平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)平頼綱(たいらのよりつな)

皆様こんにちは、達郎です。
いつも私の拙いメルマガをお読み頂きまして、ありがとうございます。

今日は第744回目の宗祖日蓮大聖人龍の口法難会の日ですので、今回は平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)平頼綱(たいらのよりつな)のお話しをいたします。

大聖人様は、御一生のうちに三度の国家諌暁(かんぎょう)をなされました。
第一回は時の寺社奉行・宿屋入道を通じて『立正安国論』を鎌倉幕府の前執権・北条時頼(最明寺入道)へ、第二回・三回目は竜の口法難直前と、佐渡流罪を赦され鎌倉に戻られたとき、それぞれ平左衛門尉に対し直接諌暁なされました。
この頃の幕府では、一番権力のある「執権」をはじめとする主な役職は、御内人とよばれる北条氏一門によって取り仕切られていました。
平左衛門尉は、御内人の中でも最も力のある内管領(ないかんりょう)という職についていて、幕府の中でも平左衛門尉に意見するものは、執権を除いては誰もいない状況でした。
そのよう中、ひとり幕府及び平左衛門尉に対し常々「悪法を捨て、正法に帰依しなければ、他国侵逼難(外国から敵が攻めてくる)自界叛逆難(国内で反乱が起きる)等の災難が起こる」と主張し続けられた大聖人様の予言が徐々に現実として現われてきました。
蒙古が日本に対し服従するように使者を送ってきたのです。
国を取り巻く状況が緊迫している中、「悪法を捨て、正法に帰依しなければ、他国侵逼難・自界叛逆難等の災難が起こる」等と大聖人様に声高に主張されることは、幕府の威信に関わり大聖人様の予言が的中しつつあるということは、諸宗の僧にとっても、彼らの権威が脅かされることになるから、幕府や諸宗の僧の多くが、大聖人様及びその弟子檀那の言動に神経を尖らせました。
なかでも真言律宗の僧・極楽寺良観などは配下の僧行敏(ぎょうびん)を使い大聖人様に法論を申し込みますが、大聖人様に「正々堂々と公の場で法論いたしましょう」と臨まれるに至って、尻込みしてしまう始末でした。
その他、真言宗の僧が、次々に大聖人様に法論を挑みましたが勝てるはずもないことから、当時の幕府に少なからぬ影響力をもっていた極楽寺良観らは、その力を背景にして、故人となった北条時頼(最明寺入道)や北条重時極楽寺入道)の妻をそそのかして、大聖人様を訴えるように仕向けたのです。
良観らは、
日蓮は、故最明寺入道殿・極楽寺入道が亡くなって無間地獄に堕ちたと申しております。また殿たちが建立された建長寺寿福寺極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えと言い、殿たちが尊敬・帰依なされた道隆上人・良観上人等の頸をはねよと申しております」
北条時頼(最明寺入道)や北条重時極楽寺入道)の妻たちに言ったのです。
その話しを聞いて妻たちは、「日蓮が、本当にそのようなことを言ったのかどうか、評定所に呼び出して取り調べるべきです」
と執権や奉行人らに迫ったのです。
このようにして、ついに大聖人様は評定所(現在の裁判所に当たる)に呼び出されることとなりました。
文永八年九月十日の出来事です。

取り調べるのは、普段より大聖人様を苦々しく思っていた平左門尉でした。
日蓮、貴僧は故最明寺入道殿・極楽寺入道殿が亡くなって無間地獄に堕ちたとか、殿たちが建立された建長寺寿福寺極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えとか、殿たちが尊敬・帰依なされた道隆上人・良観上人等の頸をはねよと申したとのことであるが、それは誠か」
大聖人様は、
「左様、一言も違わず申しました。但し最明寺殿・極楽寺殿が亡くなって無間地獄に堕ちたと、今日になって申したというとこではありません。無間念仏という法門は最明寺殿・極楽寺殿が生きておられる時より申しておったことであります。
これらのことを申し上げますのは、この国のことを思えばこそであります。
今の世を安寧(あんねい)に保たれんと思われるのであれば、念仏・真言等の僧らを呼ばれた上、仏法の道理の正邪を糾明(きゅうめい)されるべきであります。それなくして、彼らの言い分ばかり聞き、理不尽にも日蓮を罪に処せられるならば、国として後悔することになりましょう。
また日蓮を流罪死罪に処せられることは、仏の遣いを用いないことになりますれば、法華経を守護する梵天・帝釈・日月・四天の御咎めにより、百日・一年・三年・七年の内に自界叛逆難と申して北条家御一門の中で同士打ちがはじまるでありましょう。
さらにその後は、他国侵逼難と申して、四方よりとくに西方から外敵が攻めてくることとなりましょう。
その時、必ず後悔されることになりましょうぞ」と大聖人様は、よどみなく平左衛門尉に申されたのです。
文永八年九月十日、極楽寺良観等の策略によって評定所に呼び出された大聖人様は、平左衛門尉に向かって、正々堂々と「悪法を捨てて正法に帰依すべき」ことと述べられ、さもなくば「他国侵逼難、自界叛逆難が国を襲うであろう」と彼を諌められました。
評定所から戻られた大聖人様は、その二日後に平左衛門尉に対し『立正安国論』を書状(一昨日御書・新476)に添えて送られました。
「私の勘がえるところを知っていただきたく、立正安国論を進覧いたします。ただし、この論は私の勘がえるところのほんの一つにすぎません。
そもそも貴殿は今の世の天下の棟梁たる人物であります。その方が、どうして国家の良材(大聖人様御自身のこと)を失うような愚かなことをなされましょうか。決してそのようなことはないでしょう。早く賢慮(けんりょ・賢い考え)を回らして蒙古の来襲を防がれるべきであります。世を安らかにし、国を安らかにすることこそが忠であり孝であると存じます。これは、決して我が身のために申しておるのではありません。君のため仏のため、神のため、一切衆生のために言上いたすのであります。
文永八年九月十二日 日蓮花押
謹上 平左衛門尉殿(趣意)」

大聖人様をが書状を送られたその日、九月十二日の夕刻大聖人様を「謀反人」と断じた平左門尉は、武蔵守(北条宣時)および数百人の兵を率いて松ヶ谷の草庵に押しかけたのです。
この時、平左衛門尉の第一の家臣である少輔房(しょううぼう)は、大聖人様の懐に納められていた法華経第五の巻を奪い取り、その経巻で大聖人様のお顔を叩くなどして、乱暴の限りを尽くしました。
この時、少輔房が手にした法華経第五の巻の中には『勧持品』というお経が載っていて、この中には釈尊(お釈迦様)滅後に法華経を弘めようとする行者には、様々な迫害が加えられるということが説かれています。
末法において真の法華経を弘められる大聖人様が、この経巻によって叩かれたのは、実に不思議なことです。
平左衛門尉によって捕らえられた大聖人様は、
日蓮は日本国の棟梁である。私を失うことは日本の柱を倒すことである。今に自界叛逆難といって同士討ちが始まり、他国侵逼難といって、この国の人々が他国に攻められ殺され、生け捕りにされるであろう。
建長寺寿福寺極楽寺・大仏寺・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が居住する寺塔を焼き払って、彼らを処刑しなければ、日本は滅びるであろう」
と諌暁されたのです。
囚われの身となった大聖人様は、夜中に竜の口の処刑場に連れて行かれました。
刑場で武士が大聖人様の頸を斬ろうとしたのですが、その時江ノ島のほうから毬のような光った物が現われ、北西の彼方へ光りわたったのです。その光に太刀を持った武士は倒れ伏し、その他の者おじけづいてしまいました。大聖人様は「夜が明ける前に我が頸を斬りなさい」と申されても、誰も大聖人様の頸を斬ることはできませんでした。
竜の口の法難からひと月ほど経った後、大聖人様は佐渡に流罪されることとなりました。
佐渡島での大聖人様は、一間四面の粗末なお堂に住まわれ、食べるものや着るものにも事欠く貧しい生活を送られましたが、そのような中にあって、『開目抄』や『観心本尊抄』などの重要な御書をしたためられました。その間に、正しい教えに帰依する阿仏房などの信徒が増えていきました。また鎌倉では北条一族間の争いが生じてくるなど、大聖人様の予言である自界叛逆の難が現実化してきました。
大聖人様が佐渡に流されてから二年半ほど過ぎたある日、幕府流罪を赦す書状が届きました。
この頃の日本は、蒙古が攻めてくるという緊迫した状況にありました。まさに大聖人様の予言が的中しつつありました。
幕府は大聖人様の意見を伺うために、佐渡流罪を赦したのでしょう。
佐渡から帰られた大聖人様に、幕府から再び呼び出しがありました。文永十一年四月八日のことです。

大聖人様は平左衛門尉に、
「たとえ王地に生まれて身に随えているようであっても、心は随えてられるものではありません。念仏は無間、禅は天魔の所為であることは疑いありません。ことに真言宗がこの国にとって大きな禍であります。蒙古を調伏するために真言の法師に祈祷を仰せ付けられてはなりません。もしこの国の大事を真言に頼まれるならば、この国の滅亡はいよいよ早くなりましょうぞ」
と申されました。
そこで平左衛門尉が、「いつごろ蒙古が攻めてくるであろうか」と尋ねると、大聖人様は、「経文にはいつとは示されておりませんが、天の御気色を見れば怒り少なくなく、早急に攻めてくることに違いないでありましょう。今年を越すことはまずありますまい」ときっぱり申されたのでありました。
そして大聖人様の予言通り、この年文永十一年十月五日、蒙古が日本に攻めてきたのでした。世に言う「文永の役」です。
このように平左衛門尉は、ことごとく大聖人様に対して敵対・迫害し続けましたが、そのような平左衛門尉のことを大聖人様は、「平左衛門尉こそ提婆達多よ。釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(種々御振舞御書・新1063)と仰せです。
善知識というのは、仏道修行にとってためになる人や出来事のことを言いますが、大聖人様にとって平左衛門尉が一番の善知識であったと仰せになられております。
普通、私たちは自分に対して敵意を抱く人は、自分にとって悪い人と考えますが、大聖人様は全くその逆で、御自身に対して最も敵意を抱き、迫害を加えた人こそ善知識であると仰せになられているのです。
私たちは、大聖人様のこの御言葉と御心を深く拝して、信心修行に励みたいものです。

今回は龍の口法難会に関連して、平左衛門尉のお話しをメルマガに致しましたが、龍の口法難会の時にお寺の御宝前に、ぼた餅がお供えされますが、このぼた餅をお供えされるのにはただ単にお供えされているのではありません。
じつは、日蓮大聖人様が龍の口の刑場に向かう途中、ひとりの老婆が大聖人様におむすびを御供養されたのですが、警護の武士がそれを振り払って砂がついてしまったのです。
それでも大聖人様は老婆の真心の御供養をお受けになられまして、そのおむすびを召し上がられたそうです。
それ以来、龍の口法難会の時には砂つきのおむすびをお供えするのでは失礼になりますので、ぼた餅をお供えするようになったと云われております。
今年は大聖人様が龍の口法難に遭われて744年の年を迎えますが、平成33年は大聖人様御聖誕800年であり、龍の口法難、佐渡流罪(法難)750年の年でもあるわけです。
総本山をはじめ全末寺では龍の口法難会法要は奉修されますが、寺院によっては伊豆法難会、佐渡法難会法要、小松原法難の法要も奉修されている寺院もあるのです。

今日は9月度宗祖日蓮大聖人様御報恩御講の日であり、また寺院に寺院によっては、既に龍の口法難会法要を奉修された寺院もあることと思います。
また20日から26日までは秋の彼岸会法要です。
どれひとつ取りましても大事な行事です。
一人でも多くの方をお誘いして、寺院参詣致しましょう。
今年は異常気象が続いておりますので、皆様のお住まいの地域で、何が起きるか判りませんので、くれぐれも注意して日々をお過ごしください。

以上もちまして、今回のお話しを終わりに致します。


達郎


m(__)m

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