使命というものについて考えてみた

昨日は、広布推進会に参加しました。

ネットでぐだぐだ言っているだけの僕には、とてもいい刺激が得られました。

他人の発する熱い情熱は、人に対する感化力が存在します。

愚痴と迷妄に流されがちの私にも、燃やすことの出来る薪が残っていたんだなって思ったものです。

影響を与えてくれたのは、同じ支部の先輩と支院長様でした。

先輩は65歳を越えてなお、日々の信心活動に生きがいを見出しておられました。その先輩の言葉は、ガツン!と私の心に響いたのです。

「ポリ銀さん、俺たちの世代の連中は、金と暇があるのさ。そうすると何をすると思う?気がかりなのは、所詮、健康だけなんだよ。家でずっと寝転がっているわけにもいかねえから、ゴルフとか釣りとかに走り回るわけよ。結局、遊びに夢中になるだけなのさ。

それと残りが健康さ。いつまでも元気でいたいとか、健康でいたいとかって言うだけなのさ。何のための健康かってのはないんだよ。漠然と死ぬことから逃げているんだよ。寿命が尽きるまで人生を、残りの時間を食いつぶすだけなんだよ。

だったらさ、信心活動して少しでも真っ当に生きたいじゃないか。俺には日蓮正宗が正しいっていう、確信と実感があるからよ。迷いはないのさ。あとはその実感って奴を、どれだけ人に伝えて死ねるかだけなのさ。いつまでも生きられるなんて、信心している人間が考えることじゃない。明日死んでも、干からびるまで生きて死んでも、後悔しない信心を貫けるかだけじゃないかな。」

かっこいい言葉ですよね。なかなか言えません。先輩の実感を噛みしめたいと思いました。

続いて、支院長様のお言葉。

「使命の自覚があるかどうかで、信心の姿勢は大きく変わってきます。使命の自覚とはなんだろうかと考えていくことが、まずは始めの一歩であります。何のために自分は信心をしているのか、それを考えてみることが大事です。それが何のために生まれてきて、生きているのかという人生の意味を考えることにつながっていくのではないでしょうか。

五座三座の勤行が出来なければご飯を食べない。

今日一日、折伏をしなければ寝ない。

これくらいの覚悟がなければいけません。

折伏を毎日するのは大変だと思うでしょうが、直接会えなければ電話でもいい、手紙を書いてもいい、もしくは育成に努めてもいい。とにかく、修行というものは毎日怠けてはいけないのです。

怠けないところに信心の成長があり、功徳を積んでいくという修行が存在するのです。」

非常に厳しいお言葉ではありますが、怠け心や愚痴の多い私にはありがたいお言葉でした。

修行もできてないのに、食ったり寝たりしてはいけません。食べ物は他の生き物の命ですからね。回向できるような功徳を積んでから、食事をさせて頂きたいところです。

推進会に参加できて信心を取り戻すことができました。

参加してよかったです。