五七日(三十五日忌)の意義

⑤閻魔王(えんまおう)五七日(三十五日忌)本地・地蔵菩薩
閻魔とはインドの名である。息諍王(そくじょうおう)ともいう。罪人の生前の罪の軽重・深浅を監察し、裁断する。

壮大な王宮の城に入れられ、この大王を拝すれば、その形相は魂をなくす程におそろしい。その眼は太く大きく日月のように光り、顔面は赤く怒り、罪人を辱めるその声は百千の雷が同時に鳴り落ちて来るようだ。

「お前はここに来るのが始めてだと思うのだろうが、すでに何百何千回も来ているのだ。その都度いつも、娑婆世界にて仏道修行をして再びここへは来るなと言い含めているが、性懲りもなくまた来ている。人間として生を受る事は、爪の上に落とした砂土が、爪の上にかろうじて残るその粒の数のように、尊く稀少な事であり、また幸いにして仏法流布の国土にまで生まれおおせたお前は、それにもかかわらず、心のおもむくままに生き、仏道を行じる人々を斜めに見下し、気持ちのままに振る舞って、あげくに結局また、ここに来る。なんと無惨な事か。まことに、せっかく宝の山に入っても、手の中を空っぽにするとは、お前のような者の事だ。考えてもみるがいい。お前の残してきた財や品々が、この冥途の旅の糧となったか。娑婆に居る家族の中で、お前のその今の苦悩を代わって受けてくれる者がいるのか。お前の一期の罪業は、具生神が鉄札に記しておる。今からこれを読む。心して聞け。」

大きな山脈が崩れ落ちるような大音声で読み終えると、
大王は
「地獄へ行け。」と宣告する。

あまりにもおそろしく哀しいお告げに、罪人は、眼を紅色に泣きはらしながら、声にならない声をしぼり出し、懇願して言う。

「ただいま、読み聞かせいただいた罪業の中に、少しばかり心あたりはありますが、そのほかについては、身に覚えがございません。もしかしたらなにかの間違いで、具生神様が、誤記なされたのではないでしょうか。どうか少しの罪を、お慈悲によって見逃していただけないでしょうか。お願いしますお願いします、お願いします。」と。

心からふるえながら、おびえる罪人に、大王は顔色を変え、そしてしばらくして、
「よく聞きなさい。そのように生きてありし時も、お前はただ、眼の前の欲得にとらわれて、その原因を作った事などすぐに忘れ、思いもいたさず、世迷い言のような事を言って、生きて来たのではなかったか。その癖がなおらずにいるから、今、この正直断罪の庭に座って、すでに判明してしまった罪について、なお、とやかく言いつのるのであろう。それがかえって重苦を受ける基(もと)なのだ。そもそも我れはまったく憎しみの気持ちからお前をせめているのではない。またひとつとして罪を付け加える事もない。自業自得のむくいなのだから、自身を恨め。具生神を疑っているようだが、具生神とは、実は、お前が生まれると同時に生まれたお前の影の事なのだ。片時も離れずお前のした事、言った事、思った事を記したのだ。疑うようなものではない。しかし、それほど言うのなら、よしよし、光明院に行き、鏡を見て、その疑いをはらしなさい。」と言う。

この光明院という宮殿は、大王の居る城とは別にあり、そのなかには、九面の鏡がある。八方に各々鏡があり、その真ん中にひざまずき、鏡を見れば自分のしてきたすべての事が、あます所なく映し出されている。また他人に決して漏らしたこともない思いや秘密もことごとく映し出されている。眼を大きく見開きあまりの現実に声も出ないでいると、獄卒達と共に具生神も「それ見たことか、それ見たことか。」といいたてるのだ。
うつぶして泣けば、髪をつかまれ、頭を引き上げられて「そら見ろ、それ見ろ。」と鏡に顔をさしつけられる。

ただ、心に願う事は、娑婆に居る家族に、自分の菩提をとむらってくれと願うだけである。思えば、父母の事はいうまでもない事だが、親戚や知人友人の中にもすでに亡くなった者もいる。彼らも今このような苦しみを受けているはずである。

そんな事も思いやらず、ただ世間の義理でとむらうような人間は、実は情けの無い人間なのだ。情が無いも同然だ。
世間でも「情けは人の為ならず」という。生きている時に情けをかけるのはお互い様だから自分のためでもあるが、亡き後に情けを懸けていく事こそ誠(まこと)の志(こころざし)ある行いなのだ。そして亡者の菩提をとむらう事の大切さは我が身の為でもあるのだ。

所詮、亡者の助かる助からないは、ひとえに追善の有る無しに懸かっている。これは道理なのだ。中でも35日忌は、閻魔大王の前で苦しみを受ける時だからこの時の追善は肝心である。この時に善の行いをすれば、その振る舞いが鏡に映り、大王をはじめとして諸々の冥官も随喜して、罪人も喜ぶであろう。この事を深く感じて自分も精進をして、六親までも回向するべきである。