「法主(ほっす)」とは、ただ大聖人御一人に対しての呼称である。との妄説を破す

【邪説の主意】
「『法主』とは、ただ大聖人御一人に対しての呼称であり、このことは、大聖人が自ら仰せられていることなのです。いいですか。本因妙抄には『仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり』と。(中略)大聖人以外の誰人が『法主』と名乗れましょうか。(中略)日興上人は大石寺の歴代上人を『貫主』と称されているのです。日寛上人の御筆記を拝見しても、すべてそうです。(中略)実は本宗で貫主を『法主』と呼ぶようになったのは、ごく最近のことなのです。日興上人が定められたごとく、あくまでも『貫主』でなければなりません」(顕正新聞 H10.7.15号)


■日寛上人の御記述

第二十六世・日寛上人は『抜書雑々集』において左京日教師の文を引用され、

「仏法を相属して当代の法主の処(ところ)に本尊の体(たい)有る可(べ)きなり」

と記されています。

もし浅井の言うように、歴代上人を「法主」と呼ぶのがおかしいのであれば、日寛上人がこのように記述あそばされるわけがありません。「貫主を『法主』と呼ぶようになったのは、ごく最近のこと」などというのは、浅井のたわごとです。古来より、唯授一人血脈相承の貫主が「法主」なのは当然のことなのです。

■浅井の自語相違発言

浅井は『冨士98号』において、

「日目上人は、この天奏に先立って次の嗣法に日道上人を選ばれ、一切を付属遊ばされた。以来、日道上人は日行上人へ、日行上人は日時上人に、更に日阿上人、日影上人、日有上人と代々の英邁なる御法主上人によって広宣流布の勇猛なる斗いは受け継がれたのである」

と述べています。

ここにはっきりと「代々の英邁なる御法主上人」と述べ、御歴代上人の呼称を「御法主」としているのです。それを今になって「貫主」の呼称にこだわるのは、唯授一人の血脈相承の存在を認めてしまっては自分にとって都合が悪く、正統嫡流たる御法主上人の権威を薄めようと会員たちを騙しているに過ぎません。