【南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり】真の大歓喜の信心とは ・・・慈本寺様「御住職の法話」より

 本日は、本年最初の御講にあたり、「真の大歓喜の信心とは」と題して、少々お話しをさせていただきます。

【歓喜とは何か?】
 創価学会員がよく口にする「歓喜」とは、「大声で笑い、旗を振り、拍手をして騒ぐ興奮状態」のことのようですが、歓喜とはそもそも仏教用語であり、その意味は、仏法を聴聞し、信ずる心を得て身心ともに喜びを感ずるということです。
 したがって歓喜には、正しい教え、正しい信心がその基になければなりません。
「邪宗」が歌や踊りで演出するハイテンションな覚醒状態や、嘘を並べ立てて怒りや憎しみの命を燃やし、相手を嘲笑(ちょうしょう)することは「歓喜」と程遠く、これらは「洗脳」であり「信仰」ですらありません。
 元気な頃の池田大作が、信心の会合での下らない低俗なギャグに一生懸命追従(ついじゅう)して必死で笑う会員、敵対者とみなした者への罵詈雑言や暴力教唆(きょうさ)にさえ笑って聞いている姿は、異常な集団的興奮があるのみで、もはや大聖人様の教えではありません。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801頁)
と仰せです。
 すなわち真実の大歓喜とは、正法正義の根本法体である本門戒壇の大御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経」と唱題することによって、自己の生命の中に仏界を涌現させることをいうのです。
 更に歓喜について、大聖人様は『御義口伝』にて詳しく述べられています。
「身が歓喜するとは、生死即涅槃ということである。心が歓喜するとは、煩悩即菩提ということである。歓喜は、わが身心だけが歓喜するのではなく、法界のすべてが同時に歓喜するのである。
 この歓喜のなかには、三世諸仏の歓喜もはいっているのである。今、日蓮大聖人の門下が南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「我則ち歓喜す」と仏は、御歓喜あそばされるのである。この歓喜は、善悪ともに歓喜するのである。十界が同時に歓喜し、成仏していくのである。このことを深く思索してくべきである」(1784頁 趣意)
 いかに、大聖人が仰せの「歓喜」とは、本来、深く尊い意味があるか、皆さんにもおわかり頂けたかと思います。

【正法を信仰しながら歓喜が湧かないのは何故か?】
 仏縁深くして正法にめぐり合った私達日蓮正宗の僧俗は、誰もが深い感謝と大いなる喜びを胸に、御法主上人の御指南に随順して、仏道修行に精進しなければなりません。
 歓喜が無い人に共通して挙げられることに、感謝の念が薄いと言うことが言えます。
 人は往々にして、恨みを抱くと貧相になりますし、感謝の念があれば強く生きられます。
 また、感謝はしていても、実際の具体的な行動として表せない人は、その程度の思いしか無いと言えます。
恩を知り、恩を報ずる事は、信仰者の基本です。
 日蓮大聖人は『開目抄』に、
仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし。」(御書530頁)
と仰せのように、仏法を習い信心する身においては、必ず四恩を知り四恩を報じることが大事です。
 また、四恩については『上野殿御消息』に、
「仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ。」(御書922頁)
と仰せであり、四恩とは父母の恩、国主の恩、一切衆生の恩、三宝の恩をいいます。信心では四恩に報い徳を謝することです。
 父母の恩とは、この世に出生して正しい御本尊に巡り会い信心する身となったのは、父母の存在によるためです。 
国主の恩とは、広く人が社会生活を営むに当たり、国家社会から受ける衣食住などの恩恵を感じることです。
 一切衆生の恩とは、すべての生あるものから恩を感じることです。
三宝の恩とは、仏法僧の三宝の恩で信心をして功徳を積み利益を賜ることに恩を感じることです。特に四恩の中で三宝の恩を報じることが肝心です。
 我々が普段行っている勤行や唱題は、仏様をはじめ一切への報恩感謝の時間と言えます。
 仏法僧の三宝・御本尊様への報恩のために二座の勤行があり、また、大聖人・日興上人・日目上人等、御歴代の御正師に対する報恩のために三座の勤行があり、皆さんの御両親、先祖代々の人々の報恩のために五座の勤行があり、折伏を通して一切衆生を救済し、一切衆生に報恩申し上げるという意味において、四座の広宣流布の御祈念があるのです。
 これらの行がしっかり出来ていれば、報恩を形として体現できるようになります。
 総本山大石寺への登山は二座の勤行の体現、三座の勤行は、御講や御誕生会への参詣、興師会・目師会への参詣、四座・五座の勤行の体現は命日やお盆お彼岸での先祖供養や、縁ある人々への折伏となります。
 また、親が存命中なら、言葉遣いや態度も自然に改まってこそ、信心をしている意味があります。

【四徳を備える】
 さらに、四恩報謝の念を体する信心には、世の人々の模範となる四徳を具えた姿勢が必要です。大聖人は『上野殿御消息』に、
「四徳とは、一には父母に孝あるべし、二には主に忠あるべし、三には友に合って礼あるべし、四には劣れるに逢ふて慈悲あれとなり。」(御書921)
と仰せです。四徳である孝と忠と礼と慈悲を意識した振る舞いが法華講衆に求められる信心であり、そこに好感や信頼感を得て異体同心することができます。
 これら四徳を備えられたならば、講習会に参加して御法主上人より直々に御講義を受けることが、どれほど希有(けう)なことであり、ありがたいことであるか命で分かるでしょう。
 また、僧侶の法話などをとおして日蓮大聖人の仏法を学び、法華講員同士が互いに御本尊の功徳と信心の喜びを語り合えることに、無常の歓びを見いだせるでしょう。
 日蓮正宗の僧俗に一貫して流れるのは、真摯な求道心と正法を受持できた感謝の一念でなければなりません。
この法華講員の姿こそ、正しい仏法にもとづいた真の歓喜というべきなのです。

【虚しい一生にしないために】
 法句譬喩経(法喩経)第二十四の『好喜品』には、次のようなことが説かれています。
 印度のある国の大王が隣国の4人の王を招待して、一カ月にわたって連日晩餐会を開き、盛りだくさんの料理・酒・音楽・舞踊(ぶよう)などをさまざまに振る舞いました。その後、それぞれの王に「あなた方の生きがいや喜びは何ですか」と尋ねました。
 一人目の王は「とにかく遊ぶことです」といい、二人目の王は「美味しい御馳走を一杯食べて団らんの機会を持つことです」といい、三人目の王は「お金や財宝を集めて気ままに生きることです」といい、四人目の王は「愛欲の限りを尽くして楽しく生活することです」とそれぞれ答えたのです。
 これら4人の王の答えを聞いた大王は、「私はあなた方にすべての願いを叶えてあげましたが、その結果、今どういう気持ちですか」と尋ねると4人の王は「もうすっかり疲れ果て、何も要りません。音楽も酒も飽きてしまいました」と答えました。   
 つまり、そこにあったのは、憂い・苦悩・悲哀・倦怠感でしかありませんでした。
 そこで大王は「あなた方が望んでいたものは、たしかに人生における楽しみみや喜びであるかもしれない。しかし、これらは一時的なもので、最終的にはいま味わっているように憂いや苦悩、倦怠感のなかに陥るものです」と諭されました。
 ここで説かれていることは、人間が五欲(色・声・香・味・触)の趣くままに追い求める快楽や地位や名誉というものは、真の喜び、幸せにはつながらないということです。
 大聖人様は、
『一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ。』(御書1169頁)
と仰せです。
 この信心をする皆さんこそしっかりと四恩を知り、恩を報ずるためにも折伏を行じなければなりません。
 先ほどから申しあげているように、ハイテンションや天界は功徳ではありません。
 御書に、「喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり」(御書734頁)とあります。
 嬉しくてしようがないからつい「日蓮正宗の教えはすごいよ」と言ってしまう。これが本来の折伏の姿だと思います。
 それでは、功徳と歓喜に満ちた日々を送るにはどうしたら良いのでしょうか?
 そもそも、仏の命・境涯は幸せに満ち溢れています。そこに少しでも近づくには、日々の信心修行によって、仏と同じ誓願を持って、一生成仏の人生を歩むのです。
 仏が常に願っている広宣流布を目指して精進する事が信心の目的であり、我々の究極の使命です。
 その目的に向け、広布の人材として前進して行く中に、更なる功徳善根が付いてくるのです。
 その功徳を根本に、四苦八苦の人生を正しく前向きに歩む事が、真実の幸福な人生であると言えます。
 大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「老少(ろうしょう)不定(ふじょう)は娑婆の習い、会者定離(えしゃじょうり)は浮世のことわり」(御書三八一頁)
と仰せです。
 老いも若きも、名誉も権力も関係なく、昨日まで元気だった方が事件や事故や災害によって突然命を落とすような現実の悲しみに悩む姿を見て、一人ひとりが価値観の変革を図り、常住の生命観を悟り、仏道修行に精進しなければなりません。
 この無常の世にあって、常住不変の幸せとは一生成仏しかないのです。私達は、前世の業因に身を任せ、様々な悩みを抱えながらも、御本尊様への感謝の念を忘れず、広宣流布を目指した信心修行の積み重ねによってのみ、歓喜に満ちた日々を送ることが出来ます。

 御隠尊日顕上人猊下はかつて、
「人間は必要な方面において良い事を積み行う為には、ともすれば悪と堕落に流され勝ちな弱い心を、叱咤激励すべき覚悟が必要であります。それは『よしやるぞ』という決意であり、そこからその人の心の転換が始まります。無責任で目的のはっきりしなかった生活観、ダラダラと無為に過ごす毎日が、一本筋の通った有意義で力強い命に生まれ変わるのです」(大白法八二八号)
と仰せになられました。
 本日ご参詣の皆様が、広布の人材として「よしやるぞ」という強い決意の元に、仏法の上に一本筋の通った有意義で力強い信心をもって、勤行・唱題・折伏・育成に取り組む行動を起こしましょう。
 信心は、常に自分の弱い心、汚れた命との戦いとも言えます。
 大聖人様は『妙密上人御消息』に、
法華経功徳はほむれば弥功徳まさる」(御書969頁)
と御教示です。
「御本尊様の功徳はすごいですよ。あなたも一緒にこの御本尊様を信じませんか。」と御本尊様の功徳を讃嘆すればするほど、命は磨かれ、功徳は大きくなると教えて下さっています。
 慈本寺のみなさんが、日如上人の仰せのままにしっかりと折伏して、たくさん功徳を受けられ、歓喜の中で三世に亘る幸せな境界を開いていって頂きたいと願うばかりです。

 

祈りとして叶わざるなし―なんとしても折伏させてください (法華講員体験シリーズ)

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