勤行と御講参詣について

 【この信心をしなくても成功者はいるではないか?】

 皆さんの中には、信仰心が弱くなってきた人や、勤行や寺院参詣などの信心活動を面倒くさがる子供などから、「別にこの信仰をしなくても、世間には成功者や立派な人がいるではないか」と言われた経験がある方も、いらっしゃるかと思います。
 一般に「成功者や立派な人」とは、社会的に指導的地位にある人、名誉のある人、財をなした人、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する人、社会的な悪と闘う人などが挙げられます。
 一口に「成功者や立派な人」といっても一定の規準があるわけではなく、漠然とした言葉でしかありません。
 よくテレビなどで、豪邸に住んできらびやかな生活をしている「セレブ」と呼ばれる人が紹介されていますが、浮き沈みも激しく、仕事や離婚や病気など、抱える問題や苦しみは、誰にでも同じようにあることを知らなければなりません。

 この信仰は「成功者」になるためにするのではありません。私たち日蓮正宗の僧俗は、成仏という人間にとって最高究極の境涯に到達することを大目的として修行精進することであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと人間性が培われていくのです。
 日蓮大聖人は、

「されば持(たもち)たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298頁)

と仰せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。
 ですから正しい信仰を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意に叶う人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。

【恩を知る】

 大聖人様は『報恩抄』にて、

「いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」(御書999頁)

と仰せになり、私達がなぜ正しい信心をしなけれぼならないかという理由として、それは報恩の為であると御教示下さっております。
 信仰の基本は、あらゆるものから自分が受けている恩を知り、それに感謝し、それに報いていく事と言えます。
 大聖人様は『寂日房御書』に、

「夫れ人身をうくる事はまれなり。已にまれなる人身をうけたり。又あひがたきは仏法、是又あへり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる」(御書1393頁)

と仰せでありますが私達は希なる人身を得てこの世に生まれ、また成仏の叶う、遭い難き三大秘法の仏法にめぐりあえた福徳ある身であります。
 従って仏法を学ぶ者の心得として、毎日父母・祖先への感謝の追善回向を怠らず《父母の恩》、常に仏法僧の三宝を敬って供養の心を忘れず《三宝の恩》、人間としての徳行を積むことが大切です。
 この父母・衆生・国主・三宝の「四恩」に対する知恩報恩こそ大聖人様の仏法の真髄であり、これについて『聖愚問答抄』に、

「世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす」(御書399頁)

と仰せられ、仏法を習う者は必ず四恩報謝を旨として仏道を修行し、畜生道を脱すべきであると仰せです。

【勤行の大事】

 大聖人様の仏法は四恩報謝の化儀の実践が修行の根幹であります。なかでも朝夕の勤行は単なる形式ではなく、大聖人様の御法門がそのまま私たちの信心修行の中に顕れるのです。
 勤行で、特に信仰者にとって大切な「三宝」への御報恩感謝と「先祖」への追善回向を、朝と夕に二座・三座・五座で行ないます。
 また朝は一日の出発でありますので、初座で諸天供養を申し上げてその加護を祈り、四座では令法久住・広宣流布と一生成仏の大願成就を御祈念し、併せて今日一日の実践の決意を誓願申し上げるのです。
 大聖人様の仏法においては、朝夕行なう御祈念を、単に観念(理)にとどめず、行動(事)に昇華させる真剣な強い祈りが大切です。
 勤行にあたって正宗では方便品、寿量品の二品を読誦いたします。これは、宗祖日蓮大聖人様以来正しく伝えられてきたのです。
 大聖人様はこうした化儀・化法を正しく後世に伝えるべく、

日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書1370頁)

と仰せであり、また、唯授一人の血脈をお受けあそばされた日興上人様も『遺誡置文』に、

「富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事」(御書1884頁)

と示しおかれて、大聖人様の正法正義を厳格に守られたのであります。

 今や、創価学会は、方便品と自我偈一回唱えるだけの勤行に変えてしまいました。「修行は時代に合わせて変えて良い」「現代人は時間が無いから」と言っていますが、ほんの数年前までは、彼等もちゃんと五座三座の勤行をしていたのです。
 考えられる理由として、

①学会に新来者を入会させる際、長い勤行が昔からネックになっていたから
②ニセ本尊を拝むようになって、御本尊の前に座る事が苦痛になってきたから
③謗法を犯しすぎて、懈怠謗法(けたいほうぼう)を何とも思わなくなったから

などが挙げられます。
 あきれることに、彼等は仏壇やお墓のシキミすら造花に替え出しました。お寺に来た学会の婦人部に聞いても「売っていないから手に入らない」と平気で言います。「大きなスーパーの花屋やホームセンターにも売っていますよ」と教えてあげても「遠くて買いに行けない」と言います。
 わざわざ慈本寺まで集団で文句を言いに来ても、自宅の命より大事だという御本尊のシキミすら買いに行けないとは邪宗ながら情けない限りです。
 一度正法から外れるとどこまでもおかしくなるといういい見本です。

【御報恩御講奉修の意義】

 ご承知の通り、全国の寺院では、毎月第二日曜日に宗祖日蓮大聖人様に対する御報恩御講が行われています。日蓮正宗の僧俗にとって最も大切な行事の一つです。
 まず「御講」とは、寺院に信徒が参詣し、御本尊様に読経・唱題して、住職から法話を頂戴することをいいます。

 まず、寺院参詣の功徳、法門聞法の功徳は厳然とあると言うことを知っていただきたいと思います。
 日寛上人が『寿量品談義』に、

「一足一足を積んで千里を行くが如く、日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足一足の裏に寂光の都は近づくなり。一辺一辺に大山大海の如くなる仏身を、我が己心にこしらえ立つる程に随分参詣唱題肝要なり」(歴代法主全書 第四巻 242)

と仰せられるように、常日頃から寺院に参詣し、住職の法話を聴聞することは、その教えを生活の中に実践し、罪障消滅・即身成仏の功徳を積むことの出来る大切な修行なのです。

 皆さんは、普段から御本尊様に種々のお願い事を御祈念されていると思いますが、純粋に日頃の御恩への感謝を示すには、御講参詣しかありません。年に12回、御会式を入れて13回しか、報恩感謝を行動で示すことの出来る日は無いのです。
 世間では、四恩を知らず「自分の実力で成功した」、「誰の力も借りないで生活している」などという考えを持つ人が多くいます。これは、恩知らずも甚だしいというものです。
 総本山第二十六世日寛上人は、『当流行事抄』に、

「もしこの三宝の御力がなければ、どうして罪障の深い私たちが即身成仏することができるのでしょうか(趣意)」(六巻抄194頁)

と御指南されています。
 私たちは毎日、御本尊様から功徳を戴き、充実した生活をしているのですから、大聖人様に御報恩申し上げることは当然のことなのです。毎月、御報恩御講に参詣して大聖人様に感謝の気持ちを申し上げましょう。
 人は、考え・思い・行動します。これを身口意の三業と言いますが、どんなに気持ちがあろうと、「本音」は行動に出ます。
 身口意の三業の一致した行動が出来るように心がけなければなりません。御本尊様への信仰心と報恩感謝の念を持っているならば、それを行動で示すことは極めて大事なことと言えます。
 皆さんに特に申しあげたい事は、「この御本尊は功徳を少しも下さらない」と愚痴をこぼす前に、先ず朝夕の勤行を厳格に行う。これが信心の基本となります。
 そして、お寺の参詣や信心の会合に必ず出席する。こういう積極的な信心の姿勢を持続すれば、自分自身が変わります。すると家庭が変わるのです。
 そうなると、自然と生活全般に活気が出て、「本当に功徳を頂いている」ということが、感謝の気持ちと共に実感できるように必ずなります。
 御本尊に対して浅はかな考えを持っている人や退転をする人達というのは、やはりそういう大事な基本が欠けているからこそ、信心を退いてしまうのです。
 そこを、皆さんもよく承知して頂きたいし、また、そういうことを残念ながら今日来られなかった方へ教えてあげていただきたいと思います。
 御本尊様は、どんな人にも平等に功徳を分け与えて下さいますが、その人その人の境界の違いによって、その功徳の現れ方も違ってきます。
 ここで踏ん張らなければならないときにこそ、真剣に勤行唱題が必要になってくるのですが、それでも真剣になれない方もいます。
 そのための寺院であり、同士であるわけですから、ひとりで色々と抱えずに、皆でお題目を唱えていこうではありませんか。

菩提寺の外護】

 日蓮正宗の信心は、日興上人が、

「しでし(師弟子)をたゞしてほとけになり侯」(歴代法主全書 第一巻 183頁)

と仰せられるように、本仏(日蓮大聖人)と本師(御法主上人猊下)、本師と小師(末寺の住職)、小師と信徒という縦の筋目(すじめ)を重んじ、この師弟相対の信心により、即身成仏の大功徳を成就することにあります。
 ですから、大御本尊直結・御法主上人直結という信心はありません。大御本尊様への御開扉、猊下様へのお目通り、御本尊願い、尊号願いなど、全て手継ぎの師である住職を通す意味はそこにあります。
 言うまでも無く、皆さんの菩提寺はここ慈本寺であります。慈本寺の御本尊様によって、皆さんも最期は、霊山浄土(大御本尊様の元)へ、死出の山では良馬となり、生死の海では大船となり、時には太陽や月となって導かれるのです。
 この、本堂に御安置の御本尊様への報恩感謝・筋道を違えてはなりません。ここを違えるから、ちょっとしたことで参詣の足が遠のいてしまうのです。
 さらには父母・祖先を弔う菩提寺を護って、子孫に伝える信心に立つことが肝要であります。そこに始めて無始以来の罪障消滅がなされ、功徳善根がそなわり一生成仏の大願が叶うのです。
 こうした令法久住という信仰者としての基本を守りつつ、その報恩の発露として社会及び一切衆生の救済の為《国主の恩・衆生の恩》に、死身弘法の折伏行に励む中にこそ真の人間としての成長もあり、広宣流布の大願も叶うのです。
 日如上人からいただいた御命題達成へ向けて、共に折伏を頑張って参ろうではありませんか。

慈本寺様HPから転載させていただきました。