フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

血脈相承が信じられないという創価学会・顕正会・正信会に属している方へ

日蓮正宗内において異流儀と呼ばれる団体は、それぞれが自己の正当性を主張し互いに憎みあい、誹謗中傷しあっていますが、結果的には血脈相承の否定という1点については共通しています。一度、心に刷り込まれた疑いは先入観となり、根強く不信謗法の種として残ってしまい、日蓮正宗への帰依を妨げる因となっているのではないでしょうか?

血脈相承につきましては、信徒の立場としては知りえないことではありますが、創価学会をはじめとする異流儀に迷わされた人々を救いなさいとの、日如上人猊下様の御命令もございますことから、それらの方々の疑念を晴らすという折伏の精神に則り、悪知識の縁を断ち切るお手伝いになればと思い、以下に記させていただきます。

①.創価学会が、日顕上人の血脈を否定する拠り所・・・「山崎手記」

創価学会が、日顕上人への血脈相承を否定する拠り所としている『法主の大陰謀』という本の内容は、山崎正友・元学会顧問弁護士の手記・・・いわゆる「山崎手記」をもとにしているといいます。

「山崎手記」では、日達上人が、次の法主を阿部師(日顕上人)に指名したこと(内付があったこと)は明らかだか゛、公に御相承の儀式がされた形が見当たらないとして、日顕上人の血脈の正当性を否定していました。

後に山崎氏は、自らの誤りに気づき、日顕上人の血脈の正当性を理解、反省ざんげし、本宗信徒に復籍しました。

②内付(ないふ)が血脈相承の本当の意味

日蓮正宗において、血脈相承の本義(本当の意味)は、一人の上人から一人の上人への唯我与我(ゆいがよか゛)の秘伝であり、これを内付(ないふ)といいます。

宗祖から日興上人、日興上人から日目上人、日目上人から日道上人、またご歴代先師がたの多くのご相承が内付のみであり、公の儀式は伴っていません。このことから、むしろ、公の儀式を伴わない“内付”という在 り方が基準と拝せられるのです。日目上人から以降は、証書を伴わない事例すら、数多くあることから、公の儀式の有る無しは血脈相承には重要な事柄ではないということが理解できます。

血脈相承において大切なのは、あくまでも御相承を与えるべき付弟(ふてい)を選ぶ“師のご意志”であり、それが明確であれば、必ずしも公の儀式や証書は必要ないのです。

日顕上人に反抗する意味で書かれた「山崎文書」ですら、日達上人が次の法主日顕上人を選ぶご意志のあった証として“内付”の事実があったことは明確に書かれているのです。


③昭和53年4月15日のご相承(内付)について

創価学会では、昭和53年4月15日は、日達上人の誕生祝賀会があったため、あわただしい一日であり、相承 という最重要の行為をする時間の余裕などなかったはず」と言っています。

歴代上人のたった4つの例をあげて、「ご相承の儀式には1時間以上の時間がかかるはず」と言っていますが 、念のため申し上げますと、4つの例は、いずれも公の儀式の記録です。

日顕上人は、公の儀式があったと言われているのではなく、 “内付”があったと言われているのです。

そして、日顕上人に反抗する立場で書かれた「山崎手記」や、側近の僧侶の話など複数の事実からも、“内付”があったことは確実ですし、公の儀式よりも“内付”にこそ血脈相承の本義(本来の意義)が備わっているということから、日顕上人の血脈相承は全く正当なものなのです。

また、当時、日達上人の奥番をしていた早川検道師は、

「昭和53年4月頃を境としてそれ以後、日顕上人が本山へ来られた時など、日達上人は、日顕上人を対等に遇されるようご指示されていた」

と語っていたとあります。

そのほかにも、この53年4月以降、地方へご親教(法主上人が末寺で法話される)の際などにも、時間の合い間をみつけては、日達上人が、阿部師(後の日顕上人)に「花押」の書き方等をご指南されているのを拝見 した、と随行した役僧が述べています。

これらのことは、その頃に“内付”があったという話に合致しています。


④内付・・・ご相承の受け継がれる形について

一言で“内付”と言っても、ご相承の受け継がれる形には種々あって、必ずしも一時に甚深のご法門が口伝 される、ということではないといいます。

これについて日顕上人は、

「ご相承の法門が受け継がれる形には、日常の師弟相対・常随給仕の中で次第にご法門が伝授されていく場合や、また一時に甚深のご法門が口伝される場合や、ご法門をしたためられた金紙(こんし)が伝承せられる場合など、さまざまな形があって一様ではない。」

と言われております。(平成4年8月28日のご講義より)


⑤山崎氏が日顕上人に帰伏  根底から消し飛んだ疑難

さて、この疑難の起点となる手記を書いた山崎弁護士のことですが、氏は、平成6年秋になって、ご相承に関する日顕上人猊下ご講義等を拝する機会を得、再読再思した結果、かつての自らの考えの誤りに気づき、深く反省懺悔して、正宗信徒に復籍しました。

以下は、山崎弁護士の言葉のままです。

「微妙深遠な問題であり、また、私共凡下が窺(うかが)い知るべくもない事柄も多々あるために、難解で婉曲なご表現の部分もあったが、くりかえし読ませていただくうちに、ご相承の伝えられる形についての、私の疑念は氷解していった。」

「私は、日顕上人猊下のご相承について否定した『週刊文春』掲載の見解は、認識不足であり、大きな誤りであった、との結論に達した。

また、今日の状況をふまえるならば、やはり根底において、日顕上人猊下は日達上人と同じご境界にあられる、と拝察するものである。

ともあれ、いかなる理由や心情があろうと、信者の立場で“ご相承”を云々(うんぬん)したことは、はなはだ僭越(せんえつ)なことであり、深く反省し、お詫(わ)び申し上げる次第である。」

「私も含めて、(昭和55年当時の)学会問題についての対処法への不満によって、(正信会として)ご相承をも疑い、大石寺から離れる結果となったことについては、個々の信心を大いに反省しなくてはならない。」 (『慧妙』平成7年2月16日号)

この山崎氏の反省懺悔に対し、日顕上人猊下は、大慈悲をもって本宗信徒への復籍を許された。ここに、いわゆる山崎手記を拠り処とするご相承への疑義は、大本である筆者・山崎氏本人の帰伏という事実をもって、跡形も無く消し飛んだのです。

昭和53年4月15日に、日達上人から日顕上人へのご相承の内付が、日顕上人の自己申告でないことは、山崎文書にも明らかに書かれてあります。

日蓮正宗では、血脈相承の公の儀式の無い場合も多く、血脈相承の本来の意義が一人の上人から一人の上人への内付であることから、日顕上人の血脈も正当なものであることをご理解ください。


⑥血脈相承・・・総別の二義について

血脈相承には総と別の二つがあります。総は総付属の略で、別は別付属の略です。はじめに総別の意味の違いについて説明します。

総別の意味の違い
 
血脈相承には総付属と別付属の血脈相承があります。 

総付属の血脈相承は、宗祖大聖人ならびに開山日興上人の弟子である者は一人として受けない者は無い。とご文にあります。つまり、信心する全ての僧俗が受けることのできる血脈相承です。この「総付属の血脈相承」を「法門の血脈相承」とも、「信心の血脈相承」とも言います。
   
「別付属の血脈相承」は、「法体の血脈相承」と呼ばれます。別付属(法体)の血脈相承を受けた師を真の唯授一人正嫡(しょうちゃく)血脈附法の大導師と言うのである。とご文にあります。
「別付属の血脈相承」 別名「法体の血脈相承」は、代々の法主上人のみが受け継ぐ血脈相承です。
   
ご文には、法門総付属の血脈相承を受けた者は、終(しま)いには、法体別付属の血脈相承の意味に迷い、自分勝手な意味を捏造(ねつぞう)して、宗祖・開山の正しい教えに背(そむ)く。とあります。
第56世日応上人は、『弁惑(べんなく)観心抄』に、

「唯授一人嫡々血脈相承にも別付(べっぷ)総付(そうふ)の二箇(にか)あり、その別付とはすなわち法体相承にして総付は法門相承なり、而(しか)して法体別付を受け玉(たま)ひたる師を真の唯授一人正嫡 (しょうちゃく)血脈附法の大導師と云うべし。

また法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人(いちにん)として之を受けざるはなし。

蓋(けだ)し法門総付を受けたる者は、遂(つい)には所信の法体に迷惑して己義(こぎ)を捏造(ねつぞう )し、宗祖開山の正義(しょうぎ)に違背す。」 (同書211ページ)

と説かれました。

<通解>

「唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付(総付属・別付属)の二つがあり、別付とはすなわち法体の血脈相承のことであり 総付とは法門の血脈相承のことである。そして、法体別付属の血脈を受けた師を真の唯授一人正嫡(しょうちやく)附法の大導師と言うのである。

また、法門総付属の血脈相承は、宗祖・開山の弟子旦那である者は、一人としてこれを受けないものは無い。

おそらく、法門総付属を受けた者は、終(しま)いには自己の信ずるところの法体血脈の意味に迷い、己(おのれ)ででたらめな意味を捏造(ねつぞう)して、宗祖・開山の正しい教えに違背するであろう。」


⑦法体の血脈相承について・・・

大聖人の法体を、最初に血脈相承されたのが日興上人です。日興上人に受け継がれた法体が、代々の法主上人にも受け継がれているのです。

法体の血脈相承により大聖人のご内証の法体を所持された法主上人にして初めて、大聖人の甚深のご法門を正確に拝することができるのです。

法体の血脈が、大聖人から日興上人へ受け継がれた証が下のご文です。


日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。

 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。

 時を待つべきのみ。事の戒法と謂(い)ふは是なり。

 就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。

   弘安五年壬牛九月 日   日蓮花押    血脈の次第 日蓮日興」 (『日蓮一期弘法付嘱書』)

 

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺別当たるべきなり。

 背(そむ)く在家出家共の輩(やから)は非法の衆たるべきなり。

   弘安五年壬牛十月十三日武州池上 日蓮 花押」 (『身延山付嘱書』)
大聖人のご内証は、本門戒壇の大御本尊としてご図顕されました。

法主上人の法体の血脈相承は、代々受け継がれてきた大聖人のご内証とともに、本門戒壇の大御本尊も併(あわ)せて相承します。

それ故、法体を受け継いだ法主上人は、ただ一人、御本尊を書写する権能を持っているのです。

法主上人とは、『御本尊七箇之相承』にありますように「代代の聖人悉(ことごと)く日蓮なり」というご内証 ・お立場の方なのです。

 
血脈相承について大聖人は、

「これには総別の二義あり。総別の二義少しも相(あい)そむけば、成仏思いもよらず、輪廻生死のもといたらん」 (『曽谷殿御返事』)

と仰せです。

このご文にあります「これには総別の二義あり。・・・」の総別とは、「総付属」と「別付属」のことです。

日蓮正宗の僧俗が、大聖人からの総付属の血脈を受けるには、別付属の血脈の流れる法主上人を大聖人のご代官としてそのお言葉のとおりに信心することが必要なのです。

上のご文には、総別の意味に背くことがあれば、成仏もできない。とあります。

総別の意味の違いをご理解ください。

⑧かつての創価学会の指導を写したもの

以下は、かつての創価学会の指導を写したものです。

「昨今、こともあろうに、唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈付法を否定せんとする一部の輩(やから)の策謀(さくぼう)がみられることは、御開山上人の厳格(げんかく)・清浄(しょうじょう)な正法護持(ごじ)の御精神に照らして、断じてあるまじき所業でありますと」 (『広布と人生を語る』第三巻七二頁)

日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じにみえるが、それらには唯授一人・法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈がない。法水瀉瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持(たも)つも無益(むやく)であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである」 (『広布と人生を語る』第八巻二二八頁)


日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。創価学会は御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」 (『広布と人生を語る』第三巻三二頁)

 
「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告(けんしげんごう)』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである」 (『広布と人生を語る』第一巻二三○頁)
 

「今日において、歴代の御法主上人を日蓮大聖人と仰ぐのが、日蓮正宗の信心であり、学会の伝統である。
法主上人を『軽(かろ)しむ』ようなことがあれば御書に照らしても堕地獄(だじごく)は疑いない。私共は、何があろうと、御法主上人の御指南のままに邁進(まいしん)し、僧俗和合を築いていくことを確認しておきた い」 (昭和五十五年十一月二十六日 学会創立50周年記念幹部登山・北條浩会長指導)

「仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解(しんげ)していない証左なのである」 (『広布と人生を語る』第三巻二九四頁)

日蓮正宗の根本たる御法主上人を訴えたという、この一事だけで、もはや一切が崩れさったことを物語っている」 (『広布と人生を語る』第三巻二一二頁)

「日達上人御遷化(せんげ)の後、御当代御法主上人を非難している徒がいる。私は命を賭(と)して猊下をお護り申し上げる決心である。彼らは、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤(しった)しておきながら、いまは手のひらを返して、みずからがその根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい」 (『広布と人生を語る』第三巻一四三頁)

他宗日蓮宗や異流儀との対論には、宗内通俗問答大意が一番の勉強になると思われます。現代語訳も出版されているようですので、ぜひご一読をお勧めします。

宗内通俗問答大意

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