御講と法話②

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【聞法・聴聞の大事】

「まだ聞かぬ 人のためには ほととぎす いくたび聞くも 初音なりけり」
御開山日興上人は、御説法や御講義をなされるにあたっての心構えを、この歌を引かれて示されたと伝えられています。
総本山石之坊(いしのぼう)の境内に苔むした説法石がありますが、大石寺開創の当初、お弟子僧をお供に従えつつ、日興上人はこの説法石のところで、集まった近隣の人々たちを前に、法を説かれた伝えられています。その中には、地頭南条家の一族の武士たちもいたことでしょうし、あるいは日目上人の教化によって、はるばる奥州の地から初めて富士の日興上人の許(もと)へ登山してきた、信徒の人々がいたのかもしれません。
末法の御本仏日蓮大聖人が建立された三大秘法の仏法を、直接聴聞の人々の耳に触れさせることは、大聖人の大慈悲に浴させることであり、さらには大法流布への着実な布石ともなっていきます。日興上人は煩(はん)をいとわず、何度でも同じ甚深(じんじん)の御法門を話されたのです。それが先の御詠歌(おうた)となって残されたものと拝されます。
法華経には「聞法(もんぽう)」の大切なことが説かれています。たとえば『方便品』に、
「若有聞法者 無一不成仏(にゃくうもんぽうしゃ むいつふじょうぶつ)」
とある文です。すなわち「若(も)し法を聞くことあらん者は、一人として成仏せずということ無けん」(開結183)
と、聞法こそが成仏のための要件であると説かれたお経文です。法を聞いても、そのまま信ずる順縁(じゅんえん)の人と、反対に謗(ぼう)ずる逆縁(ぎゃくえん)の人とがありますが、双方(そうほう)いずれであってもともに救われるというのが、上の「無一不成仏」の意味であり、法華経が諸経に勝れる大きな特徴です。
あるいは、『法華経随喜(ずいき)功徳品』に「五十展転(てんでん)の功徳」が説かれていますが、やはり聞法が主になっています。いわゆる最初の人が妙法蓮華経の素晴らしい功徳を聞き(自行)、次の人にもこれを聞かせます(化他)。聞いて信を起こした人は、さらに別な人に説き、こうして展転していって五十番目に聞いた人の随喜の功徳について、この人は自分で聞いて随喜した功徳のみですが、それでも非常に勝れることを説いて、最初の人の自行化他の功徳がどれほど勝れるものであるかを説き示したのが『随喜功徳品』の「五十展転の功徳」です。
このように、聞法は自行と化他にわたって大切なのです。
日蓮大聖人は、これら法華経に説かれている意義をふまえ『一念三千法門』に、「此の娑婆(しゃば)世界は耳根得道(にこんとくどう)の国なり」(110)と仰せられました。すなわち自行として、妙法蓮華経の貴いことを聞くことは、この娑婆世界にあって成仏のための重要な条件となります。また化他の立場から述べても、相手の耳根に、正法の尊いことを根気よく訴えていくことが大切なのです。
また第二十六世日寛上人は、『観心本尊抄文段(もんだん)』に聞法下種について説かれていますが、
「種脱相対(しゅだつそうたい)して謂(いわ)く、最初聞法は必ず是れ文底(もんてい)」(富要4―280)
とあります。この御文の意をとって記せば、久遠元初における御本仏の下種は、聞法下種であられたという意味です。そして久遠即末法であるゆえに、大聖人様から下種を受ける私たち末法の衆生も、やはり聞法下種であり、寿量文底の南無妙法蓮華経の貴さを聞いて題目を唱へ、またそれを他の人へも聞かせる折伏することで、成仏がかなう衆生なのです。
このように、私たちの六根(眼耳鼻舌身意)のうち、耳根(にこん)を介してなされるところの聞法・聴聞の大切さというものを、今一度認識しなくてはなりません。この項の冒頭に挙げた日興上人の御詠歌も、下種仏法における聞法の大切さを込められたものと拝されのです。


つづく

 

御本尊を信じさせ給へ―この信心しかない! (法華講員体験シリーズ)

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