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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

一生成仏

大白法・平成18年3月16日刊(第689号より転載)教学用語解説(104)



一(いっ) 生(しょう) 成(じょう) 仏(ぶつ)
 
 「一生成仏」とは、私たち凡夫(ぼんぷ)が凡身(ぼんしん)を改(あらた)めることなく、一生のうちに成仏の境界(きょうがい)に至ることをいいます。即身(そくしん)成(じょう)仏(ぶつ)・速疾頓(そくしつとん)成(じょう)と同義の言葉で、『一生成仏抄』等に説かれています。
 成仏は仏法究(く)竟(きょう)の功徳(くどく)であり、それは法華経のみならず爾(に)前(ぜん)権(ごん)経(ぎょう)でも説かれています。
 しかし、実際は大聖人が、

「法華已前(いぜん)の歴劫(りゃっこう)修行等の諸経をば『終(じゅう)不(ふ)得(とく)成(じょう)、無(む)上(じょう)菩提(ぼだい)』と申し」(御書672頁)


と『如説(にょせつ)修行抄』に説かれているように、法華経以前の諸経で説く歴劫修行に無上菩提(成仏)はないのです。
 すなわち、法華経以前の爾前権経においては、永遠とも思える永い間、生死を繰り返しながら厳しい修行を積んで初めて悟(さと)りを得る歴劫修行が説かれ、また念仏(ねんぶつ)によってこの世を捨てて死後の極楽(ごくらく)往生(おうじょう)を期(き)するという、迂回(うえ)(遠回り・回り道の意)の成仏が説かれていました。
 しかし、これによれば、仏と凡夫はかけ離れていて、一向(いっこう)に凡夫は仏と成ることができず、また穢土(えど)と浄(じょう)土(ど)は別物であって、私たちが住むこの娑婆(しゃば)は、一向に苦悩(くのう)の尽(つ)きない絶望的世の中であるということになります。
 ところが法華経は、大聖人が『一生成仏抄』に、

「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢(え)土(ど)と云ふも土に二つの隔(へだ)てなし。只(ただ)我等が心の善悪によると見えたり」(同46頁)


 と仰せのように、凡夫の心の善悪によって、この娑婆世界が浄土とも穢土ともなるという、衆生本有(ほんぬ)の理と功徳が説かれています。つまり生命の本質である九界(くかい)即(そく)仏界(ぶっかい)、仏界(ぶっかい)即(そく)九界(くかい)、十界(じっかい)互貝(ごぐ)の義が説かれて、はじめて一切衆生の成仏が可能となったのです。
 故に大聖人は、

法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし(中略)法華の行者も上(じょう)中(ちゅう)下(げ)根(こん)あれども、必ず一生の中に証得(しょうとく)す」(同110頁)

と、法華経を行ずる者は、上中下根の違いこそあれ、必ず一生のうちに成仏することを仰せです。
 
 難信(なんしん)難解(なんげ)な「一心法界(いっしんほうかい)の旨(むね)」
 
 では、自身が仏と成り、娑婆(しゃば)即(そく)寂(じゃっ)光(こう)の妙理を現ずるにはどうすればよいのでしょうか。
 これについて『一生成仏抄』には、

「衆生本有(ほんぬ)の妙理を観ずべし」(同45頁)


と説かれています。これは衆生に本来具(そな)わっている妙理=妙法蓮華経を観ずることが悟りとなるということです。
 その「観ずる」とは、同抄に、

「唯所詮(ただしょせん)一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく、故に此(こ)の経を諸仏の智(ち)慧(え)とは云(い)ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依(え)正(しょう)・色心(しきしん)・非(ひ)情(じょう)草木(そうもく)・虚(こ)空(くう)刹(せつ)土(ど)いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満(へんまん)するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知(かくち)するを一心法界とも云ふなるべし」(同)


とあるように、宇宙法界・森羅(しんら)万(ばん)象(しょう)の一切法が衆生の一念に具わり、それを覚知(かくち)解(げ)了(りょう)することをいいます。
 しかし、末法の荒(あら)凡夫(ぼんぷ)たる私たちが、無(む)明(みょう)の迷心によって自己の一念心を観ずることは到底できるものではありません。そこで時機(じき)相応(そうおう)の行法として御本仏大聖人は、「南無妙法蓮華経」と唱えることによって「一心法界の旨」を体得できると示されたのです。
 そして、この一心法界たる妙法とは、我々の心そのものであると同時に、

妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ」(同1114頁)

とあるように、仏の悟りの当体であり、これを唱える時、

「名は必ず体にいたる徳あり」(同466頁)


と言われるように、どのような機根(きこん)の衆生であっても、自ずと仏の悟りに至るのです。
 したがって『一生成仏抄』に、

「若し己心(こしん)の外に法ありと思はゞ全く妙法にあらず」(同46頁)


とあるように、もし己心から離れたところに妙法があると思って題目を口唱しても、それは真実の観心ではなく、一生成仏も叶わないのです。
 
 「己(こ)心(しん)」の主体とは
 
 さて、大聖人一期(いちご)の御(ご)化導(けどう)は、

「さど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(同1204頁)


と『三沢抄』にあるように、佐渡以前と以後により教えの深さが違います。この『一生成仏抄』も宗(しゅう)旨(し)建(こん)立(りゅう)の二年後という御化導初期の御書であり、未(いま)だ大聖人の御本意が述べられたものではありません。
 故に先の『一生成仏抄』の「己心」の語は、権実(ごんじつ)相対(そうたい)の上から一往(いちおう)、諸法(しょほう)実相(じっそう)に約して妙法の意義を、私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」として示されたものなのです。
 再往(さいおう)、この「己心」の主体を大聖人の下種(げしゅ)仏法の御聖意より拝(はい)するならば、
日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同685頁)
と示されるように、実に御本仏大聖人の「己心」であり、就中(なかんずく)、大聖人出世の本懐(ほんがい)である本門戒壇の大御本尊にこそましますのです。
 
 正しい信心により一生成仏を
 
 この御本仏の御(ご)魂魄(こんぱく)は、唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)によって御(ご)相伝(そうでん)されています。したがって、この唯授一人の血脈に信順し奉(たてまつ)り、大御本尊に対し「南無妙法蓮華経」と唱え奉るならば、能所(のうしょ)不二(ふに)、すなわち所化(しょけ)たる我が己心は能化(のうけ)の御本仏の己心に冥(みょう)合(ごう)し、そこに即身成仏の功徳が顕現(けんげん)するのです。
 その一生成仏の功徳は、各々の「信心の厚薄(こうはく)」によりますが、常に自ら妙法を唱え、常に他の人々を折伏していくところの地道な積み重ねのうちに、必ず顕れるのです。