「冨士大石寺顕正会」の皆さんへ

「冨士大石寺顕正会(けんしょうかい)」に所属している皆さん、
本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の大御本尊を根源(こんげん)とする日蓮大聖人の正法を正しく伝持(でんじ)し、真の仏国土建設のため広宣流布の実現に向かって自行(じぎょう)化他(けた)を実践している宗団は日蓮正宗のみです。
 皆さんは、日蓮大聖人の仏法にせっかく縁を持ち、広宣流布による世界平和のために折伏していこうと決意したのですから、その志を無駄(むだ)にしないため、ただちに、間違った宗教である「顕正会」との縁を切って日蓮正宗に入信し、大御本尊と血脈付法の御法主上人のもと、僧俗一致して、真実の広宣流布に向かって信心に励んでいきましょう。

○「顕正会」と日蓮正宗との関係は?
 顕正会はかつて「妙信講(みょうしんこう)」といい、日蓮正宗の中のひとつの講中(支部)として活動していました。
 妙信講は昭和17年、日蓮正宗妙光寺(東京都品川区)の檀家総代(だんかそうだい)を務めていた浅井甚兵衛氏が、妙光寺に所属する信徒組織として設立しました。
戦後の混乱期には、一時、日蓮正宗法道会(現法道院)に所属を変更し、さらに昭和33年1月には、妙縁寺(東京都墨田区)に所属替えをして再出発しています。

 昭和37年、日蓮正宗では全国各地の法華講支部の連合体である「法華講連合会」を発足させました。
これは、全国の法華講信徒が歩調(ほちょう)をあわせて広宣流布に向け、団結・前進していくことを目的とし、
時の御法主日達上人の御指南によって設立されたものです。
ところがこの時、「妙信講」は総本山の指導に反発し、日蓮正宗法華講連合会に加入することを拒否しました。
その結果、妙信講に所属していた法華講員は、昭和39年8月19日以降の五年間、総本山へ登山することができない、中途半端な状態になってしまいました。

○昔は、浅井会長父子(甚兵衛氏・昭衛氏)も『御開扉』を受けていました。
 日蓮大聖人の仏法の根源である「本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の大御本尊」は当時、総本山大石寺の「奉安殿(ほうあんでん)」という建物に安置されていました。
問題が発生する前の浅井父子は、他の妙信講の講員とともに、総本山へ登山するたびに大御本尊の「御開扉(ごかいひ)」を受けていたのです。
今になって顕正会では、「『御開扉(ごかいひ)』と言って大御本尊を拝ませるのは、大御本尊を商売道具とする謗法(ほうぼう)行為だ」と日蓮正宗を批判しています。
しかし、浅井父子をはじめ浅井家の人々はみな、昔は当たり前のように登山しては、『御開扉(ごかいひ)』を受け、御法主上人によって罪障消滅のご祈念をしていただいていたのです。こうした事実を、皆さんは知っているのですか?

 自分たちが、仏法の師匠である御法主上人に反発し、自分勝手な行動をとったため、その「師敵対(してきたい)」の間違った行為を注意されたのです。
その結果、御開扉(ごかいひ)を受けさせていただけなくなった途端、「御開扉(ごかいひ)は謗法(ほうぼう)だから、受ける必要はない」と言っているのです。こうした態度を世間では、「逆ギレ」というのです。

○妙信講(現・顕正会)が解散処分になった本当の経緯
 どうして妙信講(顕正会)が、日蓮正宗から解散(かいさん)処分を受けたのか。
その後、浅井父子はじめ一部の最高幹部が、信徒除名(じょめい)処分とされてしまったのか。
みなさんは、詳しい経緯を今まで一度も、聞かされたことがないはずです。
今から、その本当の経緯を、詳しく、順を追って説明します。
 昭和30年代後半から40年代にかけ、「総本山大石寺に正本堂を建設しよう」との話が持ち上がりました。
これは、「世界一の大御本尊を安置し、お護りするために、世界に誇れる最高の建物を建設しよう」という純粋な信仰心から発案されたものです。
当初は、妙信講の浅井会長も正本堂の建設に賛同し、妙信講内でも「正本堂を建設するための御供養を行なおう」との推進活動が行われました。

 ところが、建設計画が具体的になるにつれ、創価学会池田大作会長(当時)は、正本堂を「御遺命(ゆいめい)の事(じ)の戒壇堂(かいだんどう)である」と断定するような、間違った発言を行なうようになりました。
さらに池田会長は、ことあるごとに自身が創価学会の会長として「御遺命達成・広宣流布をなしとげた」との発言を繰り返すようになったのです。
要するに「広宣流布を達成した池田会長は、大聖人よりも尊い仏である」と言わせたかったのです。
 しかし、圧倒的多数の国民がいまだ正法を信ぜず、国内に謗法(ほうぼう)が蔓延(まんえん)している状態で、大聖人のご遺命を曲げて、日達上人が「広宣流布の達成」を宣言されるはずはありません。
どうしても、御遺命の達成を認めようとしない(池田氏の言うとおりにしない)日達上人に対して、池田会長は怨嫉(おんしつ)するようになりました。
 一方、一連の池田発言に対し、妙信講の浅井氏は「御遺命(ごゆいめい)の戒壇は、天皇の勅宣(ちょくせん)と御教書(みぎょうしょ・政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇(こくりつかいだん)でなければならない。またその戒壇は、天母山(あんもやま)に建てるべきである」と主張し、池田発言に異議を唱えるようになりました。
 こうした経緯を断片的(だんぺんてき)に見ると、あたかも「浅井氏の発言は正鵠(せいこう)を得たもの」と思えます。
しかし冷静に見てみると、池田発言は我見(がけん)による大謗法行為であることはもちろんのこと、それに対して「国立戒壇」という名称に固執(こしゅう)し、ついに血脈付法の御法主日達上人の御指南を受け入れられなくなった浅井父子の言動・振る舞いも、池田大作氏と同じく大聖人の御遺志(いし)に背く師敵対(してきたい)の謗法(ほうぼう)行為と言えるのです。

 さて、話を元に戻し、時の御法主日達上人は、池田創価学会による陰謀(いんぼう)を断固として拒否されました。
その表明として、日達上人は、「正本堂建立の意義」について、
 「現時にあっては、未(いま)だ謗法(ほうぼう)の徒(と)多きが故に、安置の本門戒壇(かいだん)の大御本尊は公開(こうかい)せず、須弥壇(しゅみだん)は蔵(くら)の形式をもって荘厳(そうごん)し奉るなり」(昭和47年4月)との『訓諭(くんゆ)』を発令され、「池田先生は広布を実現した真実の仏である」と認めさせようとした創価学会の目論見(もくろみ)を徹底して断ぜられたのです。
 一方で妙信講に対しては、大聖人の御書には示されていない「国立戒壇」という言葉は、世間の人々に、「強制的な力によって、日蓮正宗を国教化させようとする」との誤解を招く恐れがあるとして、以後、「広宣流布を実現して、本門事の戒壇堂を建立しよう」との本来のあるべき「広宣流布についての表現」に戻し、「国立戒壇」という単語は使用しないよう指導されたのです。
 広宣流布による仏国土の建設について、日蓮大聖人はもともと、「選挙で法律を変え、国の命令によって、すべての国民に、日蓮正宗を国教として認めさせよ」などと教えられたのではないはずです。広宣流布とは、一人ひとりが本門戒壇の大御本尊を信じつつ折伏に励み、正法信受の大功徳をいただいて、徐々に実現していくことを目標とするはずのものなのです。
 ですから、日蓮正宗で「国立戒壇」との単語を使わなくなったからといって、けっして「広宣流布の実現」という、大聖人のご精神を捨てた訳ではありません。ただ、「国立戒壇という単語は、誤解(ごかい)を招く人も多く、大聖人も、もともと使用されていない言葉であるから、今後は日蓮正宗では使用しない」と言っているに過ぎないのです。この点を、顕正会の人々には、よく分かっていただかなければなりません。
 こうして日達上人は、「創価学会の人々も、妙信講の人々も、ともにみずからの過ちを反省し、以後は、原点に立ち返り、素直に大御本尊を信じて、日蓮大聖人のご遺命の広宣流布実現に向かって自行化他に励んで欲しい」との大慈悲(じひ)心により、両者を善導(ぜんどう)されようと試みられました。
 ところが妙信講は、このような日達上人の御心に背き、以後も、日蓮正宗を非難・攻撃し続け、ついに「流血の惨も辞さず」(昭和47年6月30日付)との脅迫(きょうはく)文を送りつけてきました。そこで日達上人は、みずから、妙信講が所属する妙縁寺まで赴(おもむ)かれ、浅井父子と直接ご対面。浅井父子を説得し、やっとの思いで、昭和47年10月、「正本堂落慶法要」を奉修されました。
 落慶大法要の後、問題は一時収まりかけましたが、妙信講はふたたび「国立戒壇」という言葉を使いはじめ、ついに文書の街頭配布やデモ行進を行なうなど、日蓮正宗の指導に、まったく従わなくなってしまいました。

 そもそも、仏道修行の世界で、信徒や弟子が、大師匠である御法主上人の御指南に従わなくなったら、誰が、その人々の信心を正しく指導するとでもいうのでしょうか。創価学会の態度もおかしいのは言うまでもないことですが、外護すべき日蓮正宗にまで、攻撃の矢を放った妙信講の一連の行動は、事態をエスカレートさせていくだけのものでした。
 そうした悪意による行動の結果、妙信講は昭和49年8月12日、日蓮正宗から解散処分の命令を受けました。これを不服とする妙信講幹部は、宣伝カーで創価学会本部を襲撃し、乱闘事件を起こすなどの過激な行為に至ったため、日蓮正宗はついに、浅井父子を中心とする信徒を、除名処分としたのです。

○その後、妙信講は「顕正会」へ。
 こののち妙信講は、昭和57年10月9日、総会を開いて名称を「日蓮正宗顕正会」と変更しました。さらに平成8年11月18日には宗教法人を取得し、直後の総幹部会の折りに、「冨士大石寺顕正会」と称することを発表し、現在に至っています。

○「冨士大石寺顕正会」の、なにが間違っているのか?
 ①「事の戒壇国立戒壇」と執拗(しつよう)に主張することが間違いです。
国立戒壇(こくりつかいだん)」という名前は、日蓮大聖人の御書には、一カ所も出てきません。
つまり、日蓮大聖人は「国立戒壇」という言葉を使用されていないのです。

 そもそも「国立戒壇」という言葉は、国柱会(こくちゅうかい)の創始者・田中智学(たなか・ちがく)という人物が始めて使ったものです。「国民のすべてが、日蓮大聖人の仏法を信ずる」という広宣流布の姿を説明し易(やす)いことから、一時期、日蓮正宗の僧俗も使用した時期がありました。しかし、日蓮正宗の公式見解としては、「国立戒壇」という言葉は、過去の歴史の中で、一度も使用されたことはありません。

 御法主日達上人は、昭和45年5月3日、以下のように御指南されています。
 「明治時代には、国立戒壇(こくりつかいだん)という名称が一般の人に理解しやすかったので本宗も使用したが、もとより明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解(ごかい)を招(まね)いて布教の妨(さまた)げとならぬよう、今後は国立戒壇という名称は使用しないことにする」
 「国立戒壇」という言葉を、日蓮正宗では使用しなくなったからといって、日蓮正宗の教えから、「広宣流布の実現」「破邪顕正」の精神が無くなった訳ではありません。ただ、もともと、日蓮大聖人の仏法では使われてこなかった「国立戒壇」という単語を、単純に使わなくなった、というだけのことです。

②「広宣流布以前、本門戒壇の大御本尊まします処は、義の戒壇」との説が間違っています。
 顕正会は、「三大秘法のうちの本門の戒壇は、広宣流布の暁に初めて建立されるものであり、それ以前に大御本尊が安置せられる場所は、その意義が本門事の戒壇に通じるだけであって、本門事の戒壇とはいえない。したがって、『大御本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇』とする大石寺の立場は大聖人に違背している」(日蓮大聖人の仏法123ページ)と主張しています。
 しかし、日蓮正宗では古来、本門戒壇の大御本尊ましますところが、そのまま本門事の戒壇とし、そのうえで、将来に広宣流布が達成された暁に、信仰の根本道場として戒壇堂が建立されるもの、と教えられてきました。これが、正しい御遺命(ゆいめい)の「本門事の戒壇」の意義です。

 総本山第26世日寛上人は、「一大秘法とは即(すなわ)ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処(ところ)を名づけて本門の戒壇と為し…」(六巻抄82ページ)と示されています。
また、『三大秘法之事』の講義においても
 「在々処々本尊安置之処ハ、理の戒壇也」「富士山戒壇ノ御本尊御在所ハ事の戒也」(日相上人聞書)
と仰せられています。

顕正会員である皆さんが大聖人様、日興上人、日目上人と並ぶように信じ仰いでいる日寛上人が、
「本門戒壇の大御本尊がまします所は、そのまま事(じ)の戒壇である」と仰せられているのです。
 さらに、総本山第60世日開上人も
 「戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今現前に当山に在(ましま)す事なれば、此の処(ところ)即(すなわ)ち是れ本門(ほんもん)事(じ)の戒壇、真の霊山、事の寂光土」
と指南されています。
 これらの御指南のとおり、日蓮正宗における「事(じ)の戒壇」の意義は、終始一貫しており、なんら疑義(ぎぎ)を差し挟(はさ)む余地(よち)はありません。
 
顕正会の基本的な誤りは、大聖人の御書の意味を、自分勝手に、一方的に判断するところにあります。
これは、仏法の大師匠(ししょう)である御法主上人のお言葉であっても、「自分の意見と違(ちが)う場合は、御法主の方が間違っている」という本末転倒・師敵対(してきたい)謗法の姿勢に起因(きいん)するところといえましょう。

③浅井会長の予言自体が、いい加減なものです。
 浅井会長は顕正会の会合などで、しきりに「今に大地震が起こる」とか「戦争が起こる」「北東アジアが攻めてくる」などと予言(よげん)を連発(れんぱつ)しています。しかし、今まで一度として、それらの予言が的中したことはありません。「予言が、い・つ・も・は・ず・れ・る・」のですから、当然、会員から会長に対する不信感がわき起こってきます。それを防ぐため、予言が外れると、必ずと言っていいほど、「浅井先生の一念によって、災難が回避(かいひ)された」などと幹部が話をスリ替えるのです。

 こうした不誠実な態度は、新興(しんこう)宗教の教祖(きょうそ)がよく使う手段で、邪宗教に引き込むための脅(おど)しと騙(だま)しのテクニックに他なりません。こうした手段によって、純真な人々は次第に誑惑(おうわく)され、洗脳されていくのであり、みなさんも、「どこか、おかしい」と思っているのではないでしょうか。
 まず、「おかしい」と思うことは、どんどん声に出して、顕正会の組織なり、直属の幹部なりに向かって、疑問点を問いただしていく必要があるのではないでしょうか。
また、そのように声に出し、疑問点を解決しようとする振る舞いを、幹部が「魔が入っている」「信心がたりない」などと制することでしょう。
しかし、正しいことを知りたいと思う素直な気持ちをあきらめたり、「罰が出る」などという脅しに屈していてはいけません。

 ④顕正会の勧誘方法が、まちがっています。
 顕正会で行なっている勧誘(かんゆう)活動は、日蓮大聖人が説かれる折伏(しゃくぶく)ではありません。
折伏とは、折伏相手の方の謗法(ほうぼう)の念慮(ねんりょ)を捨てさせ、本門戒壇の大御本尊に帰依せしめていく行為であり、大御本尊をもたない組織に所属している創価学会員や顕正会員は、どんなにがんばってみても、「三大秘法の南無妙法蓮華経を弘める」こと、つまり、折伏はできないのです。
 とくに、顕正会が社会的な問題となっていることは、若年層をターゲットとした無責任な勧誘(かんゆう)や、暴力的・威圧的行動です。学校などで生徒が生徒を勧誘し、教師が注意しても聞かず、それによって退学させられたケースもあり、さらには顕正会員であった教師が、学校で生徒に顕正会への入会を強要するなど、各地の教育委員会に相談が寄せられているようです。また、残念ながら暴力的な行為が疑われる事例は枚挙(まいきょ)にいとまなく、暴力事件によって逮捕者も出るほどで、警察には苦情が数多く寄せられています。

 ⑤「事の戒壇は、現在の大石寺ではなく、天母山に建立すべきである」という説は、間違っています。
 顕正会が主張する「天母山(あんもやま)戒壇(かいだん)説」は、もともと、日蓮大聖人の御書には書かれていませんし、古来、富士大石寺には存在しない伝説です。
「天母山戒壇論」は、大石寺が開創された後、100年ほどたってから、京都要法寺の方から入ってきた伝説なのです。
これについて日達上人は以下のように述べられています。
 「後世、天母山(あんもやま)という説が出てきました。しかし、もっと古い日興上人や日目上人や日時上人等にはその名前はない、全然ない。天母原(あもうがはら)もなかった。それが、日有(にちう)上人の晩年の頃に、左京(さきょう)日教(にっきょう)という京都要法寺の方の僧侶であった方が、この富士の方を非常に慕(した)われて、又日有上人に御法門を聞いたりして、この富士を慕(した)われたあげく、天母原(あもうがはら)ということを言った。天母原(あもうがはら)というのは小さなところではなく、「大きい広い」という意味をとっておる。富士の麓(ろく)の広大なる原を天母原(あもうがはら)という理想の名前に依(よ)って、自分等の考えておった理想(りそう)を表したと思われるのである。その方が本山に来た後に、初(はじ)めて天母原(あもうがはら)という名前が出てくるのである。
 天母山(あんもやま)というのは、のちには天母山(あんもやま)も天母原(あもうがはら)も混同(こんどう)しておるようでございますけれども、「天母山(あんもやま)に戒壇(かいだん)を建てよう」というのは、要法寺系の日辰(にっしん)という人がやはり来られて、この人は大石寺とはあまり付き合いはなかったが、北山(きたやま)本門寺(ほんもんじ)の方へ主(おも)におって、そこから天母山(あんもやま)へ行って、そこへ戒壇(かいだん)を建てようとした。
即(すなわ)ち、戒壇堂(かいだんどう)でもその時は仏像(ぶつぞう)であり、釈尊(しゃくそん)の像を立てて、この向こうの岩本の実相寺あたりへ仁王門(におうもん)を建てよう(と、日辰が言った)。
仁王門といえば仁王さんをお建てするのだから仏像(ぶつぞう)となる。釈迦仏(しゃかぶつ)となる。
そういう様な(日辰という僧の)理想であった。
 ところがその人が当時においてなかなかの学者であった。その後、その人の書きものを大石寺の方の人が勉強せられて、その書きものが本山にたくさんある。そういう考えが残って、(釈尊の仏像を建てようなどという考えは残っていないが)本山においても後に天母原という名前(だけ)が大いに出てきたのであって、本当の古い時には、そういう名前はない。富士山に本門寺(ほんもんじ)を建立ということは、『一期弘法抄』を拝してもわかることであるが、決して天母山(あんもやま)という名前はない。ことにまた、天母山(あんもやま)ということを言い出した為に、その後に天母山という名前が出てきておる。古来の文献にはないはずである。
 この前、富士宮の調査においても、古来においては(大石寺周辺には、天母山という名称は)なかったということを言われておる。いつから天母山(あんもやま)ということになったかということも分からない。おそらく、そういう僧侶たちが来て、天母山(あんもやま)と言い出したことが残った名前ではないかと思うのであります。
 いずれにしても、我々は戒壇の大御本尊を所持しておる。この富士の大石寺においてお護りしておる。このところこそ、戒壇の根源(こんげん)であるという深い信念を以て信心して頂きたいのである。そこに少しでも、事の戒壇だとか理の戒壇だとかいうことの、言葉のあやにとらわれて、そして信心を動かす様では、本当の信心とはいえないのであります」(戒壇論63ページ)
(※一部、意味を分かりやすくするために、付言したところがあります)
と御指南されています。

 要するに、今の顕正会で、執拗(しつよう)に固執(こしゅう)する「天母山戒壇論」は、本門戒壇の大御本尊や、日蓮大聖人の仏法とは、まったく、かかわりのなく、後年に作られた伝説であるということなのです。

⑥「66世日達上人から、67世日顕上人へ血脈相承された証拠がない」という主張は謗法の考えです。
 顕正会では、「日達上人は急逝されたため、日顕上人へ正式な血脈相承の儀式を行なう時間がなかった」として、「血脈相承は途切れている」としています。
 しかし、「皆が知り得る儀式がなければ、血脈相承はなされていない」と言うなら、たとえば、日蓮大聖人から日興上人への血脈相承の儀式は、どのような形で行なわれたのかは、一切、分かっていません。
浅井会長は、「儀式が明確に行なわれていないから、大聖人から日興上人への血脈は流れていない」とでも言うのでしょうか?
 現在、日蓮大聖人の御法魂の当体である本門戒壇の大御本尊は、第68世日如上人により大石寺に固く厳護されています。この「大御本尊は日蓮正宗が護り伝えている」という厳然たる事実こそ、日蓮正宗にのみ大聖人の正しい法脈が流れ通っている、動かしがたい証拠であると言えましょう。
 それにひきかえ、創価学会顕正会、正信会などの派生(はせい)団体が、いかに自身の正当性を主張してみても、「本門戒壇の大御本尊を拝することができない」という動かしがたい事実があります。この事実こそ、創価学会顕正会、正信会などの組織は、すでに大聖人の正義、広宣流布とは無関係の団体であることを、如実(にょじつ)に物語っているのです。

⑦「遙拝(ようはい)勤行こそ、最高の仏道修行」と言い張る顕正会員の方へ
 顕正会では、日蓮大聖人の仏法の根源である本門戒壇の大御本尊に参詣(さんけい)することができないため、「拝したくても、拝することができない」から、仕方なく、空(から)の仏壇に向かって法華経を読むことを「遙拝(ようはい)勤行」と言って行なっています。ですから、所詮(しょせん)、「仕方なく行なっている遙拝(ようはい)勤行」はホンモノの仏道修行でないことは明らかです。
 もし、「遙拝(ようはい)勤行」に、どうしても「功徳が具(そな)わるすばらしい勤行」と言い張るなら、創価学会でも「今は、大御本尊を拝む必要はなく、自宅で勤行していれば、功徳がバンバン出てくる」と主張していることと、顕正会の「遙拝勤行」とは、何が違うというのでしょうか。
 顕正会員である皆さんは、創価学会員と同じことをさせられているのです。しかし、その違いについては、細かい説明を受けられず、ただ「顕正会こそ正しい」と言い含められている不条理に、一日も早く気づき、顕正会を離れるべきなのです。

顕正会の活動には、「道理」「文証」「現証」はそなわってはいません。
 顕正会(けんしょうかい)の浅井昭衛会長は、『三三蔵祈雨事』の
日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」
との御文を引用し、以下のような指導を繰り返し行なっています。
 「大聖人は、あらゆる宗教の教義について、その正邪(せいじゃ)・善悪を厳(きび)しく検証判定されております。その時の検証する基準が「道理(どうり)」と「文証(もんしょう)」と「現証(げんしょう)」というこの3つですね。この3つの証拠を以って正邪を判定されたと。「道理」というのは、“正しい宗教、正しい仏法は必ず道理が通っているべきである”ということの理論上の一つの合理性、これから見ていくこと。次に「文証」というのは文献上の証拠である。ことに仏教の諸宗においては釈尊の経文こそ、その唯一の証拠であると。経文上にその教義の正当性が立証せられるかどうかということが「文証」。それから、「現証」というのは“その教えを実践してはたして功徳があったかどうか”ということなのであります。これはちょうど薬を論ずるのに薬が効くか効かないか、良い薬であるかどうかそれを判定するのにまず薬の成分を調べる。これが道理に当る。文証というのはその薬の文献上の証拠(しょうこ)を尋(たず)ねる。それから現証というのはその薬を飲ませて人体実験をして果たして効(き)くか効かないかということなのであります」(趣旨)

 さて、この浅井会長の指導を念頭に置き、現在の顕正会の活動をみたときに、大きな疑問がわき起こってきます。その疑問とは

 1. (道理について)
 たとえば、ある国が進むべき道を決定する「議会と議長」の役割について考えてみましょう。
 議会において、人々の意見を集約し、最終的な決定をくだすのは議長の役目です。もしその議会に、議長が2人も3人もいれば、議事の運営や議決などをスムースに行うことはできません。
また、その議会を構成する議員たちが、なによりも、議長を信頼し、自分の意見を述べながらも、最終的には、議長の決断や、議会の決定に従う良識がなければ、議会の運営は成り立ちません。
議長のもとに決定された議決に従えない議会には、いくつもの派閥ができたり、活動がバラバラになって統制(とうせい)は乱れ、やがて、その議会は分裂(ぶんれつ)するか解散してしまうことでしょう。
 もちろん、議長の信任のもとに、幾人かの補佐役や議事運行係などの協力は必要不可欠です。しかし、一番大切な最終的意思決定は、ひとりの議長(責任者)が責任をもって下し、また、議員たちは、その決定には、不服があったとしても従う義務があるのです。
 これは、日蓮大聖人の正法を伝持する和合僧団(わごうそうだん)であっても同様のことが言えます。
 日蓮大聖人は、ご入滅に先立ち、滅後(めつご)の教団運営などにそなえて6人の高弟を選定されました(六老僧)。しかしこれは、大聖人が、六老僧全員に、均等(きんとう)に後を託された(血脈相承を授けられた)という意味ではありません。
本門戒壇(かいだん)の大御本尊という日蓮大聖人の御法魂の当体、そして大聖人の代わりにすべての教義を説かれるという大権は、ただ日興上人だけに授与されたということです。
他の五老僧たちは、日興上人の補佐役として、また、各地に点在する信徒や弟子たちをとりまとめ、常に日興上人へ向かわしめるという役割に過ぎません。
ところが、日興上人以外の五老僧たちは、日興上人の御指南に従(したが)えず、自分勝手に活動していったため、現在でも、日蓮正宗の正義とは遠い謗法(ほうぼう)の姿が、身延派日蓮宗を中心にみられるのです。
日蓮正宗以外の、日蓮系教団の謗法は、すべて、日興上人以下、大石寺の御歴代上人の御指南に従えなかったことに起因(きいん)しています。
 前置きが長くなりましたが、かつて日蓮正宗で信仰していた信徒の団体に、創価学会顕正会、正信会(一部僧侶)があります。それらに所属する人々は、みな、「うちが一番正しい」「いや、うちこそが、大聖人のご精神を受け継ぎ、広布に邁進している」など、それぞれが、みずからの正当性(せいとうせい)を主張しています。
 本来、日蓮大聖人の仏法を広宣流布していくための組織は、ひとつに限られるはずです。
それが、どうして、いくつにも分裂(ぶんれつ)し、それぞれがバラバラに活動するようになってしまったのでしょうか。
 その理由はただ一つです。顕正会創価学会も、正信会の人々も、みな、根本の大師匠である御法主上人の御指南にしたがえず、それぞれの組織が、自分勝手な判断で行動しているからなのです。
 日蓮大聖人の仏法のなかで、どの活動が正しく、どの活動が間違っているのか。
それを判断できるのは、時の御法主上人以外には、おられません。
もし、その御指南が不服であったり、それに従えないから、「別の指導者(会長や名誉会長)の指導に従う」という人は、まさに、議会の中に、本来の議長が気にくわないから、別にもう1人の議長を担ぎ上げ、自分に都合の良いような議決を出してもらおうと企んだようなものなのです。そうした道理は、世間的にも通用しないことは明白です。
 要するに、いかなる状況のもとであれ、御法主上人の御指南に素直に信伏随従して、信心に励んでいくべきこと。それが、日蓮大聖人の御心(みこころ)にかなう仏道修行の姿であるということが道理(どうり)であり、この道理(どうり)にしたがえない顕正会の人たちには、日蓮大聖人の仏法の正義は存在しないと言えます。

 2, 「文証」 
 日蓮大聖人様の御書に
 「但(ただ)し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付属(ふぞく)は唯(ただ)一人なり。白蓮阿闍梨(あじゃり)日興を以て総貫首(そうかんず)と為(な)し、日蓮が正義悉(ことごと)く以て毛頭(もうとう)程も之を残さず、悉く付属(ふぞく)せしめ畢(おわ)んぬ。上首(じょうしゅ)已下並びに末弟(まってい)等異論(いろん)無く、尽未来際(じんみらいさい)に至るまで、予(よ)が存日(ぞんじつ)の如(ごと)く、日興が嫡々(ちゃくちゃく)付法(ふほう)の上人を以て総貫首(そうかんず)と仰ぐべき者なり」(御書1702頁)
 とあります。この意味は、
「私日蓮は、六人の高弟を六老僧と選定したが、ただし、私の仏法の一番大切な部分は、たった一人にしか譲らない。白蓮阿闍梨日興をもって、私の正当な後継者と定め、私の仏法の正義のすべてを、髪の毛一本も残さず、ことごとくすべて付属し終わっている。高弟から一般の弟子にいたるまで、日興上人が跡継ぎであるということに異論を唱えることなく、未来永遠にわたって、私・日蓮が生きているときのように、日興と、その後を継いでいく歴代の法主貫首)をもって、総貫首と仰いでいくべきである」(趣旨)
ということです。
 日蓮大聖人の御書という、「最高の文証」に明らかなことは、いつ、いかなるときであっても、大石寺の御法主上人を、「生きた日蓮大聖人」と拝して、その御指南にしたがい、自行化他に邁進していくことの大切さを教えられたものであり、現在の顕正会が、この大聖人の御遺言に背いていることは明らかです。

 また、「文証」の二つ目としては、『日興遺誡(ゆいかい)置文(おきもん)』が挙げられます。『日興遺誡置文』とは、日興上人が第三祖日目上人に与えられた「遺言(ゆいごん)書」です。
 その中に、次のような条文があります。(御書1885頁)
 「一、時の貫首(かんず)たりと雖(いえど)も仏法に相違(そうい)して己義(こぎ)を構へば之を用(もち)ふべからざる事」
 「一、衆義(しゅうぎ)たりと雖(いえど)も、仏法に相違(そうい)有らば貫首(かんず)之(これ)を挫(くじ)くべき事」
 最初のお言葉の意味は
 「一、時の御法主であっても、その方が、仏法に相違して己義を構えたならば、その己義を用いてはならない」
ということです。顕正会創価学会の人々は、この日興上人の御教示を引用し、
 「日達上人や日顕上人は、日蓮大聖人の仏法に背(そむ)く己義(自分勝手な教義)を構えた。よって我々は、そうした謗法の法主に従わずにいることが、かえって大聖人の正義を守ることになる。将来、日蓮大聖人の仏法を正しく説かれるすばらしい御法主が出現されたら、我々はふたたび日蓮正宗に戻るのであり、それこそ、日興上人が示されて道だ」
などと言って、顕正会の意見をとりいれない人は、たとえ時の御法主上人であっても謗法と断定し、その言葉に従う必要がないことの「文証」として、この日興上人のお言葉を利用しています。
 ところが、『日興遺誡置文』の、もうひとつの条項をよく見てみると、
 「一、たとえ、多数の意見であっても、それが大聖人の仏法に相違(そうい)していると御法主上人が判断されたならば、たとえ、多数決のような大衆の意見(創価学会顕正会などの信徒の意見)であったとしても、その意見を用いてはならない」
とあるのです。
 「己義(こぎ)を構えた御法主には従ってはならない」のか、それとも、「たとえ、数十万人、数百万人の人の意見であっても、御法主の意見とは違うものは、それを受け入れてはならない」のか。一見すると、まったく逆の、矛盾(むじゅん)した遺言を残された日興上人は、いったい、どちらに本意(ほんい)があるというのでしょうか。
 その答えを導くヒントは、
「この日興上人の御書は、後継者(こうけいしゃ)である日目上人をはじめ、未来の御法主上人への戒めや、心構えを箇条書きにして書かれたものである」
ということです。
 よって、これらの日興上人の御教示は、将来、出現されるであろう御法主上人の「心構え」を書かれているのですから、これは「御法主上人が、御法主としての重大なお役目を果たされるにあたって、ご自身の身にあてはめて読まれるべき」ものであり、創価学会顕正会の幹部が、気に入らない御法主上人を批判する目的で悪用する「文証」ではない、ということなのです。
 顕正会創価学会の行為は、たとえば、他人が受け取った手紙を読んで、「私からみれば、あなたは、親の言うことを聞かず、この手紙に書かれている事に従っていないから、あなたは、親からの遺産(いさん)を相続(そうぞく)する資格はない」などと勝手に判断し、一方的に批判しているようなもので、余計(よけい)なお世話以外のなにものでもないのです。
 そもそも、
 「大聖人の仏法に適合(てきごう)しているか、大聖人の教えから逸脱(いつだつ)しているか」
を判断するのが、御法主上人が、日蓮大聖人より託された大切な役目の一つです。つまり、「何が謗法(ほうぼう)で、何が正義(しょうぎ)か」ということについて、顕正会の会長には、それを最終的に判断する資格は、まったくない。これが、「文証(もんしょう)」によって明らかである、ということです。

3. 「現証」 
 現在、本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の大御本尊を拝することができない顕正会(けんしょうかい)に所属している限り、三大(さんだい)秘法(ひほう)の「本門(ほんもん)の題目(だいもく)」を唱えることは絶対にできません。
なぜなら、本門の題目は、本門戒壇(かいだん)の大御本尊(三大秘法中の本門の本尊)に向かって唱える題目のことを言うからであり、よって、「本門の題目」が唱えられない限り、どんなに布教活動に専念したとしても、過去遠々劫よりの謗法罪障を消滅することはできず、顕正会の方々は、気の毒にも、成仏の功徳を積むことはできないのです。
 これは揺るがしがたい事実であり、誰が何と言おうと、顕正会の信心が、大聖人様の御心に叶ったものではない、明白な「現証」と言えましょう。

 また、浅井会長は、「誑惑(おうわく)の正本堂(しょうほんどう)から、本門戒壇(かいだん)の大御本尊が運び出され、正本堂(しょうほんどう)が永遠にその姿を消し去ったとき~その時こそ、我ら顕正会(けんしょうかい)がふたたび、本門戒壇の大御本尊のもとに還える時である」との指導を、何度も何度も繰り返し吹聴していました。
しかし、すでに正本堂は、日顕上人の大英断のもと、平成12年には解体されています。
 正本堂解体から十年以上経過した現在であっても、顕正会は、総本山に帰ることもできなければ、大御本尊と血脈付法の御法主上人のもとに、正しい信心をすることができていません。
これこそ、残念ながら、現在の顕正会の活動が、まちがっている何よりの現証(げんしょう)といえましょう。

 浅井昭衛氏は、「私たちは今この御大法に値えた。ありがたいことであります。しかし、大聖人様のもし心に背く、仰せに背くならば功徳はなくなってしまう」と語っています。
 まさに、大聖人様が仏法の正邪を判断する大切な指針として示された「理証」「文証」「現証」のすべてが整わない顕正会で信仰することは、大聖人様のお心に背いているのは明らかです。
 どうか、冨士大石寺顕正会に所属されている皆さんには、この厳然たる事実を、冷静沈着にお考えいただき、真実の大聖人の仏法をもとめ、日蓮正宗の寺院を尋ね、僧侶の話に耳を傾けられるよう、願ってやみません。

 

※この文章の大半は、『

 

諸宗破折ガイド

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(宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編)』に掲載されている顕正会破折文章に筆者が一部手を加えたものです。