フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

信仰は実践なり【法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまず呼ばわり給ひて御覧ぜよ】 慈本寺御住職の法話

【正法を人生の中心に】
 日蓮正宗の信仰において、謗法厳戒(ほうぼうげんかい)ということと、折伏を行うということは欠かすことの出来ないとても大事なことです。
「謗法」とはとは「誹謗(ひぼう)正法」、つまり「正法を誹謗する(=そしる)こと」です。仏法をそしり、真理をないがしろにすることを言います。
 せっかく仏道修行に励んでも、謗法があれば、功徳があるどころか、積んだ福運も消してしまい、不幸の原因を作っていくことになるのです。
 日蓮正宗の場合、十四誹謗など大聖人様の教えに背く行為は全て謗法と言えます。この十四誹謗を大別すると、
①大聖人様の教えに対して驕(おご)りと侮(あなど)りの心をもち、正法をどこまでも謙虚に学んだり求めたりしないことは罪である。
②正法正義を受持し、信行に励む者に対して、怨嫉(おんしつ)や誹謗をすることも罪である。
という二つに分けられます。
 こう教えられますと、「そんな厳しいことを言う教えなら、日蓮正宗に関わらなければ良かった。」と思う方もいらっしゃるかも知れませんか、真理は一つであり、我々が根本的に救われ成仏出来る法、世界中を仏国土に変えていける法は一つなのです。
 大聖人様の教えは、自分の幸せのみを説くのでは無く、世の中のあらゆる人々を救っていこうという広大なる慈悲の教えです。また、自分の過去世からの罪障を消滅させ、過去何代にもわたる先祖をも即身成仏させることを説く教えです。
 よって、世間的な自分本位のゆるい感覚で仏様と関わるのでは無く、大聖人様の教えを全ての思考と行動の規範として自分の人生の中心に置いて実践し、はじめて仏力・法力を賜ることが出来るのです。

 

ashuhokkekoshu.hatenablog.com

 

【因果を無視してはいけない】
 今、私達は折伏の実践を軸として、信心に励んでいます。
 私達が折伏を行ずる時に、信心をして欲しい一心で、相手にいいことばっかりを言うのであります。
「病気が治りますよ。家庭も円満になりますよ。悩みは解決します。」などと、功徳ばかりを述べて折伏をします。確かに、功徳は厳然とあります。
 この信心を全うしていくならば、過去の罪障を消滅し、現在の自分の生活や悩みや苦しみを打開して、未来にわたっての幸せを開拓していけます。
 しかし、それだけに眼が眩んでしまって、正しい因果の理法というものを無視して、ただ功徳だけを請い願うという人もいます。
 勤行もしない。唱題もしない。ただ御本尊様さえ御安置して気が向いたときだけ信心すれば、自分の望みが総て叶うぐらいに錯覚をしている人もいます。
 そして「願いは叶うと聞かされたが嘘だ。何だこの信心は!」と、御本尊様に当り、大聖人様に当り、折伏して下さった方に八つ当たりする人もいます。
 仏法ではいつも言いますが、偶然は認めません。全てには原因があっての結果です。そして、大聖人様は『陰徳陽報』を説かれます。
 仏法の因果の筋道からいえば、人が見ていようといまいと、良い行為も悪い行為も、全部自分の身について回っているのです。昔から”天知る、地知る、我知る、人知る“と言いますが、陰れた徳(陰徳)を施せば、その徳がその人の体にきちんと備わって、だんだんとその報いが顕われてくる(陽報)のです。悪事もまた同様で、必ずその報いを受けるのです。
 よって、因果応報という過去における善悪の業に応じた現在における幸不幸の果報と、現在の業に応じて未来の果報を軽視した人生に成仏はありません。

 ですから、この信心の話を人にする場合、功徳のみを強調しますと、大聖人様の教えから外れてしまいます。末法は顕益よりも、むしろ冥益ということがわからなければ、本当の功徳の意味ということは分かりません。
 自分の信心、自分の生活、自分の日頃の実践ということを抜きにして功徳ばかりを求めても、得られる道理が無いのです。


【宗教に正邪・浅深あり】
 また、私達が折伏をする上で大事なことは、まずは相手の宗教や考え方における根本的な誤りを、しっかりと破折をすることです。当然、功徳ばかりを話していたときとは打って変わって、相手からは反発もあるでしょうし、恨まれることもあるでしょう。しかし、それこそが慈悲の折伏なのです。
 世間では、神や仏と言えば何でも尊くありがたいと思い込んでいます。
「分け登る麓の道は多けれど同じ高根の月を見るかな」という歌がありますが、信仰とは、仏を求め、神を求め、真理を求める志があれば、どの宗旨でも全く同じだと考える人が多いのです。
 例えば富士山に登る時に、山梨県の吉田口の方から登ろうとも、静岡の富士宮の方から登っても同じ頂上に到達できるのと同じであると言う人が多いのです。
 しかし仏法の真実の教えというものは、そういうものではありません。それが同じように高根に登る真実への道だと思っていても、実際は途中で途切れた道もあるのです。むしろ、人々を遭難に導く道ばかりと言えます。
 ですから「先祖代々の宗教もいいけどこっちもいいよ。」「とりあえず御本尊様を護持していればいい。」という形だけの折伏ではいけません。
 やはり間違っている教義や、やってはいけない謗法の恐ろしさを教えなければいけません。
 また、この信心の尊さや、功徳とはどのようにして現れるものなのかということを、しっかりと教えてあげるということが大切なのです。

 

ashuhokkekoshu.hatenablog.com

 

【机上の空論】
 我々が信心が長くなってくると陥りやすい事に、簡単に目の前の事象を捉えて、自分の都合の良いように判断しがちになります。 
 第六十五世日淳上人のお言葉に次のように示されています。
「妙法を信じ御本仏の慈光に浴する私達にとつては災難はもう災難でない、短命も尚長命である、不運も不運でない、皆んな仏の慈悲である。かくいふは理論である。妙法の行者にとってかようの理論は無用の長物である、堕獄の因である。一心に只仏を祈ることそれでゐゝのである。行者の願に一としてかなはざるなしとの御金言そのままに仏に祈ればいい、妙法の功力に勝るものがないからである。信行は事実である、実在である。されば利益も実在である。
 しかし又、此の辺を誤解して、御利益をはき違へて災難がなくなり、万事好運に趣くと思い込む人が日蓮宗内他門下に於てはすべてといつてもいい程である。(中略)一心欲見仏の祈の中に、すべては含まれる。祈り、祈り、唯真正面から災厄にぶつかつてしかも一心に祈るが大切である。」(日淳上人全集 683ページ)

 日淳上人は、御本尊を信仰している者が、災難に遭った時に「災難も災難ではない」とか、「不運も不運ではないのだ」というような事を言って、「これは皆、仏様の慈悲である、仏様の御計らいだから、ありがたい」などと言うのは、信仰が理論(観念)になってしまっている。
 これは「堕地獄の原因になる」とハッキリと戒められています。
 なぜこれがいけないのか?といいますと「仏様の御計らいだから、不幸も不幸ではない。」などと言う人は、キリスト教のような現実逃避の姿であって、功徳も罰もわからなくなっているからです。
 また、個々の過去世からの罪障や、一国謗法の与同罪などを無視しています。
 信仰をしていても、災難にも遭うし、病気や事故にもなります。これらが信仰によって一切起こらないなどと大聖人様は教えていません。
 大聖人様の教えは、困難に遭わない、困難を避けるげる教えでは無く、困難を乗り越える教えです。
 それはまさに、様々な迫害を乗り越えられ、病を抱えながらしのがれた大聖人様の御生涯そのものなのです。
 私達は、困難に遭遇したときに、それを乗り越えるべく一心に祈る中にこそ、道が開けるのです。


【慈悲を惜しんではいけない】
 大聖人様は「如説修行抄」に、
「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。」(御書673頁)
ということをおっしゃっております。
「誰人にても坐せ」ということは世間の人を恐れてはいけない。相手が学者であろうと、あるいは政治家であろうと、どういう立場の人であっても、折伏は人を恐れてはいけないのです。
 私達は勇気を持って、上司であろうと、あるいはもっと私達より上の立場の人であろうと、信心の上での間違いは間違いとして、破折をして救っていかなければいけないのです。
 また大聖人様は「音も惜しまず」ということを言われております。折伏をする言葉や声も惜しんではいけない。慈悲の心を惜しんではいけない。実践を惜しんではいけない。あるいはその労力を惜しんではいけない。勇気を惜しんではいけないのです。
 私達は誠意を惜しんで折伏が出来ないことを嘆いてはいないでしょうか?
大聖人様は「言葉さえも、声さえも惜しんではいけない」ということをおっしゃっている訳でありますから、私達も慈悲を尽くし、言葉を尽くし、声を尽くし、労力を尽くし、自行化他にわたっての信心を全うしていくということが大切なのです。


折伏の実践にこそ功徳あり】
 大聖人様の仏法を極めるのは折伏しかありません。大聖人様は、
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり。」(御書1818頁)
ということをおっしゃっておられます。
 折伏には、祈り、慈悲、勇気、精進、行学という大事な教えの要素が全て含まれています。ですから、折伏には無量の功徳があるのです。
 どうか皆さんは、自分の志を元に、折伏実践の日を週に一度でも持って下さい。その積み重ねが大きな力となり、福徳となるのです。

 

悪変じて善となる―変毒為薬の実証明らかに (法華講員体験シリーズ)

悪変じて善となる―変毒為薬の実証明らかに (法華講員体験シリーズ)

 
病によりて道心はおこり候―祈りは必ず通じる (法華講員体験シリーズ)

病によりて道心はおこり候―祈りは必ず通じる (法華講員体験シリーズ)

 
御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

 
信仰の寸心を改めて―改宗して本当に良かった! (法華講員体験シリーズ 4)
 
祈りとして叶わざるなし―なんとしても折伏させてください (法華講員体験シリーズ)

祈りとして叶わざるなし―なんとしても折伏させてください (法華講員体験シリーズ)

 
大願とは法華弘通なり―地湧倍増は折伏にあり! (法華講員体験シリーズ 3)
 
広宣流布の時なり―世界に広がる折伏の息吹き (法華講員体験シリーズ 5)