無所畏とは

大白法・平成13年11月16日刊(第585号より転載)教学用語解説(75)


無(む) 所(しょ) 畏(い)

 
 無所畏とは

 無所畏は、法華経の『方便品第二』や『譬喩品第三』等に説かれ、四無畏(しむい)・四無所畏ともいいます。これは梵語(ぼんご)の「経験」「練達」の訳語で、仏や求(ぐ)道者(どうしゃ)が教えを説く際に具(そな)えている揺るぎない四つの「境地」を表しています。
 この無所畏の語は、大乗・小乗の諸経論にも多く見られ、「仏」と「菩薩」の境地を「自信」と示して、それぞれ挙げられています。
 また『方便品』には、
 

舎利弗(しゃりほつ)、如来(にょらい)の知見(ちけん)は、広大深遠(こうだいじんのん)なり。無量、無礙(むげ)、力、無所畏、禅(ぜん)定(じょう)、解脱(げだつ)、三昧(さんまい)あって」(法華経 89頁)


と説かれ、無所畏が仏の広大深遠な智慧の徳目として挙げられています。このことから無所畏の「境地」とは、畏(おそ)れを感じない四つの「智慧」「智力」とも解せられます。
 
 仏の四無所畏

 仏における無所畏は、『増一阿含経』や『倶舎論』等に、正(しょう)等(とう)覚(がく)無畏・漏(ろう)永(よう)尽(じん)無畏・説(せつ)障(しょう)法(ほう)無畏・説(せつ)出(しゅつ)道(どう)無畏と四種説かれています。

 一に正等覚無畏とは、一切(いっさい)智(ち)無所畏ともいい、仏は真理のすべてについて覚っているという自信から、他からの難があっても畏れることがない安穏で不動の境地を表しています。
 二に漏永尽無畏とは、漏尽(ろじん)無所畏ともいい、仏の一切の煩悩(ぼんのう)を断尽した境地のことで、他からの難にも畏れを持つことがない自信をいいます。
 三に説障法無畏とは、説障道(せつしょうどう)無所畏ともいい、外道の説く邪悪の染法(煩悩に染まった色法・心法)が、必ず衆生の仏道の障りになることから、仏が智力をもって畏れることなく説法・破折する境地をいいます。
 四に説出道無畏とは、説尽苦道無所畏ともいい、三界の苦から出(しゅつ)離(り)して解脱へ入る道を説き、これに対する疑難にも畏れない境地のことをいいます。


 このような仏の四つの境地は、十力(じゅうりき)(十種の智慧)を具えた仏の心地であり、広大な徳の上に常に安楽な境界であることを示しています。
 すなわち、それは仏の無所畏とは、仏が一切の覚者であるという自信を持たれ、煩悩を断じ、邪道を誡(いまし)め、苦しみから離れる道を示す、という四つの畏れなき徳をいいます。
 
 菩薩の四無所畏

 次に、仏から教説を授かる立場にある菩薩の無所畏は、『大智度論』に、能持(のうじ)無所畏・知根(ちこん)無所畏・決疑(けつぎ)無所畏・答報(とうほう)無所畏として四種、その境地が示されています。

 一に能持無所畏とは、菩薩が仏の一切法を聞き、体得し、常に忘れず、他に向かって説法することに畏れない自信をいいます。
 二に知根無所畏とは、菩薩が一切衆生の機根を知り、それぞれに応じて仏説を示すことについて畏れることがない自信をいいます。
 三に決疑無所畏とは、菩薩が一切衆生の疑問に対して、畏れと不安を持つことなく、ことごとく適切に答え、解決することができるという自信をいいます。
 四に答報無所畏とは、菩薩が衆生の様々な所問に対して、畏れを感じず、自由自在に応答し、疑問を取り除き得るという自信をいいます。


 このように無所畏とは、仏菩薩の教法を流布するに当たって、全く危惧(きぐ)することがない不動の境地を表したものなのです。
 
 無所畏とは折伏

 無所畏について、日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 

「説法とは南無妙法蓮華経なり、心無所畏とは今日蓮等の類南無妙法蓮華経と呼(よ)ばはる所の折伏なり」(御書 1779頁)


と仰せられ、末法における無所畏が、大聖人及びその門下の南無妙法蓮華経と唱えて行ずる「折伏」であることを明確に示されています。
 さらに『御講聞書』でも、
 

「所謂南無妙法蓮華経の大音(おん)声(じょう)を出だして諸経諸宗を対治すべし。『巧(ぎょう)於(お)難(なん)問(もん)答(どう)、其(ご)心(しん)無(む)所(しょ)畏(い)』とは是なり」(同 1855頁)


とあることから、『涌出品』の「難問答」の語に対し、諸宗に向けての「折伏」を表す心構えを無所畏としていることが伺えます。
 このようなことから、仏の無所畏とは、末法の御本仏、大聖人の御境地を指しているものといえます。その大聖人の顕された人法一箇の御本尊を根本に行ずる本宗僧俗の弘教につき、御法主日顕上人猊下は、
 

「妙法を受持して、たとえ一人なりともこの正法を説き勧めんと志すその身に、宛然(えんねん)として地涌の菩薩の深く尊い境界と功徳が具わるのであります」(大白法 517号)


と仰せられています。すなわち、他に正法を畏れなく説き、時機を鑑(かんが)み、疑問に答え、邪説を論破するという折伏行こそ、無所畏の徳性を顕していくものとなり得るのです。
 
 無所畏の行体は唱題

 このように折伏行は無所畏の意に適(かな)った所業ですが、その実行と成就の行体は唱題行にあります。
 折伏は慈悲の行為です。慈悲とは抜苦(ばっく)与楽(よらく)であり、『御義口伝』に、
 

「一念三千は抜苦与楽(ばっくよらく)なり」(御書 1786頁)


とあるように、仏の当体、すなわち御本尊に題目を唱えるときに、初めて慈悲行である真の折伏も可能となり、何物にも畏れることのない正法流布への不動なる境地が得られるのです。
 私たちは、無所畏の根底に具わる唱題をもって、師子王のごとき勇気溢(あふ)れる折伏を実践し、一人でも多くの人を救済する慈悲行に邁進(まいしん)してまいりましょう。