宗門は御開扉料稼ぎなどしていない

【邪説の主意】

宗門は、金集めのために信徒に登山させている。御開扉はやめるべき。営利のために戒壇の大御本尊を利用するのは不敬だ。広宣流布まで秘仏として公開しないのが正しいあり方だ。

(1)「今の宗門の『登山』というのは、大聖人の御意に叶わぬこと、内房尼御前の百千万億倍だ。なぜかといえば、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定するために建てた正本堂に居(す)え奉っているんだ。大聖人様を辱め奉ることこの上ない。大聖人様は御憤りあそばしておられる。しかるにもいま登山して御開扉申し上げるならば、不快の『見参(けさん)』を大聖人に強要し奉ることになるではないか」(冨士378号)

(2)阿部管長はいま、正本堂の跡地に、奉安堂なる巨大な建物を建てんと企てている。(中略)戒壇の大御本尊様を利用して本山の収入を図るためであります。『いいかげんにしないか』と私はいいたい」(顕正新聞 H12.4.5号)

(3)「貴殿(日顕上人猊下のこと)が」いま為しているのは、『内拝』ではない。恐れ多くも戒壇の大御本尊を利用し奉っての『御開扉料稼ぎ』である。だから貴殿は常に法華講員に『登山せよ、登山せよ』と鞭を打つ。(中略)直ちに濫りの御開扉を中止し、近き広布のその日まで、日興上人の御心のまま、もっぱら秘蔵厳護し奉るべきである」(浅井昭衛よりの重ねての対決申し入れ書)

■日寛上人の御指南

第二十六世・日寛上人は『寿量品談義』に、

「すでに本門の戒壇の御本尊存(そん)する上は其(そ)の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向(むか)ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(とき)は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ」

と御指南あそばされています。ここにはっきりと、登山参詣して戒壇の大御本尊を拝みなさいとあるではないですか。それともまさか、浅井は日寛上人様をも批判するつもりでしょうか。

■過去の発言と真逆の現在

例によってですが、浅井は今と昔とでは真逆の発言をしています。それを列記してみましょう。

◎「およそ総本山大石寺に秘蔵し奉る『本門戒壇の大御本尊』は、御本仏日蓮大聖人の御法魂にてまします。一分の信心あらん大石寺の信徒が、どうして御内拝を願わぬことがあろうか」(冨士271号)
※今の浅井は一分の信心もない、大石寺の信徒でもないので内拝を願わないのでしょう。願っても許されませんが。

◎「およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります」(冨士271号)

◎「正宗信徒として、戒壇の大御本尊内拝の道を閉ざされることは堪え難いこと」(冨士271号)
※いま我々に死ねと言っているわけですね、浅井は。

◎「戒壇の大御本尊様にお目にかかれるのは、あくまでも内拝である。本来ならば、広布の暁まで秘蔵の大御本尊であればお目通りも叶わぬが、不惜身命の信心ゆえに特別に時の御法主に許されて内拝させていただくのである」」(冨士271号)
※その通りです。浅井は不惜身命の信心がなく、我見に溺れて破門に処された門外漢であるから、御法主上人から内拝のお許しをいただけないのです。またその浅井に付き従う顕正会員も同じ。内拝を許されない自分たちの現実を直視しなければなりません。

◎「その御本尊がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召(おぼしめし)により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります」(冨士 S47.7)

※現在は「広宣流布の日まで秘仏として公開しないのが正しいあり方だ」と言っているわけですが、まるで逆ですね。

これらの矛盾発言をどうするのでしょう。ご都合主義で一貫した芯のない者に、日蓮大聖人の信心を語る資格などありません。