修羅界は争いを好み諂い曲がった命

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 日蓮大聖人は『秋元御書』に、
「軍(いくさ)起これば其の国修羅道(しゅらどう)と変ず」(御書1450)
と仰せです。国に争い事や戦争が起これば、その国は修羅界になります。更に『新池御書』にも、
「修羅は闘諍なり」(御書1456)
とも御教示です。人の心に修羅が生まれれば、喧嘩が起こり人間関係を害していき、修羅道を目の当たりにします。信心では修羅の命を止めていくことが出来ます。修羅に働く生命活動を冷静にさせ、御本尊様に御題目を唱えていく言動へと変え、仏因へと変化させます。
 修羅の命が曲がっていることを日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
「諂曲なるは修羅」(御書647)
と仰せです。修羅の命は素直さを失い、他人を見下す自惚れの強い境界です。  
 日蓮大聖人は修羅道について『十法界明因果抄』に、
「第四に修羅道とは、止観(しかん)の一に云はく『若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽(かろ)しめ己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて視(み)下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚(あ)げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり』文」(御書208)
と天台の『摩訶止観』を引用され御指南です。修羅界の命は、時に良心的で善心を覗かせることがあります。第一印象で優しそうに見えても、豹変して修羅の形相になる人は、正しく修羅界の生命でありましょう。
 更に修羅界の生命について『佐渡御書』に、
「おご(驕)る者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅(しゅら)のおごり、帝釈(たいしゃく)にせ(攻)められて、無熱池(むねつち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し」(御書579)
と仰せです。修羅界の阿修羅は、天上界の帝釈天と争うことで有名です。
 戒である御本尊様を受持しなければ、修羅道に行くことを『祈祷抄』に、
「人間界に戒を持たず善を修する者なければ、人間界の人死して多く修羅道(しゅらどう)に生ず。修羅多勢なれば、をご(驕)りをなして必ず天ををか(侵)す。人間界に戒を持ち善を修するの者多ければ、人死して必ず天に生ず。天多ければ修羅をそ(恐)れをなして天ををかさず。故に戒を持ち善を修する者をば天必ず之を守る」(御書623)
と御教示であります。地球上には、日本以外で争いが絶えない国があります。その国が、修羅界の世界であります。日本に生まれても御題目を唱え御本尊様を受持しなければ、来世には修羅界の国土に生まれる可能性があります。
 日蓮大聖人は真言宗が、修羅の命に支配されていることを『太田殿女房御返事』に、
「即身成仏の手本たる法華経をば指(さ)しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字をを(置)かるゝ条、天下第一の僻見(びゃっけん)なり。此(これ)偏(ひとえ)に修羅根性(しゅらこんじょう)の法門なり。」(御書1473)
真言宗で立てる即身成仏の法門は、修羅根性であると破折されています。
 争いが好きで諂い曲がった生命が修羅界の命です。地獄・餓鬼・畜生と修羅を合わせて「四悪趣」といい、悪道へ通じる道であります。信心をすることでその道を塞ぐことが出来ます。