ニセ本尊の言い訳を破折

《学会の戯れ言》

 先般、創価学会員が我が慈本寺の講員宅を訪れ、ニセ本尊の言い訳が書かれた一枚の用紙を置いていった。
 このくだらない言い訳は、学会がかつて出版し、指導していた『大白蓮華』第62号の記事によって、ことごとく粉砕出来る。 
 

『末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。
 この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。
 これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。
 邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネて作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐ろしい毒薬の働きをもつのであります。』昭和31年7月 戸田会長

 この指導を基にすれば、現在、学会で製造・販売している本尊は、いかに取り繕おうと【馬の骨・毒薬本尊】でしかない。
 今回、一読して率直に感じたことは、学会は大聖人の正義・会員の成仏は二の次であり唯々、あの手この手で会員を騙すことに腐心しているということである。要するに会員は、職員に馬鹿にされているのだ。

 【学会の言い訳①】

 「本山から下付されていない」について日達法主の時代は、豊島区・法道院から御本尊を直接発送。

 昭和三十年代に授与されていた日寛上人の御形木御本尊は、東京・池袋の法道院で印刷し、全国の末寺に直接、発送されていました。宗門が言うような、本山での法主の開限など御形木御本尊については全く行われていなかったのです。それは日達法主の時代まで続きました。日顕の代になり、本山に御本尊を扱う「第三課」という部署が出来ましたが、御本尊の印刷は、外部の印刷会社が行っています。
 そして印刷会社が運んで来た御本尊を僧侶が印刷の状態を確認して箱に詰め、各末寺に運送会社を使って発送しています。その際に「開眼」などの特別な儀式などしていません。これが歴史的事実なのです。


 【破折】
 過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではない。当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われた事である。
 その上で当時の法道院主管・早瀬日慈上人は、御形木御本尊の開眼をまとめて本山にお願いされていた。
 丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。
 また、日顕上人は印刷・確認された形木本尊(本紙)を丑寅勤行の際、御宝前に御供え申上げ、開眼供養されていた。
 学会は意図的に隠しているが、開眼供養された後、本山指定の表具店に本紙を渡して表装申し上げている。
 学会のペラペラ一枚刷りコピー本尊とは、全く異なっているのである。
 日顕上人は、「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。」(創価学会の偽造本尊義を破す59頁)と甚深の御指南をされている。
 日顕上人がここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのであり、「法道院から末寺へ御本尊が送られていていつ開眼供養したんだ。」などの邪推は、木っ端微塵に吹き飛ぶ。
 以上からわかるように、一時期、法道院がご本尊の授与をしていたから創価学会が勝手にやっていいという道理は一切ない。
 したがって、退転して邪宗となってしまった創価学会のニセ本尊は、何の許可も無く勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売している紙切れでしかない。



 【学会の言い訳②】
 「開眼していない」について、
御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない。 
 
 御書の中には、御本尊の開眼については全く述べられていません。なぜなら、大聖人は、
 「法華経の題目は一切経の神。一切経の眼目なり」(同一〇六〇頁)
「今末法に入って、眼目とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の本尊より外には眼目無きなり。」(同八四一頁)
と仰せであり、御本尊自体が、仏の眼目であり、魂そのものだからです。ゆえに、他宗の仏像のような開眼の儀式などは一切、必要ないのです。
 宗門は『本絵二像開眼之事』等を引用して、"開眼する前の御本尊は木絵であり、法主の開眼が必要"と躍起になっていますが、この御書は、真言宗が当時行っていた木絵二像(木や画で描かれた仏像)の開眼を痛烈に非難された内容であり、御本尊に開眼が必要などとは、一言も仰せではありません。
 そもそも、御本尊が木絵二像であろうはずはなく「一切経の眼目」である御本尊は、他のものに開眼されるべきものではありません。
 さらに、大聖人は『報恩抄』で「天台宗の人人画像木像の開眼の仏事をねらわんがために日本一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」と"開眼の仏事"自体を厳に戒められています。


 【破折】
 御書には、
『但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ』(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
とある。
 大聖人は、「開眼」によってはじめて「生身の教主釈尊」(仏)と成る。ここでは「法華経一部」を読むことによって開眼供養できると説かれている。
 大聖人も、弟子に命じて開眼をさせている。だからといって誰が開眼してもよいのではない。あくまでも師の命によって行うところに、血脈が流れ開眼の意味が生まれるのである。
 もし、在家の身で勝手に「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて」開眼できるのであれば、わざわざ「伊よ房」に「いそぎいそぎ」開眼を命じる必要もない。
 この御文からすると、【御本尊は開眼する側であり開眼されるものではない】との学会の見苦しい言い訳は破綻している。
 
 また、姑息にも「眼目」と「開眼」は同義であるが如く論じて会員を欺いているが、全くの別物である。
 
 更に、【御本尊が木絵二像であろうはずはない】と言い張るが、『観心本尊抄』に、
「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(全集248頁)
とあるので、観心本尊抄に示されている漫荼羅の御本尊も「本仏の真の姿を顕した仏像」だと言える。
 よって、大聖人が木絵二像と仰せの場合、板本尊は木像、紙幅の本尊は絵像に当たると拝して問題ないのである。

 学会が名前を挙げた『木絵二像開眼之事』で大聖人様は、他宗が一念三千を盗んでも一念三千の教えの肝心である草木成仏を知らない事を批判したうえで、さらに「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」(全集468頁)と仰せである。
 少なくとも「法華を心得たる人」の開眼が必要だと大聖人様が教示されていることは一目瞭然である。
 続きは「今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ。」となるが、ここで「真言を持って」と言うのは、ここではただ「法華を心得ていない人」の代表であげられているのである。
 
 そうなると、法華を心得ていない人が開眼しても、逆に全く誰にも開眼がなされなくても、本尊には魔や鬼が入るという事なのである。
 まさか、学会員も「法華を心得た人」は池田や学会と強弁するほど増上慢でもあるまい。

 以上を総括して言えることは、大聖人が【"開眼の仏事"自体を厳に戒められています】との学会の言辞は、大聖人の御意をねじ曲げた大謗法である。
 大聖人が「御本尊の開眼は不要」と教示された御書がどこにあるというのだ?



 【学会の言い訳③】
 「脇書を削除した」について、宗門も脇書を削除。

 宗門の古刹寺院の中には歴代法主の御形本御本尊を多数、所蔵している寺院がありますが、歴代法主書写の御本尊から御形本御本尊を作る際に、授与者名前を取る場合があります。そうした先例に基づいて、浄園寺所蔵の日寛上人御書写の御本尊を御形本解本尊にする際にも、授与者の名前を取っています。
 それに対して、日顕らは「御本尊の脇書を取ったのは大謗法」と難癖をつけていましたが、それでは宗門も大謗法となります。なぜなら、平成六年十一月、「天晴」という会社の社員三名が本山の総一坊、総二坊を訪れ、安置された板御本尊計四体の脇書部分の「願主 法華講総議頭 池田大作」という文字を跡形もなく消してしまいました。
 また、日顕の息子・阿部信彰が大修寺の住職を務めていた際に、全国の末寺に先駆けて、本堂の板御本尊から名誉会長の文字を削除しました。
 この一連の脇書削除によって、脇書が御本尊の本体でないこと、また、脇書きを消しても御本尊の功徳には変わりがないことを宗門自らが証明したのです。


 【破折】
 本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄であり、御本仏の当体だから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められている。
 今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となる。
 学会が、自らの謗法の念慮をもって勝手に脇書を削った事と、御法主上人の允可のもと、退転した池田の名を削った事と同列に論じること自体、不遜なのである。
 『本因妙抄』に、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(全集869頁)
と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能がある。
 『本因妙抄』を偽書と言う輩もいるが、学会の御書にもある以上それは詭弁でしかない。


 【総括】
 そもそも学会は、僧(殊に代々の御法主上人)の法力を信じられないようだが、どのように日寛上人は本尊を書写されたのか?
 なぜ、代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となるのか?
 学会とは破門によって無関係であるのに、何もわざわざ江戸時代の、大石寺の教義の中心人物(中興の祖)である、日寛上人の本尊を持ち出す必要が、どこにあるというのだ。
 日寛上人の本尊は拝んでも、説かれる教義は認めないでは、学会の正義は成り立たないではないか。