西郷に学んだ庄内藩士たちは「新しい日本をつくる同志」となった。

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        国史百景(15)  西郷隆盛に学んだ庄内藩士たち        

 

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)

 

 

 
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■1.庄内の人々の西郷隆盛への敬慕

 世の中には不思議な付き合いがあるものだ。西郷隆盛庄内藩(現在の山形県庄内地方)の人々との交流である。

 明治元(1868)年の戊辰戦争では、庄内藩西郷隆盛率いる明治政府軍に降伏したのだが、西郷の高潔な態度に感激し、その後、藩主自ら70余名の藩士を率いて、薩摩に赴き、西郷に親しく教えを請う。

 西郷は明治10(1878)年の西南の役で戦没し[a]、「逆賊(天皇への反逆者)」の汚名を着せられるが、明治22(1889)年、明治天皇正三位を与えて汚名を晴らすや、旧庄内藩の人々は西郷の語った言葉をまとめた『南洲翁遺訓』を刊行し、風呂敷包みに背負って、全国に配布して回った。

 庄内の人びとの西郷への敬慕は現代まで続いており、昭和51(1976)年には南洲神社が創設され、「財団法人 庄内南洲会」が西郷の人徳を称える活動を続けている。

 人びとが一人の偉人をかくも純粋に敬慕した、いかにもわが国らしい美談である。今回はその経緯を辿ってみたい。

 

 


■2.庄内藩の人々を感動させた明治政府

 慶応3(1867)年12月、江戸の薩摩藩邸に結集していた浪人たちが、江戸の治安を乱していた。江戸の治安維持を任されていた庄内藩士千人を中心とする5藩は、薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払った。この事件をきっかけに、鳥羽伏見での明治政府徳川幕府との戦いが始まり、以後1年半ほどの戊辰(ぼしん)戦争が続く。

 庄内藩会津藩米沢藩などとともに幕府側に立ち、新政府側に立った秋田に攻め入って連戦連勝を重ねた。庄内藩はもともと良民を手厚く保護する藩政をとってきており、藩主・家臣・領民の結束が強かった。藩政を支えてきた商人・本間家も、スナイドル銃などの最新兵器購入のために莫大な献金をした。

 米沢藩会津藩の降伏後も、庄内藩は最後まで藩領土への新政府軍の侵入を許さなかった。しかし庄内藩以外のすべての藩が降伏したので、明治元(1868)年9月、新政府軍に恭順の意を示した。

 このように最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるのか、と心配していた。

 しかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入ってきた新政府軍は刀を持たず、丸腰だった。新政府軍の兵士の中には勝ちに奢って乱暴狼藉を働くかも知れないので、それを防ぐためだった。逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し、武士の面目を持たせた。これには庄内藩の人々が驚いた。

 しかも、新政府軍の使者としてやってきた薩摩藩黒田清隆が示したのは、驚くほど寛大な条件だった。11代藩主・忠篤の謹慎、弟・忠宝への代替わりと、16万7千余石から12万石への減封であった。

 さらに黒田は、藩主の上座に座って、いちおうの「言い渡し」を終えると、ただちに藩主の下座に降り、「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、礼儀正しい態度をとった。武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされた。


■3.「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」

 明治2(1869)年、庄内藩の家老として敗戦処理を進めた菅実秀(すげ・さねひで)が東京に出てきて、黒田に寛大な処置に対するお礼を述べた。すると、黒田は「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示でやったことです」と明かした。

 新政府軍の指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに帰ろうとした。まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西郷を止めた。

__________
 けれども西郷先生は、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか。もう敵でも味方でもないよ』と、おっしゃったのです。[1,32]
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 菅は「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」と感動した。そして菅から西郷の話を聞いた庄内藩の人々の感動も察して余りある。

 翌明治3(1870)年、18歳だった前藩主・酒井忠篤は70余名の家臣を引き連れて、西郷に学ぶために鹿児島を訪れた。西郷は彼らを歓迎し、いろいろ話を聞かせてやった。

 忠篤は西郷の教えに感激し、大名気分を捨て去り、家臣たちと寝食を共にして過ごした。これら庄内藩の人々が西郷の言葉を記録に残したのが、後に『西郷南洲翁遺訓』としてまとめられたのである。

 

 



■4.西郷の涙

『遺訓』の中には、西郷が庄内藩士たちに語った肉声がまざまざと感じられる一幕がある。こんな一節である。

__________
 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

「国民の上に立って、政治にたずさわる者は、つねに慎みの心をもって、どこにいても品行正しく、贅沢をしないように心がけ、自分の仕事に一生懸命に取り組むような……、つまり人の手本になるような人でなければならないね。・・・

 ところが、近ごろの政府はどうだい。今は、これから何もかもはじめなければならないという、いわば時代の出発点に立っている大事な時期なのに、豪邸に暮らし、高価な服に身をつつみ、美しい女性を愛人にし、そして関心があることといったら、個人の財産を築くことばかり……。こんなことでは、何のために明治維新をなしとげたのか……、その本来の理想を達成することなど、とてもおぼつかないよ。

 あの鳥羽伏見の戦いにはじまって、五稜郭の戦いで終わった戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはずだよね。けれど、その戦いの結果できあがった新政府が、そんなありさまさ!

 今のままなら、どうなる? 結果的に、あの戦争は今の政府の高官たちの“利”のための戦いだった、ということになってしまうよ。

 こんなことでは、世の中の人々に対して、そして何より、あの戦いで戦場に散っていった戦没者たちに対しても、私は……本当に申しわけなくて……」

 そうおっしゃると西郷先生は、こみあげてくる思いを抑えきれずに、しきりに涙を流されていました。[1,781]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 戊辰戦争を西郷の相手側として戦った当の庄内藩士たちも、この西郷の言葉には、涙をこらえきれなかったのではないか。


■5.「日本を再生するための“義”の戦い」

 西郷は「戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはず」と言ったが、その「義」に関して次のように語っている。

__________
「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たないね。これは、西洋でも同じことだよ。

 たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、どうなる?

 国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。 ・・・

 そうなってしまったら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?[1,1245]
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 道義を国民が失ったら、国は持たない。明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している。それでは「日本再生のための義の戦い」と信じて、命を捧げていった戦没者たちに申し訳ない。その思いが西郷の涙となっていた。

 西郷が戊辰戦争を「日本再生のための義の戦い」と捉えていたことを知れば、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか』と、庄内藩の人々に寛大に接した理由も理解できる。

 西郷は庄内藩士を「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた。今後は日本の再生のために、ともに忠義を尽くして欲しい、というのが、西郷の願いだった。

 

 


■6.「西洋は野蛮じゃ!」

 明治維新という「日本再生のための義の戦い」は、黒船の来航に象徴される欧米諸国の脅威の下で行われた。その欧米諸国について、西郷は省内藩士たちにこう語っている。

__________
 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

「“文明”というのは、どういうことかわかるかい? それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、フワフワした華やかさを言うのではないよ。 ・・・

 私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。その時、私は、こう言ったのさ。 『西洋は野蛮じゃ!』

 するとその人は、こう言った。 『いや、西洋は文明です』

 そこで私は、 『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』と、たたみかけた。

 すると、その人はあきれて、 『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃるのですか?』と、不満そうに言い返してきた。

 そこで私は、こう言ってやったのさ。

『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?

 けれど西洋は、そうではない。時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?』

 私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ」

 そう言って、西郷先生はお笑いになりました。[1,1069]
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 当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していた。支配者がその様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働くようになる。西洋の「野蛮」がアジア・アフリカに「野蛮」を生み出す。

 西郷は「文明」とは「道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようす」と考えた。西洋諸国に植民地化されてしまえば、そんな文明国にはなりえない。

 そうした西洋諸国の「野蛮」から、国を守ろうとすることが「攘夷」なのであった。[1]の著者・松浦光修皇學館大学教授は次のように喝破している。

__________
「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたものは、単なる“国益”ではありません。ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしていたのは、“道義”なのです。[1,1106]
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■7.『後世への最大遺物』

 西郷から「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた、そんな忠義の武士たちであったからこそ、西郷の道義あふれる振る舞いに感じ入り、前藩主が70余名もの藩士を引き連れて、西郷のもとに学びに来たのである。

 庄内藩士たちは、西郷の言葉に学んで「新しい日本をつくる同志」となったのであろう。西南戦争の12年後、明治天皇が西郷に正三位を追贈して名誉を回復されるや、『南洲翁遺訓』をまとめ、全国に広めようとしたのも、「新しい日本をつくる同志」としての志に違いない。

 西郷隆盛を『代表的日本人』の一人として描いた内村鑑三は、『後世への最大遺物』と題した講演で次のように語っている。

__________
「誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。[1,2992]
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 西郷隆盛庄内藩士たちの「高尚なる生涯」は、現代の我々に贈られた「後世への最大遺物」そのものである。それをどう活かすかは、我々の生き方にかかっている。
(文責:伊勢雅臣)

 

代表的日本人 (岩波文庫)

代表的日本人 (岩波文庫)

 

 



■リンク■

a. JOG(429 西郷隆盛はなぜ立ち上がったのか~ 岩田温『日本人の歴史哲学』から
 必敗を覚悟して西南戦争に立ち上がった西郷は、何を目指していたのか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog429.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え」[Kindle版]★★★、PHP研究所、H20
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2.長尾剛『話し言葉で読める「西郷南洲翁遺訓」 無事は有事のごとく、有事は無事のごとく』 [Kindle版]★★、PHP文庫、H17
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■前号「『寿命100歳』時代の生き方」に寄せられたおたより

■「ちよまる」さんより

 「高齢社」の特集、テレビで見たことがあります。

 私は50代から郵便局で短時間働いていますが、若い世代の人からもよく相談を受けたりします。

 高齢者が働くことで、人手不足も、年金の問題も解決出来そうですが、何より私たち世代が経験や知恵を話すことで若い世代にも良い影響を与えているようですし、自分自身もまだまだ人の役に立てている喜びを感じます。

■伊勢雅臣より

 やはり人の役に立つことが、生きがいですね。


■鈴木さんより

 近年、就職難という言葉をよく聞きますし、政治も雇用を推進しようとさまざまな手を打っていると思いますが、根本的な考えが間違えていると思います。

 問題は若者にハングリーさが無いこと、言われたことだけをこなして自分流が無いこと。残念ながら日本人の大学生に魅力が無いことが就職に結びつかない理由と思います。

 まあ、会社の経営層・管理層の層が薄く、しっかりと人間同士の付き合いを会社内でできてないこともあるかとは思いますが、、、、、。

 また、労働者不足を外国人労働者で補おうという考えもあるようですが、これも根本的な考え方が逆です。汗を流して働くことの意義を子供にしっかりと教えることのできない親が多すぎると思います。

そう考えると残念ながら、高度経済成長を築機上げてきた世代が自分の子供への教育も含めて、怠ってきたのでではと考えてしまいます。

■編集長・伊勢雅臣より

 70代、80代の老人が汗を流して働いている姿は、その意義を身を以て示していると思います。


■夏目壽さんより

 少子高齢化と言われて久しいですが、今までのように若い人たちが年寄りを支えるのでなく、逆で年寄りが若い人たちを支えるまでいかなくても、自分のことは自分でできる人が求められるのではないでしょうか。それには健康でなくてはいけないし、その健康を維持するのに、社会と繋がりを持つことが大切ではないでしょうか。

 その中でもやはり仕事をすること、報酬も大事ですが、それよりも人の役に立つことに生きがい感じ、喜びを感じるのが我々日本人ではないかと思います。

 昔に比べれば労働条件も格段に良くなり、休日も信じられないくらい増えました。人口減少で海外からの移民も政策として考えられているようですが、欧州を見ればとんでもない問題が起きています。国内の人達を活用した方が余程いいと思います。

■編集長・伊勢雅臣より

 高齢者が80代まで働けるようになったら、移民などになるでしょう。それは安定した国づくりの基礎です。


■Hisaoさんより

 今日の「寿命100歳」時代の生き方ですが、気になったことがありましたので一言。確かに老後も仕事をもって働く方が健康的だし、生きがいもというのはそのとおりですが、多くの高齢者が働きだすと、若者の職を奪いやしないか?という懸念を感じてます。

 私が体験した例では、中国で日本語教師をしていたとき、日中技能者交流協会から、元教員(中学高校の国語や社会科が多かったと思います)に3日ぐらいの研修を施して、多数の日本語教師を中国に派遣されてましたが、この人たちのおかげで給料が日本円で月五万円~八万円と低い(彼らは教員共済からたんまり年金や退職金もらっているのに、こっちは月五万円のなかから月一万五千円以上の国民年金を払わないといけない、しかももらえる額は少ない)のが恒常化してました。

 しかも元教員連中から「我々は日本の代表としてきているんだから(無償)奉仕しないと・・・」みたいなことも言われたこともありました。「こっちは生活かかっているんだからなんでもかんでも無償でなんて冗談じゃない、あなた方は年金もらっているからいいんどろうけど」と正直思いました。

 全体からみるとこんな例はあまりないとは思いますが、高齢者雇用にはこのような影の部分もあるのでご留意を。高齢者ももう少し若者に対する配慮を持ってもらいたいものです。

■伊勢雅臣より

 確かに、これは問題ですね。高齢者雇用が、若者の職を奪うことになってはいけませんが、制度的にはどうしたものか、、、

 読者からのご意見をお待ちします。
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