【命と申す物は一身第一の珍宝なり】今、生きていることの有り難さ 慈本寺御住職の法話

 本日は『更寿会』ということで、70歳以上の方への御祝いの席もご用意しております。
 ご年配の方への応援のつもりで、今日はお話しをさせていただきたいと思います。

 私も、慈本寺に赴任して早いもので7年が経過いたしました。寺院を出来る範囲で荘厳しながら、何とか維持してこられたのも、偏に皆様の厚い志によるものと感謝申しあげます。
 7年というと、赴任させて頂いた頃は小学一年生の次男が本山に上がり、もう中学三年生になりました。この間、登山の折に面会を致しましたら、いつの間にか私より少し身長も高くなっており、日如上人の弟子にさせていただき、過不足なく薫育していただいていることに、感無量でありました。
 その分、私も皆様も年齢を重ねたのであり、そろそろ自分の人生の最期をどう飾っていくか、真剣に考える時かと思います。
 老化現象を止めることは出来ませんが、信仰の情熱や、生きる気力まで失ってはいけないと思うのです。

 今月の拝読御書でもある『可延定業御書』にて大聖人様は、命の尊さについて、
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれを延ぶるならば千万両の金(こがね)にもすぎたり」(御書 761頁)
と仰せです。
 命が何よりも大事だということは誰でも知っています。大聖人様は三世の生命を説かれますが、今生の命は有限です。にもかかわらず、日々をただ漫然と生きている人は少なくありません。
 信心をしている私たちは、まず自分が信心を根本とした充実した日常を送り、生きることに疲れ、希望を失った方へ、本物の真理と本物の仏力・法力を備えた御本仏がいらっしゃることを教えて行かなければなりません。
 これが、常に日如上人が我々に御指南くださっている「折伏」なのです。
 
 まず、信心の基本は「報恩」です。大聖人は「報恩」ということを繰り返し御指南されています。恩を感ずるということは、まず生きていることに感謝するという気持ちがなければなりません。

 御隠尊日顕上人猊下御講義集『立正安国論』を紐解くと、
「宇宙や世界も地水火風空で成立し、その中での調和が破られると、かかる災難が続出するのです。しかしまた、皆さん方の命も、地水火風空によって成り立っているのです。つまり「火」は我々の体温で、体温がなければ死んでしまう。次に、皆さん方が呼吸している空気の出入りは、つまり「風」です。そして「水」は血液です。それから骨や肉体は「地」なのです。すべて地水火風空の因縁が和合してあらゆる万象があり、我々が存在しているのです。
 このように、我々の存在は法界全体の地水火風空と密接な関連があることを知らねばなりません」
と、ご指南なさっています。
 私達が生きているということは、地水火風空の五大が仮に和合している姿であり、まことに希有(けう)なことなのです。

 私たちは、普段、毎日元気に生活しているので、それが当たり前になってしまって、有り難いという気持ちを失っていますが、たとえば大病をして九死に一生を得たときなどは、本来の有様に気づいて、有り難いという感謝の気持ちが自然に生じるものです。
 しかし、人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、元気になると報恩感謝の念も薄れてしまいがちになります。

 大聖人様は、病で苦しんでいた富木常忍の妻へ宛てた、冒頭で御紹介した『可延定業御書』にて、「一日でも長く生きて信心の功徳善根を積んでいくように」、と心からの励ましを送られています。
 この御書で、冒頭、大聖人様は
「そもそも病には二つある。一には軽病、二には重病である。重病でも善い医者にかかり、早く治療すれば命を永らえることができる。まして軽病はいうまでもない。業には二つある。一には定業(じょうごう)、二には不(ふ )定業(じょうごう)である。定業でも能く能く懺悔(ざんげ)すれば必ず消滅する。ましてや不定業はいうまでもない。」(御書760頁 趣意)
と、病と業について説かれます。
 そして、その解決方法として、罪障や業を消滅するための強盛な祈りと、適切なる治療を勧められます。
 その治療には、同じ大聖人門下の同志であり、医術にも勝れていた四条金吾へ依頼するように、さらに、依頼の仕方まで細かくご指南なさいました。

 仏教では一切の生命・生物は、過去の業因によって生ずると説きます。過去の業因と言われても、凡夫には計り知ることが出来ません。また、自分の力で悪業を消すことも出来ません。
 しかし、大聖人様の教えを正しく実践していくならば、罪障消滅は叶うのです。
 現世で定業(じょうごう)を罪証消滅しなければ、来世でもこの苦しみは繰り返される事になります。妙法の功徳は、いかに深重な悪業もよく転じ消滅できるのです。

 日蓮大聖人は、このことを『転重軽受法門』で、
「涅槃経に、転重軽受と申す法門あり。先業(せんごう)の重き、今生(こんじょう)につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益(やく)をうる事の候。」(御書480頁)
と仰せです。

私たちが、朝夕勤行で読んでいる方便品に、
「所謂諸法。如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。」
とありますが、これは、そこに現われている姿、形、性質が、その人の命の力用、作用の因縁果報から来ていることを説いています。
 それは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界・声聞・縁覚・菩薩界・仏界の「十界」それぞれの命の姿であり、十界それぞれに「十如是」が本末究竟すると説かれています。

 大聖人様は『諸法実相抄』にて、
「実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(御書665頁)
と説かれます。
 例えば、自分の命が地獄の状態であれば、その相も性質も行動も全部が地獄で、その結果、地獄の報いを受けてしまいます。そして、「本と末が究竟して等しい」と説かれているのです。
 だから、命が畜生の状態に変ったら、相も性も体も、地獄の姿とは違った畜生の姿に変わるのです。
 命の中に持っている十界が、その時その時の因縁によって現われて来るのです。

 この間も、テレビでゴミ屋敷が問題になっており、地域住民や行政が何度片付けてもしばらくすると、また、ゴミであふれるという報道がされていたと思ったら、とうとう火事になって隣の家まで燃えてしまいました。
 その人の命が、こういう所にしか住めないから同じ事を繰り返すのです。
ゴミ屋敷に限らず、その人の世界は、その人自身の命が作っているのです。

 念仏宗では
「この世は苦しい穢土(えど)、娑婆世界だからしょうがない。死んでから西方極楽浄土に行けば幸せになれる」と説いています。
 この世と、あの世は別々のものであると言うのです。キリスト教などの一神教も同じです。
 しかし、それは実相ではありません。単なる観念ですから、そこに本当の幸せはないのです。
 確かに、人々の命には仏界もありますが、それは理論上のことであり、仏性だけは本物の仏様に縁をしない限り顕れません。
 日蓮大聖人様は『一生成仏抄』にて、
「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、 浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。」(46頁)
と仰せです。
 私達は御本尊様へお題目を唱えることによってのみ、今を生きている現実の世界で、自分自身の命を変えていけるのです。
 その人々が増えていくことによってによって、はじめて安穏なる仏国土にも変えていけるのです。

 たとえその身は貧しくとも、病気の身体であっても、どんな境涯の人でも、皆、地涌の菩薩の使命を持って、末法に生まれて来ているのです。
 ありがたいことに、私達には一生涯を掛けてやり通さなければならない、崇高なる使命があります。
 それが広宣流布であり、他者への慈悲の祈りと行動です。
 
 最近では、科学的にも前向きな展望や願いは、年齢関係なく脳の働きを活性化させると言われています。
 また、人が他の為に尽くすことによって得られる歓びも、生命活動へ良い影響を与えることが証明されつつあります。
 また脳科学的に、人の事を思うとまず自分自身が変わることができるそうで、これも信心と同じです。

 確かに、今は他人と関わると危害を加えられたり、騙されるんじゃないかと疑心暗鬼になったりする、殺伐とした世の中になってしまいました。
 生きるのに精一杯で、他人のことなど考える余裕もないかも知れません。だからこそ「心の財」を積むのです。多少無理をしても、勤行・唱題を行っていけば、不思議と時間に追われなくなります。すると、心に余裕が生まれますから、家族や先祖のことをちゃんと考えられるようになり、他の方の幸せまで自然と祈れるようになります。
 相手が納得してくれるかどうかは別にして、この信心の素晴らしさを、まずは一生懸命語ってみてください。そうすると、不思議と嬉しくてありがたくて仕方ない自分になっています。
 
 最後に、明治のはじめ、九州開導の祖と言われ、邪宗を折伏して九州各地に多くの寺院を開いた、妙壽日成貴尼の立派な臨終のお姿をお話しします。

 妙壽尼は日蓮宗の尼僧でしたが、師匠の臨導が大石寺批判の末、あまりにも無残な臨終の姿に、異流儀の誤りを悟り大石寺に帰伏して、御隠尊日霑上人のお弟子にさせていただきました。
 師匠を通しての壮絶な体験と確信の元、九州で様々な迫害や妨害にもめげず、折伏弘教に励まれ、霑妙寺をはじめとする十を超える寺院や教会所を設立し、多くの信徒を折伏育成しました。

 妙壽尼の御臨終は、長年の唱題と折伏実践の功徳により、まさに他の模範となるものでした。
 臨終が近づいても何も病の苦しみもなく、弟子や信徒を枕元に集めて、「人は断末魔の苦しみというが、自分は断末魔の楽しみである」と言いながら唱題に余念がなく、亡くなる前日には、周囲の者に「明日は旧暦であれば父の命日であるから、私は明日臨終する」と言い置くと、そのまま筆を執って
 「世の中に 恨みもなにも なしの花 白きひとえで 落ちて行く身の」
と詠まれました。
 次の朝には、
 「いざ今日は 暇もらって 古郷の
           御親の元に 帰るうれしさ」
と辞世の句を詠まれ、大正五年一月十五日、安祥として逝去されました。

 護法のために生き抜いた方は、臨終の際に、何の憂いも後悔も怖れも無いことがわかります。
 なかなかそのこまでの境地にはなれないかもしれませんが、心の隅に妙壽尼の事は留めておいて頂きたいと思います。