破和合僧という邪難

《学会の戯れ言》

 日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を現実に進めてきた創価学会に対し、日顕と宗門の首脳部は謀略によって創価学会の壊滅を図りました。
 広宣流布を進める団体の破壊を画策するのは広宣流布そのものを破壊する行為です。

《破折》

【学会の成立と、破門に至る経緯を述べる】

●法人設立
 終戦直後の混乱に乗じた折伏によって入信者は増え、昭和二十二年に池田大作が入信。昭和二十六年には戸田氏が第二代会長になり、活発な布教活動を全国に展開しました。
 昭和二十六年、戸田氏は「総本山外護(げご)」と「布教をしやすくするため」という理由で、創価学会が独自の宗教法人を取得することを日蓮正宗に願い出ました。

 これに対して日蓮正宗宗門は、
(1)折伏した人は信徒として末寺に所属させること。

(2)当山(日蓮正宗総本山)の教義を守ること。

(3)三宝(さんぼう=仏法僧)を守ること。

の三原則を法人設立の条件として提示し、学会は、この三原則と宗門外護の遵守(じゅんしゅ)を確約し、昭和二十七年、信徒団体という特殊な形態の、例外的措置によって宗教法人の認証を受け、設立されました。

池田大作の台頭

 昭和三十三年に戸田城聖氏が死去し、昭和三十五年五月三日、池田大作創価学会の第三代会長に就任しました。その就任式の席上、池田は、

「わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下にご奉公申し上げることが、学会の根本精神だと信じます」

と述べて、本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下に随順していくことが創価学会の精神であることを公表しました。

●政界進出と正本堂建立

 昭和三十七年十一月、創価学会は「公明党」を結成し、昭和四十年七月の参議院選挙では二十議席の勢力を有しました。

 こうした中、創価学会の「言論出版問題(創価学会を批判する出版物発売を妨害した事件)」が表面化し、昭和四十五年に民社党は、これに関連して、池田大作の国会喚問(かんもん)を要求し、また共産党にも政教一致を追求されました。

 これによって池田は、同年五月に行われた本部幹部会の席上、「言論・出版問題に関する謝罪」と「創価学会公明党政教分離」を表明しました。

また池田は、いまだ広宣流布が達成されていないにも関わらず、「自分が広宣流布を達成した証し」として、正本堂を「日蓮大聖人ご遺命(ゆいめい)の戒壇」とするよう宗門に迫りました。

 しかし第六十六世・日達上人はそれを拒否され、訓諭(くんゆ)をもって正本堂について「大聖人御遺命の戒壇に準ずるもの」「現時における事の戒壇」と意義づけられ、昭和四十七年十月に正本堂が建立されました。

●五十二年路線

 この正本堂建立は、これに反発する「妙信講(後の顕正会)」問題や、創価学会の非法を執拗に攻撃する自称「正信会」の派生など、さまざまな問題が惹起(じゃっき)する要因となりました。

 そしてこの正本堂建立を機に、池田の慢心は増長し、宗門支配を画策し、宗門に対してさまざまな圧力を加えはじめました。池田創価学会は、宗門を実質的に支配して乗っ取るか、それができなければ分離独立するという陰謀を企てるに至ったのです。

 昭和五十二年には、学会に批判的な僧侶に対する多くの「つるし上げ事件」をはじめとした僧侶攻撃・宗門批判を行うとともに、日蓮正宗の教義から逸脱(いつだつ)し、ついには御本尊模刻という大謗法(ほうぼう)を犯すに至りました。これが、いわゆる創価学会の「五十二年路線」です。

この時の教義逸脱の主なものは、

(1)創価仏法の原点は、戸田会長の「獄中の悟達(ごだつ)」にある

(2)唯授一人の血脈の否定・途中の人師論師(にんしろんし)は無用・大聖人直結

(3)『人間革命』は、現代の御書

(4)池田会長に帰命(きみょう)・池田会長は主師親三徳、大導師、久遠の師である

(5)寺院は単なる儀式の場、学会の会館は広布の道場

(6)謗法容認(祭りへの参加等)

(7)供養(布施)は在家でも受けられる

(8)学会員僧宝論などでした。

●五十二年路線の収束

 これらの謗法行為に対し、宗内僧侶を中心として学会批判の声が全国的に広がり、脱会者が続出。こうした状況に対し、池田は創価学会の崩壊につながることを危惧し、第六十六世・日達上人に謝罪し、事態の収束を願い出ました。

 そして昭和五十三年、創価学会は「教義上の基本問題について」と題した、教義逸脱に関する訂正文を聖教新聞に掲載しました。しかしこれは、訂正内容が曖昧で、さらに会長である池田の責任を明らかにするものではありませんでした。 そしてこの頃、創価学会による本尊模刻も発覚し、同年九月、学会は急きょ、勝手に造った七体の模刻本尊を総本山に納めました。

 窮地に追い込まれた学会は、同年十一月、代表幹部二、〇〇〇名による「創価学会創立四十八周年代表幹部会」(通称・お詫び登山)を開催し、そこに列席した宗内僧侶の面前で、公式に謝罪の意を表明しました。

 しかしその後も、教義逸脱はまるで改められず、池田自身への責任追及の声が一層激しくなり、ついに池田は昭和五十四年、創価学会会長を辞任して名誉会長となり、法華講総講頭も辞任しました。これを受けて、第六十六世・日達上人は、学会が日蓮正宗の信徒団体としての基本を忠実に守ることを条件とされた上で、学会問題の収束を宣言されました。

 その後、同年七月に日達上人が御遷化(せんげ)にともない、総本山第六十七世として日顕上人猊下が御登座され、日達上人の方針を引き継いで学会の善導に心を砕かれました。

●平成の分離独立路線

 平成二年十一月十六日、池田大作は全国の学会員に対して、衛星放送を通じて、御法主上人への誹謗(ひぼう)と宗門蔑視(べっし)のスピーチを行いました。それは、昭和五十三年の「お詫び登山」における反省・懺悔の言辞をすべて反古(ほご)にするものでした。
 同年十二月、宗門は学会との連絡会議の席上、「お尋ね」文書をもって、この池田スピーチの真意を確かめようとしましたが、学会は文書の受け取りすら拒否。そのため宗門は同文書を学会本部に送付しましたが、これに対し学会は誠意ある回答を示すどころか、敵意をあらわにした「お伺(うかが)い」という詰問書(きつもんしょ)を送りつけるという不誠実ぶりでした。

●再びの教義逸脱、そして破門へ

 創価学会は、平成三年初頭から、全組織を挙げて御法主上人・宗門御僧侶への誹謗・中傷・嫌がらせを開始し、日蓮正宗の信仰の命脈である「下種三宝」「血脈相伝」を否定し、さらに僧侶不要の「友人葬」の執行など、日蓮正宗の教義・信仰から大きく逸脱する謗法を犯すに至りました。

 これに対し宗門は、日蓮正宗本来の信仰姿勢に立ち返るように訓戒を重ねましたが、創価学会はまったく聞き入れず、さらに誹謗を繰り返しました。

 平成三年十月、宗門は「通告文」を送って強く反省を促しましたが、これに反発した学会はさらに誹謗・中傷をエスカレートさせていきました。そこで宗門は、同年十一月七日、日蓮正宗の外護団体としての姿を失った創価学会に対し「解散勧告」を行いました。
それにさらなる反発をする学会、(※この頃、突如右翼団体街宣車大石寺囲を連日練り歩き、「日顕(上人)出て行け!とスピーカーで連呼」・塔中に銃弾が撃ち込まれたり、郵送される事件もありました)……事ここに至り、宗門は、「もはや学会は本宗の信徒団体として認められない」と判断し、創価学会(及びSGI)を破門に処しました。

 しかしこの破門は、あくまでも組織体に対する処分であり、学会員個々人については日蓮正宗信徒として破門するものではなく、信徒としての資格を残すというものでした。

池田大作の信徒除名と「ニセ本尊」配布

 宗門は、創価学会の実質的責任者である池田大作に対し、弁疏(べんそ=弁明・釈明)の機会を与えましたが、池田はこれに対して無視を決め込み、そうした正式な手続きを経て、平成四年八月、宗門は池田を信徒除名(信徒としての破門)処分に付しました。

 その翌年、創価学会は、浄圓寺(じょうえんじ=平成四年に日蓮正宗より離脱)所蔵の「日寛上人御書写の御本尊」を、改竄(かいざん)・コピーして会員に授与する旨を発表し、ついに創価学会は「ニセ本尊」を販売するという、驚愕の大謗法を犯すに至りました。

創価学会員の信徒資格喪失

 宗門は、創価学会への組織破門から七年後の平成九年九月三十日、「宗規」の一部改正を行い、「本宗の檀信徒が本宗以外の宗教団体に所属したときは、その資格を喪失し除籍される」こととしました。

 そして二ヶ月の猶予(ゆうよ)をおいた同年十二月一日を期限とし、創価学会にそのまま籍を置くものは信徒資格を喪失する旨、学会員に通告しました。しかし学会は、会員がこれに応じることのないように会員を指導し、ついに多くの会員が日蓮正宗信徒としての資格を喪失し、除籍となりました。

 現在、学会員は、深く反省・懺悔の上で、末寺御住職の許しを得て勧戒式を受けることにより、日蓮正宗への復籍が許されています。

●「規則」「会則」の改変

 創価学会は、平成十四年に文部科学省の認証を得て「規則」を改変し、それによって「会則」を変更しました。

 その内容は、本尊や教義の裁定はすべて会長が行い、実質的には池田大作を「永遠の指導者」に定めるというものであり、本来、日蓮正宗の信徒団体として認可されながら、日蓮正宗と完全に分離した集団に改変するものでした。

戸田城聖氏の指導を忘れた創価学会

 昭和二十六年五月三日に故戸田城聖氏の創価学会第二代会長の就任式が向島の常泉寺で行われました。その後、昭和三十三年四月二日の逝去に至るまで学会員の戸田 二代会長に対する尊敬の念は篤く、当時のどの幹部の指導にも、また体験発表者の言葉の中にも、常に戸田先生、戸田先生という渇仰の言葉が繰り返されていました。

 戸田二代会長の逝去後、第三代会長池田大作に対するカリスマ性も尋常ではありませんでした。しかし、同じ会長でも戸田二代会長と池田との間には、根本的な相違が見られます。

 第一に、戸田二代会長の指導には、総本山に対する絶対の信仰と外護の赤誠が一貫していました。

 第二に、日蓮正宗の命脈たる法主上人の血脈に対する絶対の信仰がありました。


 第三に、本門戒壇の大御本尊と法主上人の御本尊書写と御下附の権能に対する絶対の信仰がありました。

したがって、偽本尊に対する見解として戸田二代会長は


『ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様の御悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。(中略)ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。だからコワイ。』(折伏教本 24)と指導しています。ここに今日の池田創価学会の指導と、戸田二代会長の指導とに百八十度の相違があるのです。

・昭和二十六年六月十日『僧侶の大功績』

『わずか百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の「出世の御本懐」たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護したてまつって、七百年間、チリもつけずに、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。(中略)もったいないではないか。神々(こうごう)しいではないか。ありがたいではないか。……かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿たる功績こそ、たたえねばならぬことである。この上に、大聖人の御教義は、深淵(しんえん)にして、厳博(げんぱく)であって、愚侶(ぐりょ)の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか』

・昭和三十年十二月十三日 関西本部入仏落慶

『良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、非常に光栄とするものであります』

・昭和三十一年一月二十九日

 戸田城聖氏は、日昇上人御隠退表明を拝して『信者の大精神に立て』との談話を発表

「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」(聖教新聞

   

・昭和三十一年八月十日

 日淳上人に対し奉り「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じ下さい」と申し上げる。(岡山妙霑寺落慶入仏式)

【退転したことを宗門のせいにする学会】

創価学会を謀略によって壊滅を図った」との主張は全くの言いがかりでしかないことは、学会成立から破門までの経緯で明らかです。

 謀略も何も、あの一一・一六の不遜なるスピーチは、池田が言い出したのです。しかも、池田は宗門から弁蔬の機会を何度も与えていただきながら、他の幹部の影に隠れてしまい何も言えないまま、学会内で会員を煽りながらも、公式には一言も発することなく破門となったのです。学会では世界の指導者と称えられるわりに、実際は臆病で卑怯な人なのです。

 自分は間違っていないというのなら、堂々と意見を述べるなり、言い過ぎたと反省するなら五二年度路線の時のように、登山してお詫びすればよかったのです。多くの、何の事情も知らない純粋な会員を巻き込むことはなかったのです。

 当初はのらりくらりと言い訳ばかりしていた幹部たちも、だんだん毒気が深入してきたのか、本門戒壇の大御本尊否定・唯授一人血脈相承否定・日蓮正宗の化儀否定と続き、最後はニセ本尊販売という暴挙に出ました。

 僧侶不要論をふりかざし、友人葬で亡くなった方を送り出していた頃「そのうち学会は本尊も勝手に作りますよ。」と言うと「そんなことはない。そうなったら脱会する。」と言っていた人まで、ニセ本尊をすんなり受け容れています。

 そこには、大聖人様の法も正義も無くなっていました。
 これによって、学会という組織はもとより、学会に所属している学会員までも破門となったのです。
 破門当初は、「魂の解放」「平成の宗教改革の勝利」と小躍りしていた学会が、今更恨み節を述べても哀れなだけです。

創価学会がどんなに広まろうと広宣流布とは言わない】

 戦前の、創価教育学会時代より、代々の御法主上人猊下は、ややもすると『世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)(ときの声をあげて、敵陣へ突き進むこと)する似非(えせ)信行の門徒』になりがちな学会員を(日亨上人 『富士宗学要集』九−二四七)何とか善導しようと、心を砕かれてこられました。

 日達上人は、『日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります』(二-六-二九五頁)
と、謗法路線を歩んでいた学会を指して御指南されました。

 広宣流布とは、日寛上人が

『金口相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付嘱なされて大石寺にのみ止まれり。(中略)既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ』(『富士宗学要集』第10巻131頁)

『富士山は是れ広宣流布の根源の故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり』(『文底秘沈抄』)

と仰せの様に、全世界の人々が総本山にまします本門戒壇の大御本尊に帰依して、本門の題目を唱えることを「広宣流布」というのです。

 いくら、お題目を唱え、三色旗を振りながら「センセー」と叫ぶ人々が世界に広まろうと、広宣流布とは言わないのです。

【学会員への問い】

一、あなたも信仰者なら御仏智を信じますよね?現実に、本門戒壇の大御本尊様に御目通りも叶わないというのは罰の姿ではないのですか?

二、池田はかつて日顕上人を『大聖人の遣使還告であらせられる日顕上人』と発言していました。その日顕上人から破門されたということは、大聖人様から破門されたと同義だと思いますがいかがでしょうか?
三、学会が宗門より正しいというのなら、なぜ大聖人様の出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊様」が学会ではなく、宗門にそのまま御安置されているのですか?日興上人が「本門戒壇の大御本尊様」と共に身延を離山されたのも御仏智(大聖人様の御意志)だと思いますが、あなたはどう思いますか?