一結講中異体同心【一人地獄に落入(おちい)り候はば講中寄合いて救取(すくいと)るべし】

【一人地獄に落入(おちい)り候はば講中寄合いて救取(すくいと)るべし】

 一結講中異体同心「慈本寺御住職法話」

    
 【創価学会の行動原理は怨念】
 我が支部の折伏が進めば進むほど、創価学会が画策し、なかなかお寺に来られない人に巧みに近づいて、講から抜けさせようとする動きも活発化しています。
 今年、創価学会から法華講に入ったある御婦人がいました。色んな宗教に関わってきており、大病を患いながら、ニセ本尊とお札を祀り、ある宗教の「病気が治り幸せになれる」というペンダントを身に付けていました。
 それらは全部「謗法である」と説明し、お寺に収めてもらい、正式な御本尊を下付して入仏式を済ませました。
 そのわずか数日後、その方が学会の婦人部数名に連れられて、お寺に来ました。法華講を辞めるから、学会のニセ本尊と、他宗のお札やペンダントを返してもらいたいというものでした。
 私の留守中に来たので、家内が対応しましたが、その方は具合が悪くなったのか玄関先で座り込み、学会の婦人部が大げさに、まるで慈本寺に来たから具合が悪くなったとでも言いたげに「大丈夫?」と背中をさすっていたそうです。
 その時は、お引き取り願って後日、婦人部が代わりに謗法物を取りに来ました。話しから、その方が寺院に預けたお札やペンダントに執着しており、「取り返してあげるから学会に戻りなさいよ」と勧めたようです。
「今の創価学会では、謗法払いはしないのですか?」「この謗法物を本人に渡して正しい信心が出来ると思っているのですか?」と聞くと、「謗法払いはあくもでも本人の意思ですから、学会では強制しません。」と薄ら笑いをしての返事でした。
 創価学会に連れ戻すためなら「何でもする」のが学会の体質です。もはや、本人がどんな信仰姿勢であろうと関係ないようです。
 信仰者にとって、何をどのように信じ、どう実践していくかは極めて重要であり基本ですが、この大事な部分が、彼等にとってはどうでもいい事のようです。とにかく、創価学会にいることが善であり、抜けることが悪なのです。
 基本的な考えがこれですから、学会は、自分達を破門にした宗門や法華講を潰すためなら、執念深く何でもやるのです。
 学会員も普段は普通の人なのかも知れませんが、慈本寺へ来て「住職はいないから帰って下さい」と対応するも、コソコソ入ってきて受付にある「寺院参詣帳」を調べていた壮年部員や、ロビーに掲示している集合写真を携帯電話で盗撮するという犯罪行為に走る青年部員がいる現実があります。
 寺院に証拠の映像も残っており、それによると家内よりインターフォンのマイクで注意されると慌てふためいていましたが、彼等にとってこれらが正義の行動なのです。
 皆さんの周りで、あの手この手で近づいて来る学会員がいても、彼等の行動原理は慈悲ではなく怨念であるということを忘れないで下さい。

【悪知識を怖れよ】
 大聖人様は『唱法華題目抄』にて、
「末代の我々愚人が恐れなければならないことは、刀(かたな)・杖(つえ)・虎(とら)・狼(おおかみ)や十悪(殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪姪(じゃいん)・妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)・貧欲(ひんよく)・瞋恚(しんい)・愚癡(ぐち))・五逆(殺父(さつふ)・殺母(さつも)・殺阿羅漢(さつあらかん)・出仏身血(すいぶつしんけつ)・破和合僧(はわごうそう))を犯した悪人等よりも、三衣一鉢(さんねいっぱつ)(三衣と一個の食器用の鉢。僧侶が携帯するささやかな持ち物)に身をつつしむ禅宗の僧と、権経を説く他宗の僧を尊貴とみて正法を弘める人を憎む俗人等である。
 故に涅槃経二十二に「悪象等に対しては恐怖を抱くことはないが、悪知識(悪い師)に対して恐怖心を起こしなさい。その理由はなぜかというと、悪象等はただよく人の肉体を破壊するが心までも破ることは出来ない。しかし悪知識は身心共に破るので恐れなければならない。乃至悪象の為に殺されても地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちないが、悪友の為に殺されれば必ず三悪道に堕ちる」と説かれている。
 この文の意味を章安大師は「多くの悪象等に出会うことは悪縁であるが、悪象等は人に悪心を生じさせることは出来ない。しかし悪知識は媚(こ )びへつらって人の心を率いて悪心を起こさせる。悪心を起こすから人の善心を破る。これを殺と表現したのである。善心が破られれば地獄に堕ちる」と述べている。この章安大師の文の心は、悪知識というのは甘く語らい、詐(いつわ)り媚(こ )び、言葉を巧みに愚癡(ぐち)の人の心を取って善心を破るということである。 
 総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも正法を誹謗する謗法闡提(ほうぼうせんだい)の者を恐るべきであると誡められたのである。」(御書223頁 現代語訳)
と仰せです。
 仏法では、仏道修行をしていく上で、私たちに善い縁を与えてくれる人を「善知識」といい、悪い影響を与える人を「悪知識」と言います。
 もともと「知識」とは物事に対してその名前や形や概念を知り認識することをいいますが、仏法においては、「物事の正邪を弁(わきま)えて誤らせない人」、あるいは「正しく教え導いてくれる友人・同志・指導者」などの意味として用いられています。
 その人の善心を破壊しようとする者は、さもその人の味方のように近づいてきます。
 特に、愚痴の信心、迷いの信心になっている時は要注意なのです。悪知識の人間は内にも外にもおり、愚痴に賛同し、さらに不信を植え付けようとあること無いことを吹聴(ふいちょう)します。それによって、自らの善根を破り、徳を下げ、功徳が奪われます。
 また、悪知識の作用をなす人間は、その自覚も無く、自分こそが正しいと思っているから、なおさら質(たち)が悪いのです。
 大聖人様は『最蓮房御返事』にて、
日蓮智者に非ずと雖(いえど)も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず。故に天魔力及ばず」(585頁)
と仰せのように、まずは「兼ねての用心」を深くしてください。
 
【善知識に会う難しさ】
 日蓮大聖人は、『三三蔵祈雨事』に、
「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。(中略)而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上の土よりもすくなし」(御書873頁)
と仰せです。
 大聖人は、仏道修行する者は善知識に親近し、悪知識を遠ざけることを教えられています。
 しかるに、現実には私たちの周りには悪知識がたくさん存在しています。これを見破ることは容易ではありません。
 故に、私たちは毎日の真剣な勤行と唱題の実践によって、常に御仏智を御本尊様から頂くことが不可欠なのです。
 真実の善知識たる御本仏日蓮大聖人の眷属として、悪知識さえも仏道修行増進の善知識と転換するだけの強い信心を持つこと、さらには、自分自身が他の人の善知識となり、悪知識にならないよう日々反省努力することが大切なのです。

【一結講中異体同心】
 第三十一世日因上人が金沢法華講に宛てられた、有名なお手紙の一節があります。
「無疑曰信(むぎわっしん)に南無妙法蓮華経と唱え奉る事尤(もっと)も大切なり。かつ又臨終の事は平生忘るべからず、別して一結講中異体同心に未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落入(おちい)り候はば講中寄合いて救取(すくいと)るべし、一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし、其の後北国中の同行乃至日本国中一閻浮提(いちえんぶだい)の一切衆生をも救い取るべく申し候、衆生無辺請願度(しゅじょうむへんせいがんど)と申すはこれなり」(妙喜寺蔵)
 江戸時代、大石寺信仰が身延派の誹謗に遭(あ )い加賀の国禁となっている中、人目を憚(はばか)りながら命にかえて信仰を守り通している御信徒に対して与えられた激励のお手紙です。
 当時金沢には大石寺末寺は一ヶ寺も無いのに、少なくとも二十近くの講が結成され、「累代信者、数千人」の規模になっていたようです。
 末寺の建立が許されない中、法華講衆の求道心と、「共に成仏していくんだ」という強い絆によって、清純なる信心を貫いてこられたのです。
 かつて、御隠尊日顕上人は、
「本因妙の成仏のためには〝謗法与同〝の信心であってはなりません。与同ということは、周りの謗法を何とも思わないことであります。子供の謗法の姿、不信の姿を何とも思わない親、親の謗法を見過ごして気の毒にも思えない子供、兄弟・親類・友人等の謗法を心の底から気の毒であると思えないことが、たとえ自分は信心をしているといっても、謗法与同の姿になります。
 いわゆる無関心・無気力は、やがて地獄・餓鬼・畜生の三悪道行きの原因であります。」(大日蓮415号18頁)
と仰せになりました。
 その人にとってよくない事を見聞きしたなら、一時は嫌われても懸命にその行動を阻止すべきなのです。それが慈悲であり、慈悲の発露である言動はいつか相手にも通じ、嫌われるどころか、感謝される時が必ず来ます。
 皆さんの必死な思いこそが、相手に通じるのです。
 誰かが 謗法の闇に引き込まれそうになったら、みんなで力を合わせて全力で引き上げるのが講中であり、その自身の慈悲の言動と心によって成仏に近づくのです。

【ネパールやインドで爆発的に広まる正法】
 去る四月二十五日に、突如、ネパールを巨大地震が襲いました。幸い、現地に居住する法華講員(妙観講)21.307名全員の命は守られました。
 さらに、支援活動にも日本や現地の妙観講員が参加し、現地メディアにも取り上げられました。
 六月二十日には、カトマンズに小川御住職が向かわれ、震災で犠牲となった9千人の精霊への追悼法要が執り行なわれました。これには、ネパール産業大臣をはじめ約千人が参列し、追善供養の題目を回向されたそうです。
 国内には五ヵ所もの事務所の開所式が行なわれ、この模様は、TVで中継され、地元紙でも写真入りで報道されたそうです。
 なお、開所式に合わせて各会場では数百名が御授戒を受けたそうです。
 何と言っても、今回の地震や日常の生活で、功徳の現証がハッキリ示されましたので、爆発的に折伏が進み、政府の要人も次々と入信されているのです。
 国内に目を転じてみれば、阪神淡路大震災東日本大震災・先日の大雨による鬼怒川での堤防決壊によって、多大なる被害が出ましたが、奇跡的な形で守られる法華講員の方々が多かったのです。
 大聖人様の御在世当時、大変な疫病が鎌倉を中心にして蔓延(まんえん)しました。その時に、この信心を貫く人に、ほとんどその疫病の被害がなかったのです。そのことに対して、大聖人様は『治病大小権実違目』という御書の中に、
「いかにとして候やらん彼等よりも少なくやみ、少なく死に候は不思議にをぼへ候、人のすくなき故か又御信心の強盛なるか」(御書1237頁)
と仰せになり、他宗の人達よりも、この大聖人様の弟子一門に連なった人びとは、そういう被害にあった方も少なく、この妙法の行者は強く守られたのだということを説かれておられます。
 我々の信じ、行じている日蓮正宗の信仰には、厳然たる仏力法力が具わっているのです。ですから私達は、誰に対しても臆すること無く、堂々とこの御本尊様の偉大さ、教えの素晴らしさを説いていけばいいのです。
 さらに、創価学会をはじめ元日蓮正宗だった人達は、本人がどんなに強弁しようと、既に「大聖人様の弟子一門」ではなくなっているのですから、折伏はし続けなければなりません。彼等は上層部の人間に騙され続けている哀れな人達でしかないのです。
 日本より海外の方が、謗法の害毒も少なく、功徳の現証が出やすいという側面もあるでしょうが、大聖人御生誕の国に生まれ、本山にも比較的近い距離にいる我々が折伏しないわけにはいきません。
 我々はどこまでも日如上人の御指南を対して、一結講中異体同心して堂々と進んで参ろうではありませんか。

 

日蓮大聖人のご生涯と正法伝持―絵と写真で見る

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