阿仏房家の信心

 【阿仏房夫婦について】
 日蓮大聖人の信徒に佐渡の阿仏房(あぶつぼう)という方がいました。
 承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇とその近臣(きんしん)たちが鎌倉幕府を倒幕する目的で挙兵しましたが、その後わずか1カ月で大敗し、京都は幕府軍により占領されました。後に「承久の乱」と呼ばれるこの戦によって、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は隠岐(おき)に、その子である土御門(つちみかど)、順徳(じゅんとく)の両上皇はそれぞれ土佐、佐渡に流されました。
 阿仏房は承久の乱佐渡へ流された順徳上皇に仕えた武士で、和漢の学に通じ、歌道にも上達していたと伝えられます。
 俗名を遠藤為盛(えんどうためもり)といい、上皇佐渡の真野でお亡くなりになると、入道して御陵のかたわらに庵(いおり)を結び、上皇の冥福を祈って三十年、ひたすらに南無阿弥陀仏と念仏を唱えつづけたので、誰いうとなく阿仏房と呼ばれるようになったということです。
 妻は千日尼(せんにちあま)といいますが、この妻も、上皇の京の都を恋い慕う気持ちを思って、一日も早く上皇が都へ帰ることができるようにとの祈りをこめ、真野の海にて一千日の間、水垢離(みずごり)をとって祈願したので、人々が尊敬の念をこめて千日尼と呼んだといわれて
います。ともに真心を持ったすばらしい夫婦でした。
 ただし、阿仏房に関しては佐渡に土着(どちゃく)の人であったという説もあり、定かではありません。ただ入信以前は、熱心な念仏の信者であったことが、「阿仏房」の名前からうかがえます。

 【大聖人様の佐渡流罪】
文永8年(1271)10月、鎌倉幕府日蓮大聖人を佐渡へ流罪しました。
朝廷における遠流の制度は『続日本紀(しょくにほんぎ)』の神亀元年(724)、聖武天皇(しょうむてんのう)の所に明記されています。
 そこでは、流罪にも3種類有り
遠流=伊豆・安房(あわ)・常陸(ひたち)・佐渡隠岐(おき)・土左
中流=諏方・伊予
近流=越前・安芸(あき)
とされています。
 なかでも『法蓮抄』に
 「佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり」(821)
 と仰せのように厳しい自然環境の中に、いままで多くの罪人が流されましたが、そのほとんどが佐渡の地で生涯を閉じていました。
 流罪は大宝律令に制定され、笞罪(ちざい)(むち打ち)杖罪(じょうざい)(つえ打ち)徒罪(ずざい)(強制労働)流罪(るざい)(島流し)死罪(しざい)(死刑)の五罪中、死罪に次ぎ、しかも遠流の場合、死罪に代わるものでした。
 日蓮大聖人は、この佐渡で2年5ヵ月にわたって流人として過ごされたのです。
 大聖人様は、10月10日、依智を出発。その夜は武蔵国久目河に泊まり、児玉を経て、10月21日、寺泊に到着、日本海は荒れもようで、波の静まるのを待ち、10月28日、佐渡に到着。
配所の塚原三味堂に入られたのは、11月1日でありました。
 塚原の地は、守護代・本間六郎左衛門の館の後方にあり、死人の捨て場のようなところでした。そこにあった三味堂は、一間四面の小さな堂で、本来、人の住む建物ではなく、長年修理もされていなかったらしく極度に荒廃していました。
 その様子について大聖人様は次のように記されています。
 

「十一月一日に、本間六郎左衛門尉の家の背後に位置する、塚原という山野の中にある三昧堂に入りました。
 そこは、洛陽(京都)の蓮台野のように、死人を捨てる場所に立てられた、一間(約1.8メートル)四面ほどの広さで、仏像も安置されていない堂でした。
 屋根の板はすき間だらけで、四方の壁は破れていました。
 そして、堂の中まで、雪が降り積もって、消えることがありませんでした。このような場所で、寝ることもままならず、敷皮を敷いて、蓑(みの)を着て、夜を明かして、日を暮らしました。
 夜は、雪や雹(ひょう)や稲妻が絶えることなく、昼は、日の光も差しません。とても、心細い住居でした。」(「種種御振舞御書」1062意訳)

同様の記述は「妙法比丘尼御返事」にも見られます。
 

「堂には仏像もなく、筵むしろや畳は一枚もありません。法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして生活しました。訪れる者も食料もありませんでした。」(1264意訳)

 こうしたところで、日蓮大聖人は、時には雪や草を食されながら命をつながれ、着るものも乏しい、寒さと飢えによる苦しみを一身に受けられながら毎日を過ごされたのです。
 しかも佐渡の念仏者は、大聖人を亡き者にしようと、常に機会をうかがい、島の者が大聖人に近づくことがないように常に監視していました。

 【阿仏房の帰依】
 阿仏房は日蓮大聖人の佐渡御流罪中に、塚原三昧堂において「念仏無間という日蓮阿弥陀仏の怨敵」と日蓮大聖人を殺そうと迫ったのですが、逆に大聖人の人格に打たれてその教えに感銘し、念仏への信仰を捨てて、妻の千日尼とともに大聖人に帰依したとされています。
 大聖人様の破折によって、長年にわたって強盛に信仰してきた念仏をきっぱりと捨て、 正法に帰依した一途な姿から、純信にして剛直(ごうちょく)な人柄であったことが察せられます。

 【佐渡の御信徒による命がけの外護】
 こうした流人の身として、たえず生命の危険にさらされた生活のなかにあって、阿仏房夫妻以外にも一人二人と大聖人の教えに帰依する者がでてきました。
 阿仏房は、人目を避けて夜中におひつを背負い、大聖人様を訪れました。大聖人は、後年、感謝の意をこめてお手紙をしたためられています。
 大聖人を佐渡で亡きものにしようと企んだ幕府権力者達の意を受けて、大聖人の住居の近くを歩いただけでも信仰者達を牢につなぎ厳しい取り調べをした時もありました。
 ましてや、日蓮大聖人に食物を運んでいることがわかれば、どのような咎めを受けるかわかりませんでした。おそらく生命にもかかわったでしょうし、一族も無事では済みません。
 しかし、これほどの危険を冒しても、阿仏房夫妻等は、昼は監視の目が厳しいので、夜中に人目につかないように、食物をはじめ、不足しがちの紙・硯・墨など種々御供養申し上げたのです。
 こうした真心と勇気ある行為に対して、大聖人は
 

「いつの世にか・わすらむ、只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか」(『千日尼御前御返事』1253)

 
 

「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし、浄行菩薩うまれかわり給いてや・日蓮を御とふらい給うか不思議なり不思議なり」(『阿仏房御書』792)

とまで賞められています。
 因習の深い、しかも念仏信仰の強いこうした地で、流人の大聖人を師と仰ぎ、妙法の信心に踏みきることは、それだけでも並み大抵のことではありませんでした。
 
 【重要書の執筆】
 日蓮大聖人は、このような佐渡の地で、御法門の骨格ともいえる重要な御書を次々と著されました。
 竜口法難以後、発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)された大聖人にとって、末法救済の大法を明確に遺すことが、単に門下のみならず、未来永劫に衆生を救っていくために、不可欠であったからです。
 文永9年(1272)の「開目抄」「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「佐渡御書
 文永10年(1273)の「観心本尊抄」「諸法実相抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」「当体義抄」等々30数編にのぼっています。
特に、塚原で著された人本尊開顕の書「開目抄」と、一谷(いちのさわ)で著された法本尊開顕の書「観心本尊抄」は、日蓮大聖人の奥義を明かす二大柱石とされています。
 しかもこうした重要な御書が、「佐渡の国は紙候はぬ上」(583)とあるように、ともすれば筆や紙の窮乏の中でしたためられたのであり、「観心本尊抄」の御真筆を拝しても、紙は一様ではなく、全17紙中、前半は普通の和紙、後半は雁皮紙(がんぴし)が使われ、さらに表と裏にしたためられているなど、いかに物資の不足した大変な状況の中で執筆されていたかうかがわれます。
 こうした大聖人様の御事跡も、阿仏房等の佐渡の御信徒外護があったればこそ成し遂げられたのであり、功績の大きさに頭が下がる思いです。

 【大聖人様の佐渡流罪赦免】
 こうした佐渡での生活も、文永11年(1274)2月、幕府の流罪赦免によって終わりを告げました。赦免状は2月14日に発せられ、佐渡へは3月8日に到着しました。
 無実の罪であることはすでに明らかでしたし、自界叛逆(北条時輔の乱・二月騒動)・他国侵逼(蒙古襲来)等の予言が的中していました。
それでもなお北条一門をはじめ、諸大名はこぞって反対しましたが、執権・北条時宗の裁量によって赦免決定がされたようです。
 文永11年(1274)3月13日、真裏港を出発、信濃路を経て鎌倉に向かわれました。阿仏房・国府入道・中興入道・一谷入道等の佐渡の人々にとっては、大聖人が流罪を許されて鎌倉に還られることは、喜ばしいことではありましたが、反面、2年5ヵ月にわたって親しく給仕してきた大聖人と別れることはとても辛いことであったでしょう。
 大聖人も、気持ちは同じでした。「さればつらかりし国なれどもそりたるかみをうしろへひかれ・すすむあしもかへりしぞかし」(740)
とその心境を述べられています。
 一方、佐渡の念仏者は、大聖人を阿弥陀仏の敵として、生きて鎌倉には帰すまいと企んでいました。
 『種種御振舞御書』には「御赦免状が届いたことを知った念仏者たちは、再び協議して、
 「これ程の阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵っている者が、偶然にも、御勘氣を蒙って、この島に流されて来た。日蓮房が御赦免になったと雖も、このまま生きて帰すことは、誠に情けない事である。」と云って、色々と謀略の支度をしていました。」(意訳1067)とあります。 しかし
 「如何なる事でありましょうか。思いがけない順風が吹いて来たため、急いで、佐渡を発ちました。
 風の都合が悪いと、百日や五十日待っても渡れないことがあったり、順風でも三日はかかる海路を、たちまちの間に渡ることが出来ました。」(同)
と、予期せぬ順風に恵まれて対岸へ渡ることができ、そのため、念仏者は全く危害を加えることができなかったようです。
 こうして大聖人様は、2年半ぶりで無事鎌倉に帰られたのでした。

 【身延入山】
 文永11年3月26日に日蓮大聖人は、鎌倉に着かれました。そして4月、三度目の国主諌暁をされたあと、「上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(一〇三〇頁)
とあるように、鎌倉を去る決意をされ、波木井郷・身延の地を選ばれて、5月17日に入山されました。
 その理由は、第一に、国恩を報じ、かつ民衆の三世に亘る幸福のための三度の諌めも、ついに用いられることなきに至ったためです。
 第二には、御自身の如説修行(にょせつしゅぎょう)により、法華経の身読をことごとく終えて、真の法華経の行者の意義を顕されたためです。
 第三には、末法万年の弘通、宗旨の確立と令法久住(りょうぼうくじゅう)の準備のためです。
 つまり三大秘法の整足、特に本門戒壇の大御本尊の建立は御化導の究竟(くきょう)であり、また弟子や信徒の育成は令法久住・広宣流布の礎となるものだったのです。
 しかし、当時の身延山は、誰でも訪ねて来られるような所でなかったようです。山は険しく、川も急流、道といってもひどいものでした。食物もなかなか手に入らない所だったようです。
 日蓮大聖人はそれでもご信徒のすすめをありがたく受けられ、そんな身延に草庵を構えてささやかな生活を始められました。大聖人にとって食物のご供養はありがたい事だったでしょうし、まして、山道をふみわけて訪ねてくれた方をどんなに喜ばれたことでしょう。

 【阿仏房の参詣】
 日蓮大聖人を慕う阿仏房は、佐渡からはるばると三度も身延山の大聖人のもとを訪れています。
 第一回目は文永十一年(一二七四)、阿仏房八十六歳の時。第二回目は、次の年の建治元年で八十七歳の時。第三回目は、それから三年後の弘安元年、実に阿仏房九十歳の時でした。
 この時は七月六日に佐渡を立って、七月二十七日に身延に着いたと書かれています。佐渡から身延までの行程は今でも大変ですが、その当時、佐渡から海を渡り、さらに山河を越えながら歩みを進めての二十日間の旅路は、並大抵のことではありません。しかも阿仏房の年齢を思うとき、どうしても大聖人にお目にかかりたいという一心の、ただごとならぬ願いが感じられます。
 当時は、山賊や海賊がしばしばあらわれ、宿泊すべき宿も少なく、食糧も持ち歩かなければならなかったでしょう。
 そのうえ、翌建治元年(1275)9月には、幕府に再度入貢(にゅうこう)をすすめてきた蒙古の使者を鎌倉で斬首しています。
 また建治3年(1277)の秋頃より、翌弘安元年(1278)の春にかけて疫病が大流行しました。
 このように内外が騒然とした中での長旅は、常に生命の危険にさらされることを十分覚悟の上でなければできない難事でありました。
 しかし、阿仏房はこうした幾多の障害を乗り越え、貯えた銭や、千日尼の女性らしい細やかさで調えた心尽くしの品々を携え、大聖人様の後を追うように身延に向かったのです。
 阿仏房と国府入道が身延に到着したとき、その喜びを大聖人は千日尼と国府尼に宛てた御手紙に、「ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをばへ候へ」(七四〇㌻)と、その喜びを表されています。
 『是日尼御書』に、
 

「さどの国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎやとをもひしに、又今年来てなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。ふでをもちてつくしがたし」(一二二〇㌻)

と、阿仏房が、ひと月あまりも大聖人にお仕え申し上げたことが記されています。
 長い道中を経て御目通りが叶った阿仏房は、大聖人に少しでも御奉公申し上げたいとの一念から、薪を切ったり、菜を摘んだり、沢へ下って水を汲むなど、真心からの御給仕に励んだのです。
 これらはまさに、法華経『寿量品』に、
 

「心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし」(法華経 四三四㌻)

と説かれるように、求道心からくる信心の行体でありました。
 
 【佐渡の御婦人への激励】
 弘安元年(1278)7月、三度身延の大聖人のもとに参詣した阿仏房に託した手紙の中で、千日尼は
 『女人の罪障は深いので成仏はできるであろうかと思っていましたが、大聖人の御法門に法華経は女人成仏を第一とすると説かれていますので、すべてはそれを頼みとしています』
と述べています。
これ対して大聖人は経文を引かれながら、
 「一代聖教の中には法華経第一・法華経の中には女人成仏第一」(1250)
と教えられています。
 大聖人が心にかけられたのは、現実に眼前にやってきた夫達以上に、このように夫を送り出し、留守を守っている夫人達のことでありました。
 千日尼や国府尼の心遣いを賞賛され、「お目にかかることは出来ませんが、貴女の心は身延の地にしっかり届いていますよ」と仰せであります。
 夫をはるか遠く旅立たせ、日々無事を祈りながら留守を守っていた夫人達にとって、たとえ身は遠い佐渡の地にあったとしても、その心はすでに師のもとにあるのであるとの大聖人のお言葉に、どれ程感激したことでしょうか。
 更に大聖人は、こうした夫人達に
 

「弥(いよいよ)信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり」(906)

と信心を励まされています。
 とくに千日尼は、夫の身延参詣のたびに、御供養の品を添えて、法門について種々おうかがいの手紙を託されることを賞されています。
 
 【阿仏房の逝去】
 九十歳で三度目の参詣をされた阿仏坊は、その翌年、弘安2年(1279)3月21日に大往生をとげておられます。純真な信心を全うした阿仏房に対し、大聖人は千日尼に
 「法華経の明鏡に照らして見れば、あなたの夫は成仏して霊鷲山の多宝塔の中に、東向きにいらっしゃいますよ」と激励されています。(千日尼御前御返事1475取意)
 その年の7月、阿仏房の子・藤九郎は、遺骨を大聖人のもとへ納めるべく、身延を訪ねました。
 このように、佐渡に住む人々は大聖人のもとからは、海山をはるかに隔てた地にありながら、大聖人を心から慕い、信心を貫いたのです。
 日蓮聖人は阿仏坊をご草庵の脇に葬ってさしあげました。
 翌弘安3年7月1日、再び藤九郎は日蓮大聖人のいらっしゃる身延を訪い、阿仏房の墓参りをしました。大聖人は、藤九郎が2年続けて元気な姿を見せたことを喜ばれました。この藤九郎の身延への登山は、阿仏房が生きている時もそうであったように、千日尼の強い意志によるものであったでしょう。
 大聖人様は、阿仏房を失った千日尼へ「世の中の景色は変わらないのに、阿仏房がいないことを、天も恨めしく地も嘆かわしいと思っておられることでしょう。急ぎ急ぎ、法華経を旅の糧とたのんで、霊山淨土へ参って阿仏房にお会いしなさい。」と激励され、この御書の末尾には、
 

「子にすぎたる財なし・子にすぎたる財なし」(1478)

と括られています。日蓮大聖人としては、阿仏房を亡くし悲嘆に暮れている千日尼の気持ちを子に向け、少しでも心を癒されようと心を砕かれています。また、過去に囚われるのではなく、未来に希望を見出すように教え導かれているのがわかります。
 阿仏房・千日尼の子息、藤九郎守綱は父母の志を継いで佐渡・北陸方面の弘教に励みました。さらに曾孫の如寂日満は年少より富士に上って日興上人に仕え、北陸における仏法の中心者を命じられています。
 千日尼は、子や孫に囲まれながら、正安4年(1302)に亡くなりました。
 他の多くの地域では、大聖人亡きあと、五老僧の流れに染まっていったのに対し、当時の佐渡の御信徒が、日興上人を師と仰ぎ、正法の伝燈を守り抜いたのです。
 鎌倉時代に、わずか年数ではあっても、こんなに強く信仰で結ばれた話が実際にあったのです。
 我々は不自由なく信行に励むことが出来る身の福徳に感謝し、報恩の折伏に邁進して参りましょう。

慈本寺様HP「御住職の法話」から転載させていただきました