十四誹謗について

【この十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし】

 十四誹謗について

 本年は日如上人の大号令の元、講中が一つになって、本気で折伏弘教に励む大事な2年目であります。
 ここでよくよく考えなければならないのは、講中での人間関係は前進していく上で非常に大切だと言う事です。つまり、組織を構成しているのは、私たち一人ひとりでありますので、何か問題が起きた時に、それを他人のせいにしたり、人を指差すのではなく、理想的な組織の構築は、私たち一人ひとりの自覚と責任にあることを知らなければなりません。
 したがって私たちは、漫然と講中に籍を置くだけでなく、まずトラブルや怨嫉(おんしつ)の源を断つべく、意識して我が心を治め、言葉や振る舞いを正して、講中での和を大切にし、異体同心、和合一致の組織を築き上げていくように、皆が協力していくことが必要です。
 その講中の異体同心の信心、行体を確立していく上で、殊の外重要な誡(いまし)めが十四誹謗(じゅうしひぼう)を犯してはならないという日蓮大聖人の御教示であります。

 【十四誹謗とは】

 松野殿御返事にて、
 

「悪の因に十四あり、一に驕慢(きょうまん)、二に懈怠(けたい)、三に計我(けいが)、四に浅識(せんしき)、五に著欲(じゃくよく)、六に不解(ふげ)、七に不信(ふしん)、八に顰蹙(ひんじゅく)、九に疑惑(ぎわく)、十に誹謗(ひぼう)、十一に軽善(きょうぜん)、十二に憎善(ぞうぜん)、十三に嫉善(しつぜん)、十四に恨善(こんぜん)なり。此の十四誹謗(じゅうしひぼう)は在家出家に至るべし」(御書一〇四六)

と仰せです。
 この十四誹謗(じゅうしひぼう)は、法華経譬喩品(ひゆほん)第三に基づくものです。

(1)驕慢(きょうまん)=正法にして驕(おご)りと侮(あなど)りの心をもち、正法をどこまでも謙虚に学んだり求めたりしないことをいう
(2)懈怠(けたい)=自分の楽しみや世間の浅いことには時間を惜しまず、労を厭(いと)わず、せっせと精を出すが、勤行や唱題、参詣や登山、折伏などの大切な仏道修行を怠けること、またなすべき行を怠ることをいう。
(3)計我(けいが)=我見と同義。自分の考えを中心として正法を推し量って曲解(きょっかい)し、我見に執着することをいう。自己や我への執着は大なり小なり誰しも持っているが、その我をもととして正法を計ることである。
(4)浅識(せんしき)=自分の浅はかな知識や考え、経験をもって仏法を安直に判断したり評価したりして、それ以上の深いものを求めようとしないことをいう。
(5)著欲(じゃくよく)=経文に「深く五欲に著せる」とあるように、財・名誉・飲食など世俗の欲に執着して、仏法を求めようとしないことをいう。
(6)不解(ふげ)=経文には「聞くとも解すること能(あた)わじ」とあるように、仏法を聞いても正しく理解できないこと、また理解しようとしないことをいう。
(7)不信(ふしん)=『念仏無間地獄抄』に「譬喩品十四誹謗(じゅうしひぼう)も不信(ふしん)を以て体と為せり」(御書三九)と仰せのように、今ここで明かしている十四誹謗(じゅうしひぼう)の本体、つまり一々の誹謗(ひぼう)が種々の相(すがた)・形をもって現れるその源・本体となるもので、正法を信じることができないこと、また信じようとしないことをいう。十四誹謗(じゅうしひぼう)を生む根本となるもので、最も注意を払い誡めるべきものである。
(8)顰蹙(ひんじゅく)=憎む心をもって顔を顰(しか)めることから、正法を憎み、非難することをいう。
(9)疑惑(ぎわく)=一往一通り頭では分かっているが、心から信じきれず、正法を疑い、惑(まど)うことをいう。例えば御本尊の意義や功徳を教えられても、心から信じることができず、疑って勤行や唱題をためらうことなどがこれに当たる。
(10)誹謗(ひぼう)=正法に対して言葉をもって積極的に悪しざまに謗(そし)ることをいい、その罪障は最も大きい。
(11)軽善(きょうぜん)=これ以下の四つは、経文に「経を読誦し 書持すること有らん者を見て」と条件が付されているように、正法、即ち御本尊を受持し、信行に励む人に対して、軽んじ侮(あなど)ることをいう。
(12)憎善(ぞうぜん)=正法を信授している僧俗を憎むこと。
(13)嫉善(しつぜん)=正法を信受する僧俗を嫉(そね)み妬(ねた)むことをいう。嫉むことも妬むことも共に、他の勝れたものに対して羨(うらや)んだり憎んだりするところから起こる感情。
(14)恨善(こんぜん)=正法を信受する僧俗を恨(うら)むこと。

 経文では、これらの十四誹謗(じゅうしひぼう)の悪果として、地獄・畜生等に堕して苦しむ相(すがた)や、さらに、たまたま人界に生を得たとしても、種々の病気や種々の苦しみの報いを受けることが説かれています。
 大聖人様は、
 

「此の十四誹謗(じゅうしひぼう)は在家出家に亘(わた)るべし、怖るべし怖るべし」(御書一〇四六)

 と仰せのように、在家の信徒も出家の僧侶も、共に悪果・悪報を招く大きな業因となるので、恐れ慎んで十四誹謗(じゅうしひぼう)を誡めていくべきことを強く説かれています。
 私たち日蓮正宗の僧俗は、この大聖人の御教示の通り、自行と化他行に亘って十四誹謗(じゅうしひぼう)を犯さないよう、十分に注意したいものであります。
 この十四誹謗(じゅうしひぼう)について、大聖人様は、自行と化他にわたって十四誹謗(じゅうしひぼう)を犯さずに修行し、題目を唱えていくところに、はじめて大きな功徳を成就していくことができる旨を仰せであります。
 そのことは、十四誹謗(じゅうしひぼう)の内容から言っても、第一の驕慢(きょうまん)から第十の誹謗(ひぼう)までは、自らの信心の姿勢や行を誡めたものであり、第十一の軽善(きょうぜん)から第十四の恨善(こんぜん)までは、正法正義を受持し、信行に励む者に対して、怨嫉(おんしつ)したり誹謗(ひぼう)してはいけないと誡めたもので、自ずと自行と化他に対する二つの誡めが含まれていることからも、明らかであります。

 【十四誹謗(じゅうしひぼう)を犯さない爲には】

 今までの話を聞いて、自分は大丈夫と思われる方は、驕慢(きょうまん)のそしりを受けることでしょう。
 逆に怖くなった方は、ある意味正直ですが、むやみに恐れる必要はありません。
 第六十七世日顕上人は、
 

「深く心に留(とど)めて、これらの誹謗(ひぼう)がないように努(つと)め、また、いささかも誹謗(ひぼう)がある場合には、信心の修行によって、少しでも少なくしていくように自ら努めることが、そのまま成仏への道なのであります。(中略)分々(ぶんぶん)に(十四誹謗(じゅうしひぼう)が)存(ぞん)しても、信心が強ければ、それらの謗法は次第にその人の命のなかにおいて軽くなっていき、消滅していくことは必定(ひつじょう)であります。」(昭和56年7月25日)

と仰せです。
 自分自身においては、わずかな謗法も犯さぬよう、どこまでも厳しく誡めていく、それがそのまま成仏への道であります。
こうした強い信心をもっていくならば、仮に自分自身の中に十四誹謗(じゅうしひぼう)が分々にあったとしても、やがてその謗法は軽くなっていき、ついに消滅することは間違いないと御指南下さっているのです。
 では、このように自ら努力していって、十四誹謗(じゅうしひぼう)が自分の中から完全に無くなる状態に到達できるのでしょうか。じつは、自ら謗法を断じていったとしても、これで自分の中の十四誹謗(じゅうしひぼう)は完全に無くなった、と言える状態にはならないのです。
 懈怠(けたい)謗法を例に考えてみますと、自分は五座三座の勤行をしているから懈怠(けたい)はしていない、と思うかもしれません。でも、その日は、しようと思えば、一時間の唱題ができたはずなのに、わずか五、六分しか唱題しなかたとしたら、それは、厳密に言えば懈怠(けたい)に当たります。また、しようと思えば三時間の唱題ができたのに、それを一時間で終わらせたら、これも厳しく言えば懈怠(けたい)です。
 かつて、第六十六世日達上人は、題目の唱え方について、

「一遍でも少なからず、百万遍でも多からず」

と仰せられ、時間のない中で、それでも本当に精いっぱい、真剣に唱えた題目なら、一遍でも足りないとはいえない。逆に、時間に余裕のある人が百万遍唱えたからといって、それで充分とはいえない、と御指南されました。
 要は、時間のない人はない人なりに、ある人はある人なりに、精いっぱい唱えなければいけない。その精いっぱいをやりきらないで甘くしたら、厳密に言えば、懈怠(けたい)となるのです。むろん、このことは唱題だけに限りません。折伏についても、御供養についても、全て同じです。精いっぱいできなければ、懈怠(けたい)謗法に当たる、といえます。
 以上は懈怠(けたい)謗法を例として考えた場合ですが、十四誹謗(じゅうしひぼう)の全てにわたって、自分なりに厳格に誡めていった結果、憍慢(きょうまん)な心も改まり、不解(ふげ)もなくなり、怨嫉もしなくなった、といっても、厳密に見ていくなら、どこかに十四誹謗(じゅうしひぼう)の分々が残ってしまいます。むしろ、完全に断滅しきるということは、我々がこの娑婆世界に生きているかぎり不可能です。
 では、我々は永久に十四誹謗(じゅうしひぼう)を免(まぬが)れることができないのか、といえば、そうではありません。心から謗法を嫌って断じ尽くしていくなら、謗法は、ゼロにはならなくとも、限りなくゼロに近づいていきます。そしてわずかに残った謗法は、信心が強盛であるならば、その大功徳によって、消滅させることができるのであります。
 その道理が、次の御金言に示されています。
 

法華経を持(たも)ち信ずれども、誠(まこと)に色心相応(しきしんそうおう)の信者、能持此経(のうじしきょう)の行者はまれなり。此等の人はばかりの謗法はあれども、深重(じんじゅう)の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水(たいすい)を以て小火(ぼや)をけす(消)が如し。」(御書905㌻)

 その意味は、御本尊を受持して信心しているとはいっても、本当の色心相応(しきしんそうおう)の信者、能持此経(のうじしきょう)の行者はまれである。「色心相応(しきしんそうおう)の信者」とは、心に思うことと口に出し行動するところが一致している、つまり、心の中でも堅く御本尊を信じて謗法を嫌い、行いの上でも、しっかりと唱題し折伏に励んでいる人のことです。
 「能持此経(のうじしきょう)の行者」とは、能(よ)く此の経を持(たも)つ行者と読み、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)で折伏を行ずるような強い信心の人をいいます。こうした人達はまれである、というのです。
 これらの人達は、その信心の中にわずかばかりの謗法が残っていたとしても、深重(じんじゅう)の罪を受けることはありえない。それは、信心は強く、謗法はわずかなので、大水(積んできた大功徳)をもって小火(わずかな謗法)を消すように、罪が消滅してしまうからである、と仰せであります。
 つまり、自分の中の十四誹謗(じゅうしひぼう)を、もう自分では自覚できないくらいのところまで、徹底的に誡め潰していく、そのときに、自らが色心相応(しきしんそうおう)・能持此経(のうじしきょう)で強盛に仏道修行に励んでいるならば、その大功徳によって、わずかに残っている謗法は全て消滅してしまい、罪障とはならない、と言われているのです。
 我々は、自分自身の内なる十四誹謗(じゅうしひぼう)については、針の先ほども許さない、という気持ちで厳しく律し、なくしていくよう心がける、そして、信心強盛に仏道修行に励んでいくならば、その功徳によって、わずかに残った誹謗(ひぼう)も悉く消滅するのであります。

 【犯してしまった謗法の罪障を消す方途】

 我々は、入信前はもちろん、入信してからも、知らず知らずのうちに様々な謗法を犯してきてしまいました。さらに過去世まで溯るなら、膨大な謗法の罪障が積まれているはずです。
 すでに犯してしまった謗法の罪障は、どのようにしたら消すことができるでしょうか。
 大聖人様は、

「大石(おおいし)も海にうかぶ、船の力なり。大火(たいか)もきゆる事、水の用(ゆう)にあらずや。小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪き(消)へぬ。」(御書962㌻)

と仰せです。
 懺悔こそが罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)の根本である。と示されています。
仏法における懺悔とは、自分が犯してしまった謗法の罪を明らかにして、仏・師匠・先輩・衆人(しゅうじん)に対し、心から詫びて二度と犯さないことを固く誓うことです。

 【よくよく懺悔して如説修行の折伏を】

 

「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。」(御書760㌻)

と仰せの如く、定業とは、過去に作った業により定まった命、ということです。今世における寿命なども、過去の業によって定まっているのであります。このように、もう定まってしまった罪業でも、よくよく懺悔するならば必ず消滅する、業によって定まっていた寿命すら延ばすことできる、と仰せです。
 ただし、「御本尊様ごめんなさい」などという軽いものでは、深い懺悔とはいえません。ここに「能く能く懺悔すれば」との仰せのとおり、身口意の三業において、深く強く懺悔の志を表わしていくことが大切であります。
 具体的には、御本尊に向かい、毎日、懺悔滅罪を願って真剣な唱題を重ねていく。あるいは、どこまでも身を低くして、正法正師にお仕えしていく。罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)のために、一人でも多くの人にこの仏法のことを説いて折伏していく――等というように、自らの身口意の上に、深く懺悔の志を表わしていくなら、定業さえも消滅していくことができるのであります。
 

法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中(うち)に一人も残らず成仏すべし。譬へば春夏田を作るの早晩(わせおく)あれども一年の中には必ず之を納む。法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す。」(御書110㌻)

 

「生死を離るゝ時は、必ず此の重罪をけしはてゝ出離すべし。」(御書573㌻)

如説修行とは、法華経に説かれるとおりの末法の修行、言うまでもなく折伏のことです。私達は、よくよく深い懺悔をするとともに、どんな迫害を受けても屈することなく折伏を貫いていくなら、折伏の大功徳によって、いかなる重罪も必ず消滅できる、定まった寿命すら延ばせて、成仏できる、というのが日蓮大聖人の御教示なのであります。
 しかし『神国王御書』に、
 

「懺悔の力に依りて生死やはな(離)れけむ。将又(はたまた)謗法の罪は重く、懺悔の力は弱くして、阿闍世王・無垢論師(むくろんじ)等のごとく地獄にや堕ちにけん」
(同 1303頁)


と仰せのように、謗法という大罪には相当に強い懺悔がなければ出離生死は叶いません。
 故にこそ『顕謗法抄』に、
 

「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期かたかるべし」(同 279頁)


と、過去の謗法重罪の深さを実感しつつ、常に自ら戒めていくべきことを御教示されているのです。
昨今の創価学会のように、
 

「懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし」(同 274頁)


と執心翻(ひるが)えらず、懺悔の心も持たず、もっぱら正法誹謗(ひぼう)を繰り返すならば、もはや無間(むけん)地獄に堕するほかあり得ません。
 私たち日蓮正宗僧俗は、まず自らの罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)を祈念して即身成仏を期し、進んでは一切衆生済度のため、昼夜順逆を問わずに折伏弘教に励んでいくことが懺悔の修法と心得るべきです。
 『三大秘法抄』に、

「三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(同 1595頁)


と仰せのように、大御本尊在(ましま)す所こそ真の懺悔滅罪の戒法、根本道場です。私たちは本門戒壇霊場への道案内として多くの人々を折伏・育成していきましょう。

 【魔の出来(しゅったい)】

 冒頭でも述べましたように、本年は、未来広布の礎を築く大事な「実践行動の年」であります。講中一丸となって折伏を第一とし、信心に励んでいかなければなりません。
 しかし、この広布大前進には必ず魔が競います。『兄弟抄』に、

「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」(御書九八六)

と示されるとおりであります。
 邪義邪宗の逆徒どもが跋扈(ばっこ)する今こそ、我らは異体同心の団結の元、強盛なる折伏によって、まちがった教えが、国を疲弊させ、いかに恐ろしい無間地獄の業因であるかを教え、一人、また一人と正信に導いていくことが、我ら日蓮正宗僧俗の地涌の使命であります。

慈本寺様HP「御住職の法話」より転載させていただきました。