語弊を恐れずに言えば、科学も社会思想も全ては外道義であり、今日の社会は外道社会である。

キリスト教系はクリスマスや讃美歌等、特に若者からは華やかでドラマチックなイメージに映ります。 ところが、実はキリスト教系は日蓮正宗の「謗法厳誡」以上に禁止事項が多いのです

それも生活に必要不可欠な事や生命維持に関わる事への禁止が多く、これを守れる人は0(ゼロ)です。よって、例えばある事態(手術や堕胎など)に陥った際、わざわざ〝一時退転〟をし、破り終わってからまた入信、懺悔式を行うという信者が実に多いのです。これでは秩序も無く〝何でもあり〟ですね。
 
 さて、キリスト教を例にあげましたが、ユダヤ教キリスト教イスラム教は同種の宗教です。世界の宗教は信者数で言えば、この三つの一神教信者が大多数を占め、闘争と専制を繰り広げています。更にもう一つ「虚無主義」と「科学主義」を加えることで、ほぼ世界の今日おける矛盾と問題点の深層には、日本人には馴染の薄い内外相対の大問題が浮かび上がってきます。私はこの内外相対以前の外道隆盛こそが、末法の姿ではないのだろうかとすら疑っています。

 なぜなら、この二つも近代社会に深く影響、特に〝しらけ世代〟以降の日本を骨抜きにしてしまった〝外道思想〟だからです。
 
 まず、「虚無主義」ですが、これは現代社会に多い「無宗教」の基になっております。これを最初に世に広めたのは、哲学者のニーチェです。キリスト教の厳格な牧師の父に育てられたニーチェは父を憎み、「神々は死んだ」とキリスト教を否定し、哲学者になり、虚無主義を唱えました。虚無主義の核は、「すべてのものは偶然の産物に過ぎない」と、一切の因果律を否定する所から始まります。この点、仏教の真逆です。言わば、〝たまたま〟宇宙空間にチリが集まり地球となり〝たまたま〟その地球に文明が起こり〝たまたま〟人間は学校を作り、〝たまたま〟同じクラスになった。夫婦も〝たまたま〟出会い〝たまたま〟子供ができて〝たまたま〟親になった。すると、人間からは三つのものが喪失して行きます。

【1】目的=すべてが偶然だから、生きる事に目的は必要ない。その時を生きるのみ。
【2】統一=〝たまたま〟一緒になった人間関係だから、別れるのも自由、 家族や周囲と協調・統一の必要も無い。個が基本。
【3】真理=すべてが〝たまたま〟ゆえ、今さら「何が正しいか」など、真理を追及する必要は無い。「正義」も存在しない。

 ところが、この三つを喪失すると、人間は生きて行けなくなりまので、今度は新たに【1】【2】【3】を再構築してこの主義を唱え直す必要性が出てきたのです。一体誰が?ニーチェは、〝超人〟が行うと主張しました(「ツァラトゥストラはかく語りき」)。超人?結局それは、ニーチェが否定した〝神仏〟と同義ではないですか?
 
 どの外道義も証明できない矛盾は、その時代の〝人間が〟ロジカルに構築、真しやかに主張・変遷してきました。それでいて対立した時は〝人間が裁く〟裁判に頼り、裁判が不利になるとまた「神・超人」を唱え、〝平和のための戦争・紛争〟を繰り返してきました。外道国にとって「不条理な神・超人」の存在は実に便利です。
 
 さて、こうして外道義を考察しますと、現在のカルト創価学会の〝天下取り〟[何でもあり・こじつけ]論と、やり口が酷似していると思いませんか?
 
 次に「科学主義」についてですが、これこそ最も厄介な問題です。今の日本人は科学を信頼のおける、基準だと考えています。しかし、サイエンスというのは、自分が観ている世界ではなくて、客観的に外から世界を見ています。それに対して仏法は、自分が観た世界観です。科学と仏法は、お互いに矛盾しないのです。外宇宙と内宇宙の問題です。自分の中を探せば神もいて、仏もいます。
 
 宇宙の外を望遠鏡で探しても、神も仏もいやしません。そんなことは明解なことです。「宇宙はこのように創られている」という理論は、錯覚なのです。ビックバンがあったかどうかは、本当はそんなことは分からないのです。
 
 宇宙の一番最初に大きな力が働いて、ビックバンができたなど架空の話です。人間が作り上げた世界です。「サイエンス」とは、作り上げたクリエイティブな世界であり、人間が都合よく考えて、こねくり上げた世界ということです。本当は、宇宙はどのようになっているのかなど、誰にも分かりはしません。
 
 むしろ、仏教のほうがスパッと「宇宙の始めはない」と言っているのです。非常に明解です。従って終わりもないのです。始めがあるから終わりがあるのです。
 
 西洋人達は、「始めがあるから、終わりがあるのだ」と考えているのです。これは、狂った見方です。仏教の方が全体的な見方です。「この宇宙に始めはない。だから終わりもない」無始無終です。時間というものもないのです。時間など勝手に人間が作り上げたものであり、物理現象ではないのです。本当は時間などないのです。

 時間は人によって長くも感じれば、短くも感じるのです。ある人にとっては膨大な長い時間に感じ、ある人にとっては一瞬のように短く感じるのです。だから、時間というものも相対的あり、絶対的な存在ではないということです。

 そのことにアインシュタインは、気が付いて「相対的時間論」ということを言っているのです。仏法では、とっくの昔に気が付いているのです。「始めもなければ終わりも無い」、そして「広がりもないし小さくもない」、不大不小と言うのです。

 この宇宙の真相とは、大きいわけでもなく、小さいわけでもありません。実にスッキリしています。仏教の悟りは、その場でパッと悟ってしまうので、一瞬にして宇宙を全て自分の掌(たなごころ)に握ってしまうのです。

 西洋人の考えるサイエンスで考えても絶対に最終的には宇宙は握れないのです。サイエンスで考えると次から次へと問題点が出てくるのです。「宇宙は一撃で叩いたら爆発した」と言いますが、「では、爆発する力とは何か?」ということは説明できないのです。宇宙は、最初は野球のボールくらいだと言うのです。それに「一撃を加えたら一瞬にして今の宇宙ができた」というのです。「誰がどの力で一撃を与えたのか?」というと、「神の一撃だ」というのです。そこで、神が出てくるのです。どこまでいっても宇宙は分からないのです。それは「ある物」という物から見ているので、無いものには見えないのです。無いものは無いものとして、そのまま敬っていくべきなのに、それがどうしても「物」にしたいのです。

 西洋人は「アークさえ持てば何でもできるのだ」という考えです。一番小さな素粒子を見つければ宇宙の成り立ちは説明できると考えていますが、できないのです。それをやっても、次から次へと出てくるのです。

 素粒子の問題で言えば、ギリシャ時代はアトム(原子)と考えました。「何個のアトムがるのか?」と考えて、5個〜6個と増えて現在ではアトムが、108個あります。それが「世界を構成している」と思ったのです。

 原子は素粒子からできているのです。現在素粒子は7つか8つあります。これも、きりがないのです。「素粒子は何からできているのか?」という問題が出て来るので、素粒子でおしまいではないのです。

 「素粒子は何からできているのか?」というと、人類はまだまだそこまでいっていません。宇宙もそうです。今、我々がいる世界は銀河系宇宙です。それには何千億という星があるのです。その銀河系宇宙の外側には、アンドロメダ星雲があるのです。星雲が他にもあり、まだ他にもあります。今、夜空に見ているのは星雲です。何千億という星が集まって、それが夜空に輝いて見えているのです。

 さらにそれを包んでいるのは、大星雲です。これは何個あるか、きりがありません。分からないことは、「分からない」と言えばよいのです。

 仏法では「宇宙の終わりはない。無限無量です。永遠の昔とは今なのです、時というものも存在しません。」そのような解釈のほうが非常にスッキリするのです。

 仏法の見方はまず、全体的にとらえます。それから、「これはウソ」「これは本当」と枝葉末節をとらえていくのです。

 科学から入ったりする人間は、枝葉末節にとらわれて馬鹿になるのです。仏法は馬鹿になりません。仏法をやっている人の中に自然に正しいものが浮かんでくるのです。

 「始めがある」だから「世界は終わるのだ」と考えている人がいるとしたら、それは間違った考え方です。我々の生命とは、神様が創ったもので、無始無終です。始めも無いから、終わりもないのです。どちらが正しいのでしょう。

 このように考えている人の方がはるかに高級で正法なのです。これが、正しい物の見方なのです。それが分らない人間は「最初があるから終わりがあるのだ」と考えて「ヨハネの黙示録の通りになるのだ」「聖書に書いてあることは全て正しい」などと考えたら頭がおかしいのです。

 そのようなものの見方をしている限りは、人類は進歩しないし、また馬鹿な道へ行ってしまうのです。正しい道を求めるのです。それこそが、貴方を幸せにすることができるのです。

 そして、科学主義に偏重すると共産主義・民主主義に行きつきます。本当に文化的な社会は、文明をほとんど必要としません。経済成長も必要ありません。穀貴・兵革・疫病が退治でき、世界の平和が担保されれば、循環的な機能を持った落ち着いた生活が出来るようになるのです。