教の信仰という回帰する場所をもたない人は、この本を読んでますます途方に暮れることになります。
ドストエフスキー存命中は、この作品を理解するうえでもっとも重要と思える「スタヴローギンの告白」の章が、何度も書き直したうえでも作者が納得しなかったため、結局削除されていました(邦訳では、巻末に収録されているので読むことができます)。その一件でも分かるように、この作品は相当難産だったようで、文中から作者の苦しみが伝わってきます。「罪と罰」などと比べると、読みにくく難解であることを覚悟して取りかからなければならない本です。

 

白痴 (上巻) (新潮文庫)

白痴 (上巻) (新潮文庫)

 

 「あの人は良い人だ。だから、私はあの人が好きなんだ。」
あなたは、他の誰かさんについて、こんな風に思ったことがありますか? もしそうなら、この主人公、ムイシュキン公爵のこともきっと同じように、いや、もしかしたら、その誰かさん以上に好きになるかもしれません。「世界をひっくり返すほどの」美貌と、恐ろしいほど深く傷ついた心をあわせ持つヒロイン、ナスターシャも、公爵に「生れてはじめてほんとの人間を見ました」と告白します...
極端な話ですが、たとえ『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』がこの世に存在しなくても、ドストエフスキーは、「無条件に美しい人」を描こうとしたこの長編だけで、世界文学史に第一級の天才としてその名を輝かせていたでしょう。超・善人の主人公を中心に、一癖も二癖もある表情豊かな美女達と、彼女たちにすっかり目が眩んだ男達がおりなす、波瀾万丈のラブ・ストーリー。いわく言い難いとぼけた味の脇役達も、それぞれ個性的なやり方で盛り上げてくれます。一体、最後は、どうなるのか? ワクワク、ドキドキして、一度読み出したら途中でやめられない、エンターテインメントとしても素晴らしい作品。それでいて、読者が忘れかけていた、人生にとって大事な何かを、じわぁっと温かく思い出させてくれる力を持った不思議な本です。
あの黒澤明監督が、どうしてもどうしても映画にしたかった、という、この人の心の美しさの極限世界に、あなたも一度どっぷりと漬かってみては如何ですか?

  

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

存在している全ての小説を読むことは不可能だが、これを読むことは可能だ!

という理由でとにかく読むことをお願いしたい。お奨めではない、要求と言っていい。

小説など読む時間がないという人ならなおさらだろう。読まずに死ぬのはあまりにもったいない。

この作品は、おそらくとしかいえないが、映像化、漫画化など他のメディアへの変換が、

映像技術の進歩に関係なくほとんど不可能であり、また無意味でもあるため、今後もこの作品

に近づきたければ、小説としてそのまま読むしかない!

トルストイと異なり、ドフトエフスキーは小説の形式でしか可能でない表現で作られているので、映像化などは極めて難しいのだ。

黒澤も「白痴」で失敗している。フェリーニも愛読していながら、ついに手がけなかった。

だが、読むだけのことはある。読んだ充実感は他を圧倒する。しかもおそろしく面白い!

娯楽小説としても一流だ。ただ、悲しいことに当時のロシアにとっては、読む人に身近だった内容が、

現代に生きる日本人にとっては身近ではないため、近づきにくいことだけは確かだ。

だが、ここで語られる内容は今もなお、不気味な啓示として光り輝いており、読む人の心を強く打つだろう。

山のように小説が作られ、様々な表現手法が編み出されたが、20世紀にはついにこれ以上の小説は生まれなかったと思っている。

21世紀は是非ともこれを超えるものを誰かかいて欲しい。それくらい読むべき作品だ。