御講と法話①

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皆様こんにちは。達郎です。m<(__)>m
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今回は化儀シリーズより、『御講と法話』についてお話を致します。

末寺において、月々の最も大切な行事が、宗祖日蓮大聖人御報恩御講であり、通常「御講(おこう)」と言い習わされています。
「御講」の「講」とは、本来仏徳を讃嘆するために行なわれる寺院の法会(ほうえ)のことで、そのとおりに経典等の講義なされる報恩の集会のことをいいます。
本宗における御講は、総本山で奉修される毎月の三祖御報恩御講が元になっているというべきで、七日(日興上人御命日)、十三日(大聖人御命日)、十五日(日目上人御命日)の早朝、御影堂において御法主上人猊下大導師のもと奉修されます。末寺での御講も、総本山における御講の意義をそのまま移して奉修される、重要な行事です。
今回は御講の意義とその後に御僧侶によって行なわれる御書を通じての法話について、述べてみたいと思います。

【報恩謝徳の大事】

世の中に、宗教と名の付くものは数え切れないほど存在しますが、どんな宗教にも共通することが一つだけあります。それは崇拝する仏神に、自らの祈願をするということです。
しかし、私たちの願望とか祈願というものには、貧瞋癡(とんじんち)の三毒による凡夫の心から出ている場合が多いものです。したがって、もしもそれらの願いが叶ったとしても、そのままその人の、絶対的な幸福に結びつくかといえば、はなはだ疑問と言わざるをえません。
三大秘法の仏法を信行する私たちにも、祈願・誓願(せいがん)があってしかるべきですが、根本的姿勢の下種三宝尊(げしゅさんぼうそん)に対する報恩謝徳の気持ちも忘れてはならないのです。願いを叶えるためのみの信心では、世の人の我欲(がよく)に任せた信仰の姿とそれほど違いはなくなってしまいます。
報恩の「恩」という字は「因」に「心」と書きます。因を知った心に、報恩の念は自然に起こってくるものです。仏法は因縁(内的直接の原因と外的間接の助縁)を説く教えですから、現在私たちが経験する事象の幸不幸いずれにあっても、その因縁を訪ねていかなくてはなりません。
不幸を感じるならば、その因縁を訪ねてこそ解決の道筋も見つかります。また私たちの信心の喜びも、日蓮大聖人様が幾度も大難を乗り越えられ、法華経を色読されて建立された大御本尊に、その因縁があることを忘れてはならないと思います。
そこまで考えが及べば、自然仏祖三宝尊に対する報恩感謝の念も起こり、その実践が寺院の御報恩御講への参詣となりましょう。したがって、御講への参詣が出来ない人には、是非とも自分の今ある因縁について深く考えていただきたいのです。自分の心を中心に、いわば我見でものごとを考えるのと、周囲との繋(つな)がりの中でより広い立場から考えるのとでは、境界が人生を送る上で大きく違ってきます。信心においても、広く深い見地に立って行動していくことが大切です。
香川県にある讃岐本門寺は、日興上人のお弟子の日仙上人が開いた、富士門流七百年の伝統を伝える古刹(こさつ)です。開基檀那秋山孫次郎泰忠は遺言として、たとえ一族の中で諍(いさか)いがあったとしても、十月十三日大聖人の御命日には、一族すべてが一所に集い、心を合わせて御報恩申し上げるべききことを、文書(もんじょ)に固く言い遺しています。この泰忠の信心こそが、七百年間の時を越えて、富士の信仰を正しく当地に伝えてきた源泉なのです。本宗の信心のあり方を教えてくれる先達として、私たちも、秋山泰忠殿の信心を深く学んでいきたいものです。


つづく