身延離山について【いずくにても聖人の御義を相継ぎ進(まい)らせて、世に立て候はん事こそ詮(せん)にて候え】慈本寺御住職様の法話


  
 本日は、入信間もない方から「日蓮正宗の本山は身延でなく、なぜ大石寺なのですか?」という質問をいただきましたので、『身延離山』についてお話をさせていただきます。

【身延離山の概要】
 宗祖日蓮大聖人は、弘安五年十月十三日、池上宗仲が宅にて御入滅になり、池上相承によって日興上人を身延山久遠寺別当となさいました。其の後、日興上人は身延山に入り住職として赴任されました。
 ところが、身延山の波木井郷の地頭にして、大聖人並日興上人の信徒である波木井実長(はぎりさねなが)が、当初は日興上人が久遠寺の住職として赴任された事を、
『日興上人が久遠寺にいらっしゃることは、故大聖人がいらっしゃるのと同じと嬉しく存じ上げます』(趣意・弘安八年一月四日書状 富要八ー四)
とまで書状をしたため喜んでいましたが、鎌倉方即ち日昭・日朗・日向らに与同して四ヶ度の謗法を侵してしまいます。
 日興上人は度々戒めましたが、学頭であった民部日向の意見を聞いて、日興上人の御指導に従いません。このままでは、大聖人の御精神たる立正安国も見失う事になるとの思いから、上野の地頭南條時光の懇請(こんせい)を受けて身延を離山されます。これを指して『身延離山』と言うのです。

日蓮宗の見解】
 ところが、この日興上人の『身延離山』と云う同じ事実に対して、身延派と正宗との見解の相違があります。
 正宗は、日興上人は波木井の四ヶ度の謗法行為が原因にて身延を離山されたと主張するのに対して、身延派では、はじめ身延山の住職は一月交代の十八名で構成された輪番制であったが、それでは不便であるので、皆で相談して専従住職を決めた所、地頭波木井の希望にて、学頭の民部日向が住職と定まった。ところが日興上人はこの人事に嫉妬して宝物を持て南條さんを頼って身延を離山し、大石寺を開創したのであると邪説を立てます。
 清廉潔白な日興上人を実に低級な僧侶に仕立上げて、民部日向と波木井実長の四度の謗法をとにかく隠そうとします。
 どちらが、離山の真相なのでしょうか?
離山の真相については、総本山五十五世日亨上人が確実な文献を元に、著述された「富士日興上人詳伝」に依って明らかになっていますので、この本に沿ってお話しさせていただきます。

【日興上人の久遠寺赴任】
 大聖人滅後、二箇相承によって、日興上人は身延に入山しました。大聖人の御墓は、日興上人『墓所可守番帳事(むしょまもるべきばんちょうのこと)』(西山本門寺蔵)によって、十八入程の弟子により、一ヶ月交代にて、当番にてお守りする事になっていました。
 身延等では、此の『墓所可守番帳事』に対抗するため、後に偽造されたのが『身延山久遠寺番帳事』(池上本門寺蔵・池上本)です。
 これには、身延山久遠寺別当職を交代で務める旨が記されていますが、墓所の輪番制が記された『墓所可守番帳事』とは、内容に大きな差異があり、不可解な点が多く、筆跡も日興上人のものとは認め難く、偽作文書であることは明らかなのです。
 わざわざこのようなニセモノを作る目的は、五老僧が墓所輪番制を放棄したことの隠蔽(いんぺい)と、久遠寺別当職の輪番を主張して、日興上人への唯授一人の相承を否定することにありました。
 どこに、住職が順番で一ヶ月ごとに交代で勤めるお寺があるでしょうか?『二箇相承』によって日興上人が跡目を継いだ事はまぎれも無い事実です。
日亨上人は、『二箇相承』抜きで考えてみても、その当時、身延山は山間避地であり、また、波木井は日興上人の初発心の弟子であり、附近に居住する高橋・河合は日興上人の親類であり、新池・南條・曾根・石川・秋山は日興上人の俗弟子であって、皆その地方は日興上人の教化の地盤であった。当然、日興上人以外に、それらの信徒を教化指導して行ける人は無かった。他の人が例え住職となったとしても、供養を受ける事は出来なかったはずであると仰せです。
 現在の身延山日蓮宗の総本山としての権威を持っていますが、その当時の身延は全くの山奥でありましたから、だれが好んで住職をしたでしょうか。
 日興上人が跡目をつがなくては、誰も維持管理が出来なかったのです。その当時の寺の維持は主に一族の者が供養をして維持したようで、身延は日興上人の親類と俗弟子によって維持されていたのです。
 故に日興上人が身延に入山される事は、当時のその様な風習によってあたり前であったのです。
 事実、すんなりと日興上人が久遠寺住職として赴任され、何の異論も他の兄弟弟子から出ていないのです。
墓所可守番帳事』も、日興上人とその弟子等にて、立派に守られる体制にありましたが、直弟子一同にも師匠の恩を報ぜさせねばならぬとの思召(おぼしめ)しより出来上ったものと思われます。  
 此の様な約束事が出来ていながら、大聖人の直弟子は、自分の地盤の布教に多忙であったのか、面倒だと思っていたのか、誰一人、三回忌になるも登山して来ませんでした。
 日興上人は三回忌になるに当って、身延に登山すべしと、大聖人の直弟子方に回状を廻されました。
 その一通が「美作(みまさか)房御返事」(聖典555頁)として写本が残っております。
 大聖人の三回忌にもなったが、だれも登山して墓参りもせず、御報恩する者がいないとは何事かと誡めておられます。

【民部日向の登山と謗法教唆】
 間もなく、民部日向が藻原(もばら)から登山して来ました。日興上人は大変喜ばれ、さっそく学頭職につけました。
 民部日向は鎌倉方、即ち日昭・日朗と親交があり、法義に関する鎌倉方の解釈を地頭の波木井に注入する様になりました。
・大聖人の法門は天台の余流を酌(く )むものである。
・大聖人の仮名文字の御書を残す事は師匠の恥を後世に残す事になる。
・大聖人は『立正安国』にて神社への参詣を破折されたが、法華信者が神社にお詣りすると、天上にいる諸天善神が来下して法味を受けられる故に、神社に参る事は謗法ではない。
という説が、鎌倉の新説でした。
 これは、大聖人の教えをねじ曲げたものでした。
 民部日向は、此の様な考え方をあたかも新発見のように思って、地頭の波木井へ吹聴(ふいちょう)しました。これを聞いた波木井は、実によい考え方であると喜ぶのです。
 なぜなら、当時の鎌倉幕府では、二所三社と言って、三島・箱根の権現と伊勢神宮を大変尊崇しました。さらに幕府は家来にも参詣を奨励したのです。
 そこに参詣や、寄進をすると大変喜ばれ、お参りしないと幕府のおぼえがよくありませんでした。師匠の大聖人は立正安国を唱えて、神社参詣を禁止しましたし、一方幕府は二所三社にお参りすることを喜ぶという、全く反するものの間にあって、波木井は日頃からその対策に苦心しておりました。
 そこへ、この様な都合の良い説を教わったのですから喜んだことと思います。師の教えにも背くわけではないし、また幕府の意向にも添えるようになると云うのですから、喜ぶ事は当然です。
 何故こんな便利な新説を日興上人は教えてくれなかったかと恨む程でした。
 それからは、日興上人が波木井の初発心の師匠であるにもかかわらず、日興上人を疎(うと)んじて民部日向に近づく様になります。そして、三島明神に戸帳(とちょう)(厨子などの上にかける布)を寄進します。
「富士一跡門徒存知事(ふじいっせきもんとぞんちのこと)(聖典五三七頁)によると、以後、次々と謗法行為を積み重ねるのです。
 一、立像釈迦仏を造立し、本尊としようとした事。
 二、大聖人が禁止された社参を始め、二所三島に参詣した事。
 三、南部郷内の福士の塔供養に参加した事。
 四、九品念仏の道場を建立した事。
 これらは、波木井の考えでしたのではなく、真実の大聖人の法義が判らない民部日向の指導に基因しているのです。よって日興上人は、「あなたの謗法の根本は、民部日向の指導によるものである。一刻も早くこのような法師は追放すべし。」と波木井に進言したのです。
 しかし、波木井は「今後は民部日向を師匠と仰ぐと」言い始めたのです。

【身延離山】
 事ここに至った日興上人は、いつまでもこの山に留まる事は、終には鎌倉の謗法の教義が、波木井ばかりでなく、他の弟子且那(だんな)に波及して、大聖人の正義さえも見失う結果になるとお考えになりました。
「身延の沢を罷(まか)り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還(かえ)し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進(まい)らせて、世に立て候はん事こそ詮(せん)にて候え、さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁(ひと)に相当て覚え候へば、本意忘るること無く候」(『原殿御返事』聖典五六〇頁)
 御自分が御相承を受け、田舎の山寺と兄弟弟子は見向きもしない久遠寺を、直弟子と有縁の御信徒で守ってこられたのです。しかし、謗法まみれの邪僧・民部日向によって、弟子である波木井実長が洗脳され、離山しなければならなくなったご心痛が、この御文より拝せられます。
 弟子と言っても、地頭という権力者であり、土地は波木井の物でしたから、大聖人の教えを純粋に守り伝えるには、離山という方法しか無かったと拝せられます。

【日興上人の御精神は御歴代上人へ受け継がれる】
「日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき」の御心は、脈々と御歴代御法主上人に流れております。

 六十六世日達上人は、妙信講(現顕正会)問題の時、「流血の惨も辞さず」という恫喝(どうかつ)にも屈せず、ただお一人で、浅井親子と対峙されました。
 この時、沐浴され、真新しい下着と白衣をお召しになり、辞世の句まで用意されておられたのです。
 また、学会問題においても、正本堂建立直後から顕著になってきた、「宗門を学会の支配下に置くんだ」という池田の誑惑(おうわく)をことごとく退けられ、「学会が来なくて、こっちが生活が立たない、というならば、御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してもいいと、いう覚悟を決めたわけです。」(「宗門の現況と指導会」昭和四十九年七月二十七日 )
との御指南されました。

 さらに、創価学会への解散勧告直後から、右翼が街宣車で本山へ乗り付け「ニッケン出て行け〜」と連日大音量で連呼し、日顕上人へ銃弾が送りつけられ、塔中へは銃弾が撃ち込まれ、関連施設へは火炎瓶が投げ込まれるという、事件が頻発しました。
 御隠尊日顕上人は、
「たとえ将来、本山の参詣者がなくなって、粥をすするようなことがあっても、私は正義は正義として立てていこうと思って、今回、この問題に踏み切ったわけである」(平成3年1月10日・教師指導会)
とご指南されました。
 日顕上人は学会攻撃の、常に矢面に立たれながら、我々僧俗を御教導下さいました。
 そして現在、御当代日如上人が身を挺して広布への陣頭指揮をとられております。
 日顕上人の時代からそうでしたが、日如上人が海外の末寺の入仏式等に御親修されるような事になると、創価学会は更に誹謗中傷記事を繰り返し報道し、各国のマスコミや外国の政府機関に対してまで、謀略工作を繰り返して来ます。
 アフリカ、ガーナ法華寺の御信教は、平成10年2月、日顕上人の御親修を賜り落慶法要を奉修するのみとなっていた矢先、突然、ガーナ政府より日顕上人猊下をはじめ落慶式参加予定のすべての者の渡航ビザ取り消しの通知が来た事がありました。
 この悔しさをバネに、現地の僧俗は精進を重ね、当初600名だった法華寺法華講は、8カ国計5千人までの陣容に拡大され、15周年法要に日如上人猊下をお迎えすることが出来たのです。
 当日の法要を、後日ビデオで見せていただきましたが、現地の方々の歓喜は大爆発しておりました。
 この国は、蚊を介してマラリアになる事があり、いくら予防注射をしていても、歴代の住職さんは全員が発症し、重篤な状態に何度かなっています。
 また、水あたり・食あたりも日常茶飯事だそうです。そこへ御下向され、法要後の会食では現地メンバーのこころずくしの料理を、にこやかに召し上がる日如上人のお姿に、尊さで胸が一杯になってしまいました。
 皆様もこの先、迷うことも、壁に突き当たることもあるでしょうが、日興上人をはじめ御歴代上人の御振舞を信仰の糧として下さい。

大石寺創建】
 しばらくして日興上人は『身延離山』を決意され、上野郷の南條時光公の懇請もあり、南條家の持仏堂に入られました。即ち現在の下條・下之坊であります。
 その後、南條氏の寄進にて現在の大石寺が出来たのです。以上が『身延離山』の真相です。
 それを、民部日向が身延山の住職に推挙されたことに嫉妬して、日興上人が、離山したとの言いがかりは、邪説でしかありません。
 日蓮宗が、真相を認めることはまずありません。なぜなら、身延離山を認めてしまうと、自分達の信仰の基盤が崩れ去る事になるからです。
 彼等は巧みに珍説を建てて文献に無い事実をデッチ上げるしか、生きる術がないのです。
 民部日向と波木井実長の謗法行為を隠すためには、どうしても教義までも謗法容認の教義とならねばなりません。
 神社参詣・仏像造立は、日興上人の御教示による限り大誇法の根源です。 その当時の大聖人の門下にあって、いかなる時も大聖人のお側で常にお給仕され、代筆をも勤められ、書かれた書物を拝見しますと、第一の学匠は日興上人であることは、他門流でさえ認めざるをえません。
 その弟子中第一の学匠が、曼茶羅本尊・造仏破斥(はせき)を主張なさるのですから、それが真実の大聖人の法義なのです。
 そうだからこそ、「日興上人は厳しすぎた」などと取るに足らない難癖を付けるしかないのです。
 大聖人は、相伝の大事について、
「この経は相伝に有らざれば知り難し」(『一代聖教大意』 御書92頁)
「当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり」(『立正観抄』御書770)
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、
 塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(『本因妙抄』1684頁)
と仰せです。

 血脈相承の内容を、なぜ秘してただお一人へ伝えるのかについて、日淳上人は、
「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱(わくらん)されることを恐れるからであって、即ち魔族(まぞく)が仏法を破るからである。そのため展転(てんでん)相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである」(淳師全集 1324頁)
と示されています。
 日興上人は『日興跡条々事』に、
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」(1883頁)
と仰せになり、日蓮大聖人様から相伝された「弘安二年の大御本尊」を日目上人に相伝することを明言されております。
 このように、「相伝」があってはじめて成仏の道が開かれることを大聖人様、日興上人は教えて下さっております。従って、私たちは、この仰せのままに「大御本尊様」を根本に、日如上人猊下の御指南のままに信心修行に励むことで、成仏の大功徳を受けることが叶うのです。

 日蓮宗はもとより、宗門から退転した創価学会顕正会・正信会など、相伝無き者の思考・言動が似てくるのはある意味当然の結果です。
 特に、殆どの憲法学者違憲とする憲法改正に、「反戦・平和」を掲げる公明党が荷担(かたん)するという無節操(むせっそう)さに、多くの学会員は迷っています。
 我々は、堂々とこの人達を迷いから救うべく、折伏をして参ろうではありませんか。