成仏の要諦は師弟相対の信心 【日蓮が判を持たざらん者をば御用いあるべからず】

創価学会の勤行変更】
 仏教には必ず修行があります。
 本宗においては、御本尊様に向かって勤行、唱題をし、折伏するという修行があります。
 この自行化他の修行がなければ、真の仏教ではありません。大事な修行をコロコロ変える無節操な団体が、今の創価学会です。
 今年の十一月十七日の聖教新聞3面にて、創価学会は勤行の方式と御祈念をまたもや変更すると発表しました。
 創価学会が破門されて二十五年になりますが、相伝無き者が凡夫の機根を元に、謗法の念慮(ねんりょ)で迷走を続ける姿に、憐憫(れんびん)の情しか湧いてきません。
 ○なぜ創価学会は醜く変節していくのか?
 ○創価学会の何が間違っているのか?
を通して、日蓮正宗の正しい信心のあり方をお話ししていきたいと思います。

 創価学会ではかつて、
日蓮正宗に伝わる厳粛(げんしゅく)なる化儀は、日蓮大聖人の仏法を令法久住(りょうぼうくじゅう)せしめるための信心のうえの化儀であります。
 しかし、過去において、我々の考え方のなかに、そうした基本精神を理解せず、単なる形式として安易に受けとめ、これを軽視する風潮がありました。
 宗門行事及び末寺諸行事、また御僧侶の三衣(さんね)に対する厳しい考え方、経本・念珠に対する考え方等をはじめ、正宗伝統の化儀について十分認識を改め、粗略であった点を反省するとともに、信徒としての基本を誤たぬよう留意してまいります。」(特別学習会テキスト12頁)
と反省懺悔しています。
 学会員は昔の事と言うでしょうが、御本尊様の前で誓った事を平気で覆す不正直な姿は、もはや信仰団体とは言えません。
 しかも、破門後でさえ『教学の基礎 仏法理解のために』という本には五座三座の勤行について、以下のように、誇らしげに書いてあります。
 「日寛上人の時代(18世紀初め)には、朝の五座・夕の三座の形式で行われていたことが知られています。
 創価学会では、戸田第二代会長を中心に、五座・三座の形式で勤行を行っていくことを選択し、決めました。
 それまでは、五座・三座の勤行は僧侶の儀式であり、在家信徒でこれを行う人は、ごく一部にすぎませんでした。
 今日のように、多くの在家の人々が真剣に五座・三座の勤行を行っているのは、仏教史上、前代未聞のことといえます」
と、創価学会員のやっている五座・三座の勤行は、仏教史上、前代未聞のことだと言い、各座の御観念文の内容についても、『教学の基礎』で教えていましたが、数年後には、SGIに合わせてとか、決められたやり方はない等の理由をもって、勤行形式をがらりと変更し、御観念文の内容までも変えました。
 そして今回は、
○諸天供養を廃止
○大御本尊への御報恩謝徳を削除
○日目上人への御報恩謝徳を削除
してしまいました。

【勤行短縮は懈怠謗法(けたいほうぼう)】
 あの池田氏ですら、かつては、
日蓮正宗においては、また学会の指導は、五座三座というが、自分は三座二座でいいではないかなどというのは懈怠です」(『会長講演集』第6巻219頁)
と指導していたのです。
 今の創価学会員は、修行(化儀)は自分達の都合で変えても良いという罰当たりな考えでいますが、三毒充満の己心の魔に負けている凡夫が行き着く先が、懈怠謗法です。
 私の知っているかつての学会員は、厳格に勤行をし、よく唱題をし、自信にあふれはつらつとしておりました。
 しかし、今の学会のニセ本尊は魔の通力しか無く、結局は功徳も命も奪うまがい物ですから、勤行・唱題が苦痛になってくるのは至極当然の流れです。
 楽になる分には凡夫は文句がありませんから、何十年と厳格に勤行をしてきた者でさえ、戸惑いながらも従うのです。
 こうして、冒してはいけない領域にまで手を入れてしまえば、後は何でもアリとなっているのが今の学会です。
 学会員は御本尊様や墓にお供えするシキミすら造花にし、恥とも思いません。
 ニセ御守りペンダント本尊が出た時に、御本尊を冒涜(ぼうとく)したやり方に、「そのうち携帯のストラップ代わりにする者も出てくるよ」と言うと「ふざけるな!そんな訳は無い!」と気色ばんだ者もいましたが、今では、《御守り御本尊ファンシージャケット》というカバンにぶら下げるケースや、《御守御本尊マスコットホルダー》なる、ぬいぐるみがニセ御守りを抱きかかえる仕様のものまで出てきました。
 仏具屋の売り文句が「かわいいぬいぐるみが、あなたの大切な御守御本尊様をやさしく抱きかかえてくれます。御守御本尊様での新入会の方にぴったり、ご入信の御祝にもどうぞ。」とあります。学会本部と外郭の仏具屋が、いかに御本尊様をもてあそび、商売道具にしているかよく分かります。
 これらが、どんなに嘆かわしく恐ろしい事であるか、皆さんはしっかりと認識して戴きたいと思います。

【仏法を自分中心に推し量ってはいけない】
『撰時抄』に、
「機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり」(御書846頁)とあり、 第九世目有上人『化儀抄』には、
「行体行儀(ぎょうたいぎょうぎ)の所は信心なり妙法蓮華経なり、爾(しか)るに高祖・開山の内証も妙法蓮華経なり、爾るに行体の人をば崇敬(すうぎょう)すべき事なり」(聖典974頁)
とあります。
 学会ではSGIメンバーに長い勤行は無理だと言いますが、正宗の海外信徒で短縮勤行をしているところはありません。
 学会幹部は自分達の怠け心を、海外メンバーに転嫁して正当化したに過ぎません。
 化儀は化法の顕れ、すなわち大聖人様の教えそのものです。大聖人を崇めているフリをしますが最早、創価教・池田教なのです。
 池田教の顕著な例が、勤行の観念文を、
創価学会初代会長、二代、三代の会長を広宣流布の指導者と仰ぎ、その死身弘法(ししんぐほう)の御徳に報恩感謝申し上げます』
と変更し、生きている人間を「死身弘法」と崇めている事にあります。
 創価学会員の中には、仏法を判断する基準を池田氏の言動に置いている人が多くいます。その理由を尋ねれば「池田先生に恩があるから」、「池田先生に仏法を習ったから」という答えが返ってきます。
 しかし戸田会長は「折伏したのちに、恩着せがましく、自分をありがたがれという態度はよくなく、ただ御本尊に御奉公できたことを、感謝するだけでいいのである。」(戸田会長全集1巻97頁)
と述べています。
 これからいけば、池田氏への過度な報恩は筋違いであり、正しい信心のあり方ではありません。どこまでも正法を求めていくことが大聖人の仏法です。
 宗門が、問題が起きた当初、池田氏の法華講総講頭を罷免にしたのも、池田氏にこれ以上罪を犯させないための、防非止悪(ぼうひしあく)の処置でした。
 その慈悲もわからず、あらん限りの悪口雑言と誹謗中傷を開始し、宗門を貶(おとし)めるためならどんな手でも使ってきたのが学会です。

 学会員に、「創価学会という組織に功徳があるのでしょうか?」「池田先生に功徳があるのでしょうか?」と聞けば、皆が等しく否定するでしょう。
 しかし、世間の情に流され、仏法の三世の道理を見失っている学会員にとって、池田氏や組織は絶対であり、成仏の因であると考えているのです。
 大聖人様は、
「恩を棄(す )て無為(むい)に入るは真実報恩の者なり」(御書 983頁)
と仰せですが、池田氏や学会の過去の功績に恩を感じているからこそ、宗門や法華講員は学会の誤りを糺(ただ)し、慈悲の折伏を続けているのです。

【極理は師伝される】
 もう一つ学会が曲がった理由に、「相承がない」と言う事が言えます。
 末法に御本仏日蓮大聖人が出現されましたが、大聖人滅後の弘教の正しい方向性が確立しなければ、未来永劫にわたる正法流布は出来ません。
 故に、大聖人様は仏法の一切を日興上人へ付嘱されました。従って、日蓮正宗では唯授一人の血脈相承、「付嘱」という事をもって末法の僧宝と立てるのです。
 現時点で仏法の一切を伝持遊ばされている方は、紛れもなく御当代の御法主上人猊下様なのです。
 故に『御本尊七箇之相承』に、
日蓮在御判と嫡々(ちゃくちゃく)代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」(聖典379頁)
とあり、大聖人様は代々の御法主上人を「日蓮なり」と思って拝していくように仰せです。
 また、大聖人の立てられた三宝は、当宗の御本尊様にも明確に顕されております。
 ○法宝…題目
 ○仏宝…日蓮在御判
 ○僧宝…御歴代上人の書き判
であります。
 かつては池田氏も、
「われわれは、あくまでも『本門戒壇の大御本尊』を信奉したてまつり、日顕上人猊下に随順し、多くの人々に、この大聖人の仏法を知らしめゆく、尊くも誇り高い人であるとの自覚をもっていただきたい。
 この大仏法の究極唯一の法体は、申すまでもなく、「本門戒壇の大御本尊」であり、法灯連綿、御歴代の御法主上人猊下がこの大御本尊を厳護したてまつられてここに七百年、第67世御法主日顕上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。」(「広布と人生を語る」第二巻122頁)
と、正しい指導をしていたのです。
 ところが今や、見る影もありません。大御本尊を否定し、唯授一人血脈相承を否定し、御法主上人の御本尊御開眼を「魔法」と揶揄(やゆ)し、都合の悪い御書は全て偽書と言い張ります。
 第二祖日興上人は『遺誡置文』において、
「当門流に於いては御抄を心肝に染め極理を師伝にして」(御書1884頁)
と教示されています。すなわち、御本仏大聖人の御金言である御書の一文一句を心肝に染めることは、信仰のうえから大切であり、それには仏法の「極理を師伝」された御法主上人の御指南に随順して、はじめて正しく理解することができるのです。
 したがって、本宗の教学の研鑽は、師弟の筋目を正して習うことがもっとも肝要なのです。
 創価学会では日興上人を勝手に崇めていますが、日興上人と創価学会は何の関係もありませんし、創価学会で「極理」の内容を知る者も、「師伝」された者もいません。だから、学会は短期間で変節を繰り返してしまうのです。

【学会は何を広宣流布するのか?】
 日蓮大聖人は『法華取要抄』に、
「本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経広宣流布疑ひ無き者か。」(御書738頁)
と仰せであります。
 具体的に何を広宣流布すべきであるかを第二十六世日寛上人は『撰時抄愚記』に、
「末法に於ては、必ず応(まさ)に文底深秘(じんぴ)の大法広宣流布すべし(中略)文底深秘の大法、その体如何(いかん)。答う、則ちこれ天台未弘(みぐ)の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり」(文段289頁)
と総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊を広宣流布すべきことを仰せです。
 さらに『文底秘沈抄』に、
「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄68頁)
と仰せであり、全世界の人々が本門戒壇の大御本尊に帰依して、本門の題目を唱えることを「広宣流布」といいます。
 この三大秘法が備わらない教えが広まっても広宣流布とは言えないのです。
「フェイク」という、発信元を隠して、FAXで全国の寺院へ送りつけてくる怪文章があります。その11月23日号には、本山の御会式を馬鹿にしながら、「池上本門寺は30万人が参拝した」「中山法華経寺の御会式は地域融合の有名な行事になっている」と礼賛しています。
 宗門を誹謗するためなら、今まで邪宗と言ってきた他宗をも礼賛する。創価学会も堕ちるところまで堕ちたという思いしかありません。

【日如上人の御指南のままに】
 今、日如上人は我々に唱題と折伏の実践を繰り返し御指南くださっています。大多数の、何となく「信心をしているつもり」だった方にとっては、今までの自分を反省し、変えなければなりませんので、試練と言えます。
皆さんにもそれぞれ事情はあるでしょうが、これらの実践無くして、自分の過去世からの宿業を転換し、福徳に満ちた人生を全うすることは出来ません。日如上人の御指南は、皆に本物の信心の実践をさせて、本物の功徳と歓喜を体感させたいとの御慈悲なのです。
 もし、日如上人が「一生懸命やることが大事だから、結果はどうあれ折伏に励みなさい。」と仰せになったら、易きに流れるのが凡夫の常ですから、宗内で今程折伏は進まなかったでしょう。
明確な目標と、それを達成するよう常に叱咤激励下さるありがたさを、我々は今一度深く心に入れるべきなのです。
まずは、今までの自分の信心を折伏してこそ、本当の折伏につながるのではないでしょうか。
 仏教の修行は、師弟の筋目を糺していくことが大事です。また、敬虔(けいけん)なる姿が求められます。我見が強く素直でない人は、自分の癖を自覚し、よくよく注意しなければなりません。
 なぜなら、自分の智慧や才覚で成仏するのではなく、当宗では師弟相対の信心によってのみ、成仏が許されるからです。
葬儀の際の「引導文」で明らかなように、我々はありがたくも、大聖人様より御当代日如上人までの御歴代上人の大慈大悲を賜り、即身成仏へと引導して戴いているのです。そして末寺住職は、その猊下の名代として、導師を勤めるのです。
 ですから大聖人は、
日蓮が弟子となるとも日蓮が判を持たざらん者をば御用いあるべからず」(御書831頁)
 と仰せのように、弟子である僧侶の「日蓮が判」が肝心なのです。
どんなに創価学会や、顕正会が強弁しようと、会内に「日蓮が判」を持つ者はいません。お経やお題目が唱えられればそれでいいという事になってしまえば、正法は混乱し、消滅してしまいます。
 大聖人様以来の血脈を御所持遊ばされる御法主上人の権能によって一切衆生の成仏は叶うのであり、ここが信じられなければ信心をしている意味がありません。
 大聖人様の妙法は、不可思議この上ない法です。法華経方便品に「唯仏与仏・乃能究尽」とありますが、唯、仏と仏のみがよく極め尽くすことができるもので、我々には理解することもままならない大法なのです。したがって、一心に仏を信じて、日如上人の教えのままに修行する事によってのみ会得できるのです。
 さあ皆さん、今こそ日如上人のお心を拝し、唱題と折伏に励んで参ろうではありませんか。

 慈本寺様「御住職の法話」より

日蓮正宗 勤行要典の解説

日蓮正宗 勤行要典の解説