【同じく法華経を信ぜさせ給へば、同じところに生まれさせ給ふべし】慈本寺様、御住職の法話より

 南条時光の母について  

     

    大石寺の開基檀那(かいきだんな)である南条時光殿はつとに有名ですが、本日は、南条時光殿の母の生き方、信心姿勢をみなさんにお話ししたいと思います。

 

 時光殿の母は、駿河国庵原郡(いはらぐん)松野に住した松野六郎左衛門の娘で、駿河国富士郡上野郷の地頭であった南条兵衛七郎に嫁ぎました。大聖人様より「上野殿母御前」、「上野殿母尼御前」、「上野尼御前」等とも呼ばれています。

 上野御前は、夫の兵衛七郎との間に、五男四女の子宝に恵まれ、夫が死去したときには、二男の七郎次郎時光が七歳、五男の七郎五郎はまだ母の胎内にいましたが、子供たちを立派に養育し、純真な信心を貫いた女性でした。

 夫の、兵衛七郎は鎌倉幕府の御家人で、はじめ伊豆国(静岡県)南条郷の地頭から、上野郷の地頭に転任しました。鎌倉在勤のころに大聖人に帰依したといわれています。

 文永元年(1264年)12月、大聖人は「南条兵衛七郎御書」(慰労書)を与えられ、病床の兵衛七郎を励まされています。

この御書に、

「(せっかく法華経に帰依したのに)念仏に戻るのは山の峰の石が谷底に転がり落ち雨が地に落ちてくるように堕地獄は疑いない」(御書325頁 趣意) 

と大聖人が兵衛七郎に対して厳しく戒められている事からも念仏への執着がまだあったと推察されます。

 残念ながら兵衛七郎は、翌文永2年(1265年)3月8日に亡くなりますが、その時、上野御前は子供を身ごもっていました。

 普通の方ならここで、

「せっかく念仏の信仰を捨ててまで大聖人に帰依したのに、なぜ夫は助からなかったのか?

 私はこの先、幼い子供達とお腹の子供を抱えどうやって生きていけば良いのか?」

と途方に暮れ、不信に思うところですが、上野御前は健気なる信心を貫いて行かれるのです。

 このとき大聖人様は、富士上野の南条家まで御下向され、墓参をされています。一家の柱と頼む夫に先立たれ、茫然自失の上野御前にとって、この御下向によって賜った激励は、何よりも心強く、嬉しいことであったに違いありません。

 

 その後も、家督を継ぐはずだった長男も文永十一年(1274年)に水死したと伝えられており、七郎三郎・七郎四郎もあいついで亡くしており、南条家は相次ぐ宿業に晒(さら)されました。

 大聖人様は、「薬王品得意抄」にて、

法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照らすが如し。深く信ずる者は満月の闇夜を照らすが如し。」(御書348頁)

と仰せになり、月には闇夜を照らす力用があっても、その力用は、信力によって違いがあると御教示です。

  悩み苦しむ主たる原因が、過去世からの業によることは、法華講員であれば理解できることです。しかし、様々な苦難に直面したときの対応には、それぞれ違いがあるのではないでしょうか。

 御本尊様を深く信じ、唱題を根本として対処できる人もいれば、御本尊様を深く信じることができないために唱題もせずに悩み、苦しみに翻弄(ほんろう)されていく人もいます。

 我々は、御本尊様を深く信じるか信じないかによって、御本尊様の力用にも違いが表れることを知らなくてはなりません。

 したがって、成仏得道をめざす私たちにとって、無疑曰信の決定した信心こそが何よりも肝要なのです。

 夫が文永二年三月八日に亡くなってから九年後、大聖人様が身延へ入山されて間もない文永十一年七月、上野御前が夫の追善供養のために御供養の品々を大聖人様のもとにお届けした事に対して、大聖人様は「上野殿後家尼御返事」(別名「地獄即寂光御書」)をしたためられました。

 「悲しきは凡夫のはかなさ、妻子達の肉眼では霊山浄土の便りを見ることも聞くこともできません。

 ただ、終(つい)には霊山浄土で一緒に住むことができるとお思いなさい。今まで貴女が生死をくりかえしてきた間に夫婦の契りを交わした夫は、浜の砂の数より多かったことでしょう。しかしながら、この度の夫婦の契りこそ真の契りの夫です。何故かと言えば、夫の勧めによって法華経の行者となられたのですから、亡き夫を仏と崇(あが)めなければなりません。

 生きておられた時は生身(しょうしん)の仏、亡くなられた今は死の仏、死んでも生きても仏なのです。法華経の第四見宝塔品第十一に「若(も )し能(よ )くこの経を持つものは、即ち仏身を持つものである」

と説かれています。

 そもそも、浄土というも地獄というも、自分の心の外(ほか)にあるのではありません。ただ私たちの胸の中にあるのです。これを悟っている人を仏といい、これに迷う人を凡夫というのです。このことを悟るためには法華経が大事です。それゆえに法華経を持つ者は、地獄をそのまま寂光土、仏の世界と悟るべきなのです。(御書336頁 意訳)

と愛情あふれるお言葉をかけられています。

 御本尊様を離れて成仏はなく、妙法を受持してこそ「地獄即寂光(じごくそくじゃっこう)」と悟ることができるのです。

 この地獄即寂光の妙理を悟っているのが仏であり、それを知らずに迷っているのが凡夫であるとされ、たとえ爾前権教をどんなに修行しても、成仏の一法たる法華経を離れているならば、

「たゞいつも地獄なるべし」(御書336頁)

と厳誡されています。

 さらに大聖人様は、「故人は成仏をしているのは疑いがないので、嘆かなくともよい。しかし、最愛の人を亡くして身を斬るような思いで嘆くのは凡夫の常なので、追善回向に励んで、九識(妙法への信心)を深めて、六識に起こる死別の悲哀(ひあい)をも信心の糧にせよ」(趣意 御書338頁)

と、成仏して亡くなった方への追善回向の意義を御指南されています。

 

 夫の死後、ほぼ十年経って、上野御前は元服した時光に父の後を継がせました。「亡くなった御主人は必ず成仏しておられます」との大聖人のお言葉を胸に、上野御前は子供達と共にいよいよ信心に励まれたのです。

 その後、南条時光殿は日興上人の陣頭指揮のもと、富士地方の折伏に立ち上がりました。その折伏の勢いが起因となり、弘安2年の熱原の法難へと発展していきます。

 1279年(弘安2年)9月21日、稲刈りに集まった20人の農民が無実の罪を着せられて鎌倉に連行された上、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人は、法華経の信仰をやめないというだけで、斬首(ざんしゅ)されてしまう事件が起こりました。熱原法難では、弾圧される同志をかくまい、理不尽に捕らえられた農民達を救い出そうと、南条家では奮迅(ふんじん)の働きがありました。

 何とかこの熱原法難を乗り越えた弘安3年(1280年)九月五日、末っ子の七郎五郎が、突然十六歳の若さで亡くなりました。

 その訃報を聞かれた大聖人は、御自身の悲しみの思い、上野御前の心中を思いやられて、激励のお手紙をしたためられます。

 長くなりますが、大聖人様の慈愛あふれるお手紙ですので意訳ながら紹介させていただきます。

 

 「南条七郎五郎殿の御死去のこと、人は皆、生まれては死ぬのが習いとは、智者も愚者も、身分が上の人も下の人も一同に承知していることであるから、今はじめて嘆いたり、驚いたりすることではないと、自分も思い、人にも教えてきたが、自分がその当事者になってみれば夢か幻か、未だに判断がつきかねるほどである。

 ましてや母はいかばかり嘆かれていることであろうか。父母にも兄弟にも先立たれ、最愛の夫にも死に別れたが、子供が多くおられたので心が慰められておられたであろうに。可愛い末の子で、しかも男の子、容貌も人に勝れ、心もしっかりして見え、よその人々もさわやかな感じをもって見ていたのに、はかなく亡くなってしまったことは、花の蕾(つぼみ)が風にしぼみ、満月が突然になくなってしまったようなものである。ほんとうとも思えないので、励ましの言葉も書きようがない。またまた申し上げる。恐恐謹言。

 弘安三年九月六日      日 蓮  花 押

   上野殿御返事

 追申。この六月十五日にお会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、すばらしい男だな、と拝見していたのに、再びお会いすることが出来ないとは、何とも悲しいことである。しかし、また(南条七郎五郎殿は)釈迦仏、法華経を深く信仰されていたから、臨終も立派だったのである。(だから)心はきっと父君と一緒に霊山浄土に参り、ともに手を取り頭を合わせ喜ばれていることであろう。あっぱれである。あっぱれである。(御書1496頁 趣意)

 七郎五郎は亡くなる3ヶ月前の六月十五日に、兄・時光と一緒に身延の大聖人のもとへ行ってお目通りしたばかりでした。大聖人様は七郎五郎の成長を喜ばれ、期待されていただけに、心の底から死を惜しまれています。

 

 その後も大聖人様は、

「此の経を持つ人々は他人なれども同じ霊山へまいりあはせ給ふなり。いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信ぜさせ給へば、同じところに生まれさせ給ふべし。」(御書745頁)

 

「故七郎五郎殿は当世の日本国の人々にはにさせ給はず。をさなき心なれども賢き父の跡をおひ、御年いまだはたちにも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて仏にならせ給ひぬ。無一不成仏は是なり。乞ひ願はくは悲母我が子を恋しく思し食し給ひなば、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて、故南条殿・故五郎殿と一所に生まれんと願はせ給へ。一つ種は一つ種、別の種は別の種。同じ妙法蓮華経の種を心にはらませ給ひなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給ふべし。三人面をならべさせ給はん時、御悦びいかゞうれしくおぼしめすべきや。」(1510頁)

 

法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。」(1574頁)

と激励されているのです。

 

 このように、七郎五郎の死去のあと、上野御前が賜ったお手紙には、必ず七郎五郎のことについて触れられています。

 特に、弘安四年、大聖人様が御入滅になられる一年前には、

 「私が母であるあなたより先に霊山浄土で七郎五郎に会ったなら、母の嘆きを申し伝えておきましょう。」 (御書1580趣意)

とまで仰せ下さっています。

 

 上野尼は、大聖人が入滅されてから二年後の、弘安七年(一二八四)五月十日に時光をはじめ家族に見守られながら安らかに逝去され、夫と同じ高土(たかんど)(富士宮市下条)の地に葬られています。

 

 皆さんの肝に銘じていただきたいことは、大聖人様は上野御前だけに、特別お優しい言葉をおかけになられたのではなく、これが末法の御本仏の御慈悲であり、常に一切衆生に等しく注がれているのです。

 大聖人様の御魂魄たる御本尊様を信じ切っていくならば、必ずその御慈悲と功徳を受けることが出来るのです。

 更に、宿縁深厚(しゅくえんじんこう)なる家族と同じ所に生まれ合わせたいなら、御本尊様のもとで共に信仰することが肝要ですから、家族への折伏、法統相続は欠かせません。

 残念ながら、既に亡くなっている未入信だった肉親でも、心から追善供養申しあげることによって、同じ種を仏に植えて頂くことが出来るのです。

 愛する人との別れは、誰もが避けることは出来ませんが、必ず乗り越えていけるのです。

 

 

 

御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

 

 

 

悪変じて善となる―変毒為薬の実証明らかに (法華講員体験シリーズ)

悪変じて善となる―変毒為薬の実証明らかに (法華講員体験シリーズ)