私にとっての宗教とは、すがりつき助けを請う存在である。

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こんなブログを運営して、偉そうな事を言っていても結局は、神頼みの信心に行き着いてしまうのが私なのであります。

恥ずかしながら、昨日の簿記の試験も合格をご祈念してしまいました。

大聖人様の仏法は、個人が自己中心の欲望を満たすための道具ではありません。

少なくとも日蓮正宗という宗派では、現世利益ではなく自身と他者の即身成仏を目指しているのです。

創価学会顕正会も結局は罰と御利益の宗教でした。

罰で脅して御利益で釣る。

違うのは目的が国立戒壇建立か公明党の勝利か。

同工異曲の見本です。

創価は御本尊様を「幸福製造機」と表現しましたが、言い得て妙でした。

しかし、餓鬼界に根を張った信心などというものは、永続性のない空虚なものであったことを創価学会自身が証明してしまったのも事実です。

創価学会員の誇るものとは、公明党の政治権力、社会的地位、財産・・・餓鬼界の満足で成就するものは、修羅界や畜生界の果報なんです。

じゃあ、お前はどうなんだって言われれば、所詮私の境涯程度では、似たりよったりというのが正直なところですね。

自分が幸福を感じるものこそが、自分の宗教の限界なのです。

法悦にむせぶなんてことは、なかなか経験できることではないでしょう。

私にとって即身成仏というのは、言葉で意味を理解することもできない、遠く高い存在なのです。

しかし、法華講員や日蓮正宗の御僧侶の中には、本当に他人の幸せを心から願い、懸命に折伏行に励んでおられる方がおいでになります。寺院の折伏誓願のためだけでなく、純粋に世界の平和と他者の幸福を願う菩薩の境涯を生きる人が。

創価学会顕正会では見たことのない人々です。

そのような人に出会えることこそが、今の自分の喜びでもあります。

私の信仰は、私を支えてくれた人のおかげなんです。

愚かな凡夫の中でも、最もおろかな創価学会員や顕正会員であった私に、生きる価値があるとするならば、自分もそのような法華講員になっていけるよう、御本尊様に願い続け行くということかもしれません。

御利益は自分の積んだ功徳の余り物。

諸天の加護だって自分を守ってくれるのではなくて、持っている仏法が正しいからこその妙法のおかげです。

しかし、昨日の簿記の試験では功徳を感じてしまいました。合否は別として、よくもまあ、こんなに解けたものだと自分でも驚きました。

普段以上の力が出せる。間違いに途中で気づく。諸天のどのような方がお力添えをしてくださったのか。

感謝しつつも、結局神頼み信心の自分を恥じてしまうのです。

 

貧人繋珠の譬え (大日蓮出版のえほん―法華七喩シリーズ)

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