【法統相続がなぜ大切か】達郎さんのメルマガから転載

法統相続とは、親が子に日蓮正宗の信心を受け嗣(つ)がせることを言います。親の行なうことを子供に嗣がせることは、たとえば職業でも、家の家業を嗣がせるなどの例があります。しかし、職業の場合は、もし子供が別の仕事を志したとしたら、親として残念に思うことがあっても、場合に応じ、子供にも選択の権利を認めなければならないでしょう。

世法においてはそうであっても、こと信仰という面で考えた場合、そもそも仏法は過去・現在・未来という、三世を通した生命観の上に衆生の成仏を説いています。親の存在あるゆえに子供や孫の存在もあるという、因縁因果が基本です。また個々の宿業とともに、親子・兄弟・夫婦等の共業(ぐうごう=複数の衆生に共通の業)が複雑に影響することもあります。したがって、自分一個に正しい信心ができれば、家族や子供・親族がどんな宗教をしようが構わないというわけにはいきません。とりわけ親子の関係について日蓮大聖人様は、

「我が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影との如し」(新985)

と仰せられています。親子の関係は宿縁の深さからしても一体不二であり、子の成仏そのまま亡き親の成仏であることを、釈尊と御両親、あるいは目連尊者とその両親が同時の成仏であったことを例に、この御書に説かれています。

ここから考えて、たとえば親が熱心に正宗の信心をしていても、後を嗣ぐ子供が他の宗教であれば、親の亡き後に正しい回向はされません。親を救った釈尊や目連とは逆の効果を招いてしまうでしょう。

自分と宿縁の深い妻子や身内の者を折伏せずに、他人に対してだけ折伏するなどということがあれば、これは本末転倒というべきです。

したがって、私たちは信心に対する自らの情熱の半分は、子供や孫に正しい信心を植え付けることに注ぐようにして、立派に法統相続していくことが大切なのではないでしょうか。

【法統相続のあり方】

法統相続は子育ての上で一番大切なことと捉(とら)えましょう。

「自分は信心していても、子供に同じ信心を押しつけるつもりはない。成長して、よく自分で理解できるようになってから考えさせれば良い」などと主張する人がいます。もっともらしい意見に聞こえますが、本当は親が子供を育てる責任を回避しているだけです。世に「放任(ほうにん)主義」などといって、子供の勝手気ままにしておくだけの親もおり、特に最近は増えているようです。「勝手気ままにさせる」のと「黙って見守る」のは、育てるための大事な手段であり、また親は我慢するエネルギーを非常に消費します。しかし「放任主義」とは、俗に言う「ほったらかし」で、親の手抜き以外の何ものでもなく、そこには愛情もこもりませんから、子供の非行化などの問題も負うことになります。

信心も同様で、子供が小さいうちから、親の正しいと信じる道を、まず身をもって示した上で育てることが大切です。それが親の、子供に対する何よりの愛情となりましょう。親の日々朝夕、御本尊に向かって合掌(がっしょう)し勤行をする姿を見て、子供はそこに自分たちの力の及ばない崇高な存在を感じ取ることでしょう。それが信仰心とか宗教心の芽生えとなります。そのような心が持てるということは、成長して本人が謙虚(けんきょ)になれるということでもあります。

このように、小さな子供には一つの方向性を示して、親がまず実践して、身で示すことが最も大切であるのは言うまでもありません。

仏教では父母のことを「慈父(じふ)」「悲母(ひも)」と称していますが、「慈父」とは「慈」を表としたあり方で、「抜苦(ばっく)」いわば苦しみを取り除く徳となります。対して「悲母」とは「悲」を表として「与楽(よらく)」つまり楽をもたらす徳です。すなわち双方が相俟って仏の慈悲の働きの一分となるのですが、このように仏教では、父母それぞれの役割が、仏の徳に即して解き示されていることが注目されます。

最近活躍するある著名な心理学者は、父母の役割の違いを、「父性原理」「母性原理」と言う言葉で説明しています。

「父性」とは「切る」機能、「母性」とは「包む」機能が主体という考え方で、「切る」機能とは善悪正邪をはっきり区別していくあり方、「包む」機能とはすべてを全体としてやんわり包み込んでいくあり方です。そして両方をほど良く使いこなしていく必要性を述べています。

このように、仏法・世法ともに父親と母親には、それぞれ子供に対する異なった役割を求めています。親子関係も次第に変わりつつある世相ですが、法華講員には古人たちが尊んできた道を今一度思い起こし、法統相続をする上でも、それを活かしていただきたいものです。

【御書にうかがえる法統相続】

総本山大石寺の開基檀那である南条時光殿は、宗祖大聖人の晩年の頃でも、二十歳を若干過ぎた程度の、若々しい青年地頭でした。そもそも時光殿が大聖人の仏法に帰依する因縁は、父である南条兵衛七郎殿が、幕府の一員として鎌倉在住のおりに、大聖人様の檀越となった時にさかのぼります。しかし兵衛七郎殿は幼い時光を残して、まだ、大聖人御化導の早い時期(文永11年)に逝去したのです。それ以後は、「上野殿母尼御前」等と呼ばれた母の手で育てられていきました。それからおよそ10年の歳月が流れました。佐渡配流から帰られた大聖人様が身延へ入山された頃には、時光殿は南条家の総領として立派に成長し、折々に大聖人様へ御供養をお届け申し上げたのです。その証(あか)しとして、信心における様々な御指南が示された御書を大聖人様より多数賜っているのは、大方に周知されているところです。

そして日興上人の時代になり、身延離山のやむなきに至ったときにも、迷うことなく日興上人を自領にお招き申し上げ、大石寺建立の地を御供養申し上げ、上野郷を万年にわたって妙法の寂光土としたのです。

時光殿のこれほどの確固とした信心は、どのように育てられていったのでしょう。言うまでもなく、父兵衛七郎の亡き後、ちょうど時光殿は少年期から青年期へ至る年頃でしたが、母尼御前より受けた信心の薫陶(くんとう)に負うところ大であったというべきです。時光殿は元服をすませ青年に成長してからは、大聖人や日興上人に直々にお目通りすべく、身延山へ何度も足を運んだのです。その根拠として、弘安4年9月の『南条殿御返事』を拝してみましょう。このころ時光殿は所用で遙かな上野国(こうづけのくに)に出かけたいたようです。駿河(するが)の所領に帰ってきた時光殿に対して、大聖人様は「久しくお会いする機会がありません」等との意味を文頭に仰せられ、

「参詣遙かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし」(新1569)

と有名な御文で結ばれています。この御書には、とりわけしばらく顔を見なかった時光殿に直接会って、元気な姿を見たいという大聖人様の温かい御意(みこころ)が拝せられます。そう仰せられる背景には、それだけ時光殿が日頃、大聖人様の許に足繁くお目通りを願っていた証拠であり、しばらく姿が見えないのは何とも寂しいではないかという御意を拝されるのです。南条時光殿のこのような姿を御書に垣間(かいま)見る私たちは、法統相続がどのようにして叶えられるのか、御書の示唆(しさ)するところから学び取っていきたいものです。