血脈相承否定の創価学会員への質問

 創価学会は現在、血脈相承を否定また軽んじ貶めてしており、日蓮大聖人直結などと全く道理の通らない主張を繰り返しています。
 その反面、第十七世日精上人やそれ以前の御歴代法主を否定しながら第二十六世日寛上人の本尊を勝手に用いたり、矛盾も甚だしい限りであります。
 その主張は血脈相承を否定している正信会や顕正会などと、なんら変わることがないと思います。
 彼らは謗法だと言ってきたあなた方とどこがどう違うのでしょうか?
 また、池田大作氏が「広布と人生を語る」に彼らの間違いを指摘しておりますが、今は全く正反対のことを主張しています。
 「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。創価学会は御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」 (『広布と人生を語る』第三巻三二頁)
 「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じにみえるが、それらには唯授一人・法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈がない。法水瀉瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持(たも)つも無益(むやく)であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである」(『広布と人生を語る』第八巻二二八頁)
 なぜ日寛上人だけが正師となるのですか?
第十二世日鎮上人・第十七世日精上人を否定しながら、第二十六世の日寛上人を肯定する。
この矛盾点にお答えください。
 信心の血脈のみ主張するということは、あなた方の理屈だと身延の御真筆の御本尊も信心の血脈があれば拝んで良いことになります。
拝んで良いのでしょうか??
明確にお答え下さい。

 創価学会は、「信心の血脈論」について、【生死一大事血脈抄】(新編五一五頁三・全集一三三八頁九)の一部分のみを抜粋引用し、『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』のみを以て、「信心さえあれば、血脈(相承)も関係ない」としている事は明白です。しかし、であれば、「信心さえあれば、誰でも日蓮大聖人の直属の弟子である」と公言し得ることにもなります。一方を非難し、結局は自己の矛盾を安易に曝け出す。創価学会が抱える「永遠の矛盾」だと考える次第です。
 本来在るべき謙虚な信仰心を持って正直に御書を拝し、御書・御文の前後の脈略、又は別の御書との相互関係等を把握し、その全てを包括した上にこそ、宗祖の真の意が初めて汲み取れるのであり、自己の我見・我欲を持って拝したところで、何の役に立たないどころか、かえって危険な思想へと転じていくことも事実であります。大聖人の御書をはいする上での基本は【文・義・意】を以て拝し、特に「意」を確実に理解する為には、「切り文」のみをもって解釈理解することは、けしてあってはならないことなのです。

【一代聖教大意】(新編九二頁八・全集三九八頁三)
 『此の経は相伝に有らざれば知り難し』
【立正観抄】(新編七七〇頁六・全集五三〇頁一五)
 『当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり』
【百六箇抄】(新編一七〇二頁六・全集八六九頁九)
 『但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり』
【四恩抄】
 『僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬えば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習い伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云て是を悩ますは、此の人仏法の大灯明を滅せんと思え」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。』
と、挙げればキリが無いほど、宗祖はこの「血脈の大事」を言明されています。
 さらに「血脈相承」には、別して【総別の二義】があり、これについて大聖人は【曽谷殿御返事】に於いて、
 『これには総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば、成仏思いもよらず、輪廻生死のもといたらん』
と仰せになられております。
 『信心の血脈』とは、この【唯授一人の血脈を信順することを前提】として、日蓮正宗の御本尊(本門戒壇の大御本尊様)を無二に信ずるところに流れ通うものであり、信心の血脈」のみを切り離して宗祖以来の信仰を語れるものではけしてありません。
 したがって、「唯授一人の 血脈」と「信心の血脈」を同列に考えることは根本的に間違いであり、「唯授一人の血脈」 を信ずる上で御本尊を拝することが大切だということです。
 以前、創価学会が発行した『生死一大事血脈抄』の講義に、「信心の血脈」を解釈する段では、
『もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心 の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない』(学講三〇上ー三二頁)
と述べられています。
 現在の創価学会では「信心さえあればよい」と指導しているようですが、「何を、どのように信ずるか」ということが明確でなければなりません。ただ闇雲に「信心の血脈」だけをふりかざす偏った指導は、「唯授一人の血脈」を蔑ろにするものであります。
 いずれにせよ、如何に創価学会が「信心の血脈」と主張したとしても、それは単に破門されたことに依り、今まで出来たことが出来なくなってしまった現実に対応するべく考え造り出した「邪見・邪心」の発露であり、到底宗祖の意を語る、又は継承するものではないということだけは確かでしょう。
創価学会経本改竄
 (五座三座を廃止した事実について)
 『日寛上人が「正師」であるゆえに「日寛上人御書写の本尊」を下付するに至る訳です。』との発言は、幾度となくまた何処に於いても聞き及ぶものでありますが、では、日寛上人が当時の御弟子に認められた、
 『若(もし)堪(たえ)タラン人ハ本山ノ如ク相(あい)勤(つとむ)ヘシ若(もし)爾(しから)ズンバ十如自我偈題目ナリトモ五座三座ノ様式相(あい)守(まもる)ヘシ』(金沢の信徒・福原式治氏に宛てたお手紙)
とは、如何なる意をもっての御指南であそばされるか?
学会員には堂々と答えて戴きたいものです。





 【日淳上人全集より 悪口と折伏


 罵詈讒謗(ばりざんぼう・悪口の限りを言い、手ひどくののしることの意)と折伏とは混間されやすいが、自ら正法を持ち正行を行ずるものが他の過悪を責むるは折伏である。
 自ら正法を持つことなく又正行を行ずることもなくして却って他を言ふは悪口罵詈(あっくめり)である。一つはうちに正あって他の邪に迷ふを見て慈悲の念止む能はず彼が為に悪を除かむとする親の情により、一つは自らの及ばざるに怨嫉(おんしつ)を基として卑劣なる情によって起る。
 此の両者は結果に於ては区別し難いがその原因に於ては千里の逕庭(けいてい・隔たりの意)がある。即ち正法受持の自覚があると否と、而して受持するところはたして正法なると否とによるのである。
 他の過悪を挙ぐることは易い、その非を嗚らすことも容易である。けれども自ら正法を受持し正見に住することは至難である。今の世悪口罵詈讒謗毀(あっくめりざんぼうき)は多いが真の折伏は少い。
 悪口罵詈は如何に巧なりとも一顧(いっこ・少し振り返って見るの意)だにも価しないが、折伏は如何なりとも耳を傾けなければならぬ。
 日蓮大聖人曰く「体斜めなれば影曲がる」と体とは法である影とは行人である。されば行人の曲れるは法の曲がれるによる影を矯(いさめ)んとならば法を糺(ただ)さなければならぬ。法若し正しくして影が曲ればそれは行人の罪であって法の罪ではない、五濁爛漫の当世、法をさしをいて一々の言行を批判すれば悪口に堕する、唯受持する法の邪正を決するが行伏である。近時自ら正法に住せずして巧に他を言ふものがある。
 徒(いたず)らに奇言を弄して衆目を悪(お)はさんとするものの如くであるが、聞くところ見るところによれば悉く所雨悪口に過ぎない。自らの智解の及ばざるを知らず浅見を以て他を論ずるが如くである。衆人先づ悪口か折伏かを批判して然るのちにその言を聴かむことが肝要である。 昭和六年六月 (大日蓮