浅井の血脈相承否定は、非常に中途半端で笑えてしまうのだが

【邪説の主意】

日達上人から日顕上人への御相承は行われなかったので、御相承は断絶したが、血脈は断絶しない。国立戒壇を支持する御法主上人猊下または日目上人が御当座されれば、血脈は甦る。そういうことになっている。

(1)「まさしく、御遺命に背いた故にですね、細井管長は、御相承を授けることができなくなってしまった。次の阿部管長また、御遺命違背の失によってですね、これを受けることができなかった。すなわち、御相承の授受っていう、授ける受ける、この両方がですね、できなかったわけであります。まさに、七百年来、富士大石寺門流において、いまだかつてないっていうことが起きた。このことは宗門の奥の方、奥深くに起きたことであるから、一般の人はしらない」(本部指導会 H11.4.12 ※渡辺雄二氏によるテープ起こし)

(2)「大聖人様の万々の御配慮がまします。御相承というものは、口伝えとか、そのような一つのものではない、いかなることがあっても絶対断絶しないようにできてんです。故にもし、大聖人様の御心に叶う、正しい貫主上人が御出現になれば、その時たちまちに正系門下の血脈が蘇る。そういうことになってんです。いわんや、広宣流布の時には、すでに前生、前の世に御相承を所持された、日目上人御出現なさるんでしょう。ですから、少しもそのような断絶は心配する必要がないってことであります」(同上)

■過去の発言と真逆の現在
浅井という男は、今と昔で言うことが180度違います。その時々の自分の都合に合わせて言うことを真逆に変える者など、どうして信用できるのでしょうか。

ここに過去の発言を並べてみると、

◎「かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、『本門戒壇の大御本尊』付属の法体として代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。これが正系門下・富士大石寺の伝統である」(冨士274号)

◎「六十六・七代のいかんに関わらず、御本仏の三大秘法は金剛不壊であり、金口の相承・血脈はまた不断である」(『学会・宗門抗争の根本原因』より)

◎「ここで、正信会が問題にした阿部管長の相承疑義に触れておく。(中略)非常事態が万一あったとしても、血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。御本仏の下種仏法は金剛不壊である。法体たる戒壇の大御本尊は厳然としてましまし、金口の相承また厳然である」(同上)

◎「何代、代を重ねようとも、また面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替わらず、伝わるように出来ているんだ。これが御本仏の御仏智なのです。だから御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。断絶などあり得ないのです」(顕正新聞 H5.1.5号)

◎「阿部管長憎しのあまり、そして池田大作を偉く見せるために、ついに下種仏法の命脈たる金口の相承までも学会は否定してしまったのです。(中略)これを仏法破壊と云わずして、何を仏法破壊というのか。これを大謗法といわずして、何がいったい大謗法でありましょうか」(顕正新聞 H4.6.5号)

というように、今とは真逆の主張をしているのです。これはどういうことでしょう。

浅井は「御遺命守護」として、本門戒壇の大御本尊の正本堂からの御遷座を掲げ、これが完結した日には、「晴れて御法主上人より御奉公が認められる」と会員たちを欺(あざむ)き続けてきました。

しかし、もちろん御法主上人からそのようなお褒めもお認めもあるはずがなく、自身の存在意義すら失われる危機を感じた浅井は、顕正会存続のために邪智を廻らし、かつては大謗法として糾弾してきたはずの「日顕上人への血脈相承の否定」に及んだのです。何と無節操で卑怯な者なのでしょうか。

上記の通り、過去の発言と現在では真逆。この矛盾をどうするのでしょうか?浅井は宗門が正本堂を御遺命の戒壇だと偽っただとか、国立戒壇を放棄したとかまことしやかに御宗門の変節をでっちあげておりますが、変節のプロフェッショナルとは浅井自身のことである