仏法即世法 【深く世法を識れば即ち是れ仏法なり】 慈本寺様御住職法話

【仏法即世法とは】

 皆さんは、「仏法即世法」という言葉を何度か耳にされたことがあろうかと思います。
 法華経の『法師功徳品』には、

「諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間(ぞっけん)の経書、治世の語言(ごごん)、資生(ししょう)の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(開結494)

とあります。
 この意味は、「世間で説かれる、それぞれの分野に関する意義や目的、理由を人々は様々な言葉をもって説くが、それらは全て仏法で説く諸法実相という心理に反することはない。つまり真理に適っている。
 具体的には『俗間の経書』即ち世間の倫理や道徳、哲学や思想なども、また『治世の語言』即ち世を治めるための政治や法律、経済などのあらゆる言葉も、『資生の業』即ち商売や工業、農業などのあらゆる産業など、人間が生活していくためのなりわい、仕事も『皆正法に順ぜん』ということで、その根本精神は全て仏の正しい教えに一致する。」
という意です。
 ですから「私たちの信心と人生は一体である」と言えます。
 これを大聖人様は、『開目抄』にて、

「深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」(御書525)

と仰せられ、『観心本尊抄』では、

「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」(御書662)

と、世法と仏法は一体であることをご教示されると共に、「空が晴れれば地表の悉くが明らかに見えていくように、法華経の深い意義を知れば世法の全てを自ずとよく知ることができる」と仰せなのです。

 往々にして人は「家庭や仕事が大変だ」とか、学生であれば「学校や部活で時間が無い」等、様々な理由をつけて信心から遠ざかろうとします。
 残念ながら「信心」と「生活」を世間の人達や信心薄き人達は、別々なモノと捉えて生活をしていますが、日蓮大聖人様は、

「仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影な〜めなり」(御言1469)

と仰せられて、「信心が曲がれば、その影としての世間法たる生活全般が曲がっていく」ということを御教示です。
 これは、個々の信心と生活という問題だけでは無く、体となる誤った教えが広く信仰されている限り、その影である社会や国々が濁り乱れるという、大きな視点より示された御文であることを知らねばなりません。
 皆さんの中には、
「別に信心をしていなくても、世間でも立派な人や幸せな人はたくさんいるではないか。」と考える方もいるかも知れません。
 確かに世間では、大金持ちもいれば、地位も名誉も持っている人もいます。
 そしてまた、世間の人が言う「人間は自分の力を信じて努力をすれば、なんでも叶うし幸せになれる」という考えは、一見間違っていないように思えますが、仏法の教えから見れば浅い考えでしかありません。             
 なぜなら、大聖人様が説かれる、人間が元来持っている宿業や罪障を全く考慮しないで、ただ自分の力のみを過信し、世法の一部分だけを見て言っているからです。
 ですから、そういう考えの人達は、努力しても困難にぶち当たったり、病気になったり、事故にあったり、人間関係がうまくいかなくなったりと、本当に苦しい状況になった時にどうしたらいいのか判らなくなってしまうのです。
 しかし、常に正しい仏法を信じ行じる人は、仏法の目で世の中の事をはじめ、仕事や生活を見ることが出来るようになり、正しく物事を対処し解決する道を見いだすことができるのです。

【信心は実践あるのみ】

 今まで述べてきた事が信じられない人は、勤行唱題を真剣に実践して下さい。そうすれば必ず体感できます。
 確かに学生の本分は勉強ですし、人は働いて、なにがしか世の中の役に立ってこそ一人前の人間と認められます。付け加えるならば、主婦も立派な役目を担っており、決して軽視されるモノではありません。
 そして、何より修行に楽な修行はありません。苦しいときや困ったときだけ拝むのは、物乞い信心であって、修行とは言いがたいものがあります。
 信心がしっかりと実践出来ない命では、勉強や仕事、また家庭の営みにしても全うできません。

 各地方部における小中学生の鼓笛隊練習で、貴重な練習時間を割いて唱題に励んでいるのもこういう所にあるのです。世間の人や信心の薄き人は、唱題するよりその分練習した方が価値的では無いかと考えるでしょう。
 しかし鼓笛隊は、子供なからに、信心錬磨によって心が折れそうな弱い自分を乗り越え、異体同心の演奏、御本尊様にお供えさせていただく演奏をと心得て、唱題と練習に励んでいるのです。
 毎年、本山で夏休みに開催される、全国鼓笛隊コンクールの様子を、是非皆さんに見て戴きたいと思います。                      
 コンクールですから、確かに優劣は付きますが、演奏したそれぞれが、精一杯やり切った歓喜を爆発させ、最後は全員で肩を組んで「唱えていこう妙法を」の大合唱で幕を閉じるのですが、その姿に感動を覚えない人はいないでしょう。
 どんなに取り繕おうと、自分の心は自分で誤魔化す事は出来ません。自分が唱題を根本に、本当に悔いなく頑張ったと思えるからこそ、順位に関係なく歓喜に満ちた姿になれるのです。
 どんな人でも、根本に御本尊を据えて実践していく命になれば、世法における自分の進むべき進路も、自然と御仏智を賜り決まっていくのです。
「限られた24時間の中で、信心ばかりをやっていては自分のやるべき事が出来ない。」という信心は、既に魔に負けている迷いの姿であり、妙法の功徳をはっきり受けきっていない姿なのです。

【正法を知らない世間の姿】

 私たち人間社会をみてみれば、戦争や犯罪はいつまで経っても無くなりません。
 怒り争うのは地獄界、己の利益を貪るのは餓鬼界、物事の道理を弁えずに他者を見下し、何度も同じ過ちを犯すのは畜生界、慢心・猜疑心・嫉妬心からくる争いは修羅界の境界です。
 こういう境界に沈んでいる衆生が増えれば、善い社会になるはずがありません。それが正法を離れた姿です。
 反面、私たちの命には、平和を望み皆が喜べる社会を求める心、世の無常を感じ人の不幸を悲しむ心、他者を救いたい心、そういう善なる境界もあるのです。
 人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望のみを満たそうとする時に起きます。
 これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。
 次に感情的な憤怒による場合があります。これを瞋恚(しんに)といいます。また相手への理解不足や、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚痴(ぐち)といいます。その外に高慢心(こうまんしん)や猜疑心(さいぎしん)が争いのもとになることもあります。      

 国家間の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有している貪瞋痴(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑(まんぎ)を加えた五悪心の作用に起因します。
 これらの社会問題が、五悪心という、単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから、表面的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。
 現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないということは誰でも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。     

 国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならば、おたがいに三毒強盛の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。
 大事なことは、国が悪い、政治が悪い、世間が悪いと愚痴を言う暇があったら、まずは、私達自身の境界を根本的に変えていかなければなりません。

【作家 山本周五郎氏の『武家草鞍』より】

 作家・山本周五郎氏の短編小説『武家草軽』(新潮文庫 『がんこ長屋』206頁〜)にこういう行(くだり)があります。
宗方伝三郎という武士が、藩の家督問題で退転し、武士でなくとも清く生きようと苦労を重ねて生活しますが、世間は狡猾と欺瞞に満ちていると絶望し、山に入って死のうと思っているときに、ある老人に救われます。
 老人宅でお世話になりながら、藩に伝わる草鞋(わらじ)を編んで問屋に卸すと、丈夫で履きやすいと評判になりました。しかし、しばらくすると問屋から、伝三郎の作る草鞋(わらじ)は、「丈夫すぎて客が買い換えないから儲けが少ない。手抜きをしてもらいたい。」と言われます。
 再び世の中に絶望した伝三郎が旅立とうとしたとき、老人は彼にこう言うのです。
こなたは世間を汚らわしい卑賤(ひせん)なものだと云われる、しかし世間はこなた自身から始まるのだ。世間がもし汚らわしく卑賤(ひせん)なものなら、その責任の一半はすなわち宗方どのにもある、世間というものが人間の集まりである以上、おのれの責任でないと云える人間は一人もいない筈だ。世間の卑賤(ひせん)を挙げるまえに、こなたはまず自分の頭を下げねばなるまい、すべてはそこから始まるのだ。」
「・・・あなたも往復三十里の山道を穿(は)きとおせる草鞋(わらじ)を作った、そこに真実があるではないか、こういう見えざる真実が世の中の楔(くさび)になってゆく、ひとに求める必要がどこにあるか、問題はまずあなただ、自分が責めを果たしているかどうか、そこからすべてが始まるのだ・・・」
 そう老人が話した後、伝三郎の元へ諸国を回って探していたという旅人が訪ねて来ました。新しい藩主が、伝三郎を召し返すために家来に命じて探させていたのです。
 伝三郎が、どうしてこんな山の中にいると分かったのか訪ねると、たまたま寄った宿で草鞋(わらじ)を買い、履き心地から故郷で我々が作っている武家草鞋(わらじ)だと確信し、宿から問屋を教わりここにたどり着いたと云うのです。
 この話にあるように、世の中がどうあれ、我々はそれぞれの立場で、責務を果たしていかなければなりません。
 我々の責務とは、折伏です。折伏こそが、世の中への真実の楔となるのです。つまり、広宣流布こそ真実の平和な社会を築く、唯一の道なのです。

【我々の振る舞いこそ大事】

 いくら大聖人様の教えが正しい仏法といっても、世間の信心をしていない人や、大聖人の仏法を学んでいない人は、大聖人の正法そのものを直接知ることはできません。
 世間の人が大聖人の仏法をどこで判断するかと言えば、私たちの振る舞いや人間性なのです。
 ですから、我々は大聖人の教えに泥を塗る行為があってはなりません。こういう責任と自覚をそれぞれが持つべきなのです。
 大聖人様の意にかなった行動が出来るようになるには、御本尊を信じ、ひたすら実践をして命を磨いていくしか方法はありません。
 そして、世の中の、真実の主師親の三徳を知らず、信じ実践することが出来ず、ただ畜生のように本能のままに生きている人々の姿を変えて行くには、まず自分が頭を垂れ、変わっていくしかないのです。
 日蓮大聖人は、四条金吾殿に対して、

「中務(なかつかさ)三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけりよがりけりと、鎌倉中の人びとの口にうたはれ給へ」(御書1173)

 と仰せられましたが、世間の人びとに、世法においても仏法においても、正法を受持し行じている者の実証を示して、正法への信頼を集めていきなさいと御指南されています。
 正しい信心をしながら、自分の三毒の生命をそままにするのではなく、また正法を持っていることのみの自己満足にとどまることなく、私たちは更に一歩も二歩も進んで正法を受持し行ずることへの責任を果たす信行を実践していくべきなのです。
 どうかみなさんは、その事をしっかりと心に置いて下さい。そして、我こそ真実の人として尊い生き方を貫いており、決して犬畜生ではないのだということを深く心に確信して、この信心を異体同心の元、全うして頂きたいと思います。

 信心を根本に物事に取り組んでいかないと、何の為に信心をしているのか?どこ に功徳があるのかり何も見えなくなってしまいます。
 信心をもってすべてを見たときに、初めて世法も正しく判り、我々の胸のなかに生活の道が照らされていくのです。
 私たちの折伏の戦いは、一般の入々にはなかなか受け入れられませんが、決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。
 本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを我々は肝に銘じ、誇りに思うべきなのです。