業病について 【病により道心はおこり候か】 慈本寺御住職の法話

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 【病と科学】

  先日、同期生から次のようなメールをいただきました。
『昨日は娘の通う高校の授業参観に行ってきた。現代文の教室で興味深い内容を扱っていた。
「病いと科学」という論評の紹介だったが、その著者が主張するには、
・科学は人が認識可能な分野のみを取り扱っているに過ぎず万能ではない。
・科学の尺度で人を縛ることで不幸も起きている。
・治せない病気があると分かった後でも科学は万能だと言い募(つの)るのは科学という名の信仰である。
といったことが説明されていて、興味深かった。』
 そして、著者は柳澤桂子という方であると教えてくれました。

 早速、「病いと科学」の掲載された本を取り寄せ、柳澤桂子さんについて調べてみました。
 長くなりますが、論文の主旨を紹介します。

「病いと科学」(季刊仏教№39 法藏館124頁)
・二十世紀に入り、病気は不可解なものでも神の怒りでもなく、科学という方法によって理解できるものであると考えられるようになった。
・身近な人を癌などで失って、科学の力でも治すことのできない病気があることを経験した人でも、「すべての病気は理解できるものである」という強い確信をもっている。それは信仰にも似ている。
・たくさんの分析不能な問題のなかで、現在の医学がもっとも注目しているものに痛みと死がある。
・現在の医学では、痛みそのものを測定することはできないので、医師は間接的なデータから痛みの程度を判断する。医師が痛みがないと判断した場合には、患者が痛みを訴えても無視されることになる。
・さらには、科学の名のもとに発せられるいろいろな情報が人々の健康感を侵食する。動物本来の「何も苦痛を感じない」という健康ではなく、検査データに依存した「正常値」が健康の基準になる。統計的な中心値からずれたためにつくりだされた「病人」が出現することになる。
・遺伝子診断、遺伝子治療、クローン人間の作成など、科学は生命倫理的に多くの問題をはらむ技術を次々に開発している。これらの技術そのものに問題があるのではなく、それをいかに応用するかという私たちの考え方に問題があると私は考えている。科学の進歩に見合った人間の成熟が要求される。
・科学の限界を考え、人間の限界をわきまえて、謙虚に自然と向き合う姿勢が、今、特に必要とされているのではなかろうか。

【柳沢桂子氏について】
 2005年には「NHKハイビジョン特集 いのちで読む般若心経 生命科学者 柳澤桂子」が放送されたようですので、すでに彼女のことをご存知の方もいらっしゃるかと思います。「生きて死ぬ智慧 心訳 般若心経」という著作はベストセラーにもなっています。
 色々調べてみますと、柳沢桂子氏の病苦は、すさまじいものでした。彼女は研究者の御主人と結婚し二児をもうけ、生命科学者として三菱化成生命科学研究所に勤務しましたが、その頃には既に原因不明の病気にかかっていました。   
病苦は次々に襲ってきました。彼女が受けた手術だけでも、子宮内膜手術・卵巣摘出手術・胆嚢摘出手術などを数え、しまいには食事が喉を通らなくなりました。食物が胃に届くまでに食道が痙攣するのか、激しい痛みを伴ったそうです。それで心臓付近の中心静脈にチューブを入れて栄養分を補給しなければならい状況でした。
 悲劇なのは、どの大病院でも「原因不明の病気」とされ、痛みにモルヒネさえも効かない状態なのに、最後には医師から、「どんなに検査をしても異常が無い。痛くないはずだ。痛いのなら貴方の心に問題がある。心因性のものである。」と診断され、叱られたことです。
 当初は家族も医者の言うことを信じるので、痛みで苦しい上に理解者がいなかったということです。
 先程の彼女の論文はこういった体験を踏まえての警鐘だったのです。

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【苦の中にいて苦のままで幸せに生きることは可能か?】
 かつて放送されたという番組をインターネットで閲覧すると、苦痛があまり長くつづくので、彼女は夫に自殺したいと告げ、夫もそれに賛成したが、娘さんが必死になって懇願したので死ぬのを思い止まったと話していました。
 驚いた事に、その話を淡々と語っているのです。感情を無くしたような眼差しと、何十年と介護してきた末に、「これ以上彼女は耐えられないのだろうと同意した」御主人の憔悴した表情が印象的でした。
 勤め先の研究所をクビになり、絶え間なく続く苦痛の中、橋本凝胤(ぎょういん)(元法相宗管長)氏の「われわれは人のために生きているのではない」という言葉に救われたと言います。
 また、青い炎に包まれたという神秘体験をします。
 しかし、これらは、真の仏の悟りとは程遠いものでしかありません。ですから、神秘体験によって突如あたえられたと錯覚する法悦と歓喜は、たちまち消え去り、翌日には元の木阿弥(もくあみ)に戻っている自分を発見するのです。

 ある日、電動車椅子に乗った彼女は、同年配の婦人から声をかけられました。
「大変でいらっしゃいますね」
相手はそういって歩み去ったが、柳沢桂子氏は去って行く相手を見送りながら、「自分は憐(あわ)れまれているのではないか」と思いました。彼女はひどく傷つき、車椅子を道ばたに寄せて考え込んだのです。
 自分が憐(あわ)れまれていると感じてイヤな気持ちになるのも、そこに自分が存在するからだ。その場から自分というものを消してしまったらどうなるか。
『私がいなければいいんだ』
この発見は彼女を身震いさせるほどの感動に導いたそうです。あの神秘体験に匹敵するほどの恍惚(こうこつ)感に包まれたのです。柳沢桂子氏は、この体験以後、自分を不幸だと思ったり、他人をうらやむことがなくなったと語っています。
 しかし、彼女のこの告白は自分を飾っているように思います。なぜなら、このあとで病苦に耐えきれなくなった彼女は、自死を訴えています。「自分の存在を無にする」という認識の効果は、「神秘体験」の効果と同様、それほど長続きしなかったのです。 私はこれを見て、永続する安心を得るためには、大聖人様の仏力法力しかないと改めて感じました。

「苦の中にいて苦のままで幸せに生きる」と彼女は述べていましたが、それは不可能です。明らかに不幸や苦しみを感じているのに、「私は存在しない」「私は苦痛ではない」「私は幸せだ」と無理に思い込もうとしても無理があります。 自分の心は誤魔化せません。誤魔化し続けると心が壊れてしまいます。
 幸い、モルヒネも効かない柳沢桂子氏の痛みは、三十数年の闘病の末に、一人の精神科医の先生と出会うことで劇的に改善されました。
たった一回の診察で「慢性疼痛(まんせいとうつう)。脳の代謝異常です。」と診断され、抗鬱剤(こううつざい)を摂取するという新療法を開始したところ、一週間で痛みが消え、一ヶ月後には家族と食事をし、独りで立ち上がることが出来るようになったのです。

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【仏法で説く病について】
 彼女のことを調べようと思った一番の理由は、自分の病気が「線維筋痛症(せんいきんつうしょう)」だとブログに綴っていたことでした。
 一般的にはあまり聞かない病名ですが、慈本寺の御信徒で闘病中の方がいます。私はその方から病名を知らされ、痛みによって如何に日常生活に支障を来しているのか、どれ程辛いものなのか伺ってはいましたが、ここまで過酷なものだとは理解してあげられていませんでした。
 その方は、入信以来、表情も明るくなり、以前は杖をつきながら何とか歩行していましたが、症状も緩和されたのか、杖無しで歩けるようにまでなりました。
 今は、調べようと思えばインターネットである程度のことは調べられる世の中です。勿論、私が治療できるわけではありませんが、もっと症状を理解してあげ、寄り添いながら共に祈ることは出来ます。もっと早くに調べておくべきでした。
 さて、大聖人様は『太田入道殿御返事』にて
『病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病む、二には飲食節せざる故に病む、三には坐禅調はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む』(九一〇頁)
と仰せです。
 
一・「四大」はインド古来の生命観に基づくもので、生命が「地」「水」「火」「風」の四つの要素から成り立つと考えられ、この四大(肉体)の不調和によって病気が起こるとされます。
二・「飲食の不節制」で食生活の乱れのことです。
三・「座禅が調わない」で、感情や思考の乱れ、睡眠不足、運動不足といった、生活のリズムの乱れをいいます。
四・「鬼が便りを得る」で、外界から襲いかかる病因のこと。ウィルスや細菌、精神的なストレスも含まれます。
五・「魔の働き」誤った思想、欲望などのため正しい判断力が奪われて健康が損なわれることです。
六・「業の起るがゆえに」で、これは悪業によって起る病気を指します。これが、一番治しがたく、重い病です。

【業病の因】
『摩訶止観(まかしかん)』に、
「業病とは、或は専ら是れ先世(せんぜ)の業、或は今世(こんぜ)に戒を破すれば先世の業を動じ、業力は病を成ず」
とあり、前世や今世で積んだ悪業によって引き起こされます。
 人として守るべき戒として『五戒』が揚げられます。すなわち、①不殺生戒(ふせっしょうかい) ②不偸盗戒(ふちゅうとうかい) ③不邪婬戒(ふじゃいんかい) ④不妄語戒(ふもうごかい) ⑤不飲酒戒(ふおんじゅかい)です。
業病を治すには、観心の修行をすることです。末法の観心の修行は御本尊様に唱題をすること。さらに、唱題の功徳を伝えて行くこと。これを実践することにより治癒するのです。

昨年の12月、大宣寺の細井玉道御尊師が広布推進会でお話しくださったことがありましたが、入信されたばかりのお医者さんに、この病の起こる原因についてお話しになったところ、「自分でも、業としか言えない病気について強い思いがあった。」「人間には素晴らしい自然治癒力があるのに、薬ばかりに頼り治癒力を高めようとしない。」と話して下さったそうです。
 アメリカで行われている先端医療では、体と心の一体となった治療が行われその成果が出ているそうです。

 唱題と折伏功徳によって自然治癒力を高め、御仏智によって名医・良医に巡り会う、例えヤブ医者でも名医に変わるのです。
大聖人は故郷の母上が病によって危篤に陥った際に法華経をもって祈り、寿命を四ヵ年ほど延べた経験があり、法華経を信仰する者は「更賜寿命」といって、必ず命が延びると富木尼を励まされています。

 大聖人様も、病の時には四条金吾の治療を受けられ、平癒されました。「祈り」と「治療」は両方大事であり、何より「乗り越える」という本人の気力が不可欠なのです。
 日蓮正宗は、体と心の一体となった治療を大聖人以来ずっと実践してきました。
 これは、我われも体験するところで、正直に大御本尊様を信心していた方は、余命宣告されても、狼狽(うろたえ)えることなく自然に寿命を延ばして、良い状態で終末期を送られ、長生きされている方が多いのです。

 逆に、世間的な著名人が、病院の威信をかけて名医と呼ばれる人達の治療を受け、必要以上の手術や抗がん剤治療によって、命を縮める結果になってしまった例も多々あります。

 人間として生まれてきた以上、死から逃れることは出来ません。その人の宿業と現在の因縁によって寿命を早める人もいれば、たとえ病弱で短命に生まれついても寿命を延ばす方もおります。
 我々は、御本尊様をしっかり持っていれば、大聖人の御母堂や、南条時光のように、必ず命が延びるという確信をもって信心していくことが大切なのです。

【病気を克服するには】
 日蓮大聖人様は、困難を、現在から未来へかけての人生を、逞しく積極的に生きていくよう説かれています。
 自分の不規則な生活・不摂生が招き寄せた病気ならば、まず生活を改めることです。
しかし、そうではなく、肉体に難病を持っていることを発見したとき、精神的な病を見いだしたときなど、一度は愕然(がくぜん)とし絶望的になります。
 しかし、その時に、自分の不運を呪い、責任を親や家族、社会に転嫁している間は全く解決しません。題目を唱えながら、この結果をもたらした原因を、過去世の自分の生命が犯した罪業に見いだす、つまり、自己の生命の問題として捉えきれたとき、はじめて解決への方途が開かれてくるのです。

いかに悲惨な現状であったとしても、御本尊への真剣な唱題は、過去世の宿業(原因)を見つめ得る力強い生命力や智慧となって、その人を根底から支えるのです。これこそが唱題による仏界の涌現であり、仏法の功徳なのであります。

 日蓮大聖人様は、『法華題目抄』に、
「妙とは蘇生(そせい)の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書三六〇頁)
と、御本尊を信受する者の大功徳について教えられています。
 大聖人様の教えは、乗り越える教えです。「自分が苦しいと感じるから苦しいのだ」「本来自己という存在はなく仮の姿なのだ」などと考えるのは、一見悟ったようでも迷いの姿でしかなく、諦めた姿、誤魔化した姿でしかないのです。

 他人の幸せを心から願えてこその人間です。そこに人として生まれてきた価値があります。気負わずとも自然にそうなれるのが大聖人様の功徳であり、お題目の素晴らしいところです。
 私達は、例えどんな病に冒されようと、大いにお題目を根本に折伏に生涯を捧げようではありませんか。

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