《日顕宗を斬る!!を斬る》④

《学会のマニュアル》
法主の言葉は人師・論師の釈である。御書でセットで示させるべし
・口伝はいけない(御義口伝は僧宝日興上人であるためよしとする)

《破 折》
 御法主上人を人師・論師とかたづける事自体、不遜である。
 当然、末法の御本仏は大聖人様お一人である。しかし、御歴代上人は、大聖人より御内証を受け継がれた尊極の存在なのである。
 日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ奉る以上、結局は学会も日蓮正宗の教義に従い、御法主上人猊下に教えを乞わなければ成り立たないのだ。
 よって、現在ですら、教義面では日蓮正宗の御歴代上人様の御指南を引用し、さらには総本山第二十六世日寛上人様の御本尊を変造してニセ本尊を製造・販売したり、教義と本尊を盗まなければ信仰が成り立たない有り様である。
 口伝はいけないと言いうが、彼等は仏法の基本すら分かっていない。
 そもそも、仏典自体が、文字のない時代の口伝を基に作成された。このような歴史的経過から考えても、仏教が口伝を否定するはずがない。
 また、学会は付嘱を受けた正統な弟子による口伝と、付嘱のない者の口伝を同列に扱い、非難してくるが見苦しい限りである。
 また、大聖人様は、
 此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承(ぼんじょう =受け継ぐ)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。
(『三大秘法禀承事』新編1595・全集1023頁)
と仰せである。
 即ち、上行菩薩(大聖人様)への結要付属自体が口伝だったのである。その口決相承に基づいて説かれたのが御書である。
 御義口伝は認めると言うが、本因妙抄、百六箇抄等はどうなのか?
 その取捨選択は、学会幹部が会議室ででも話し合って決めているようだが、何様のつもりなのだろう?


《過去の牧口常三郎戸田城聖池田大作の指導》

■初代会長の信心
 釈尊出世の本懐としての法華経を、今日において我々が理解するには、その予証どおりに出現して、これを実生活に証明された日蓮大聖人を信じ奉り、説のごとく実践躬行(きゅうこう)して価値を体験し、証得する以外に途(みち)はない。それをするためには、唯一の正統たる日興上人門流として、61世を重ねつゝある日蓮正宗の総本山大石寺の教義に従って、忠実純真に、三大秘法、すなわち法華本門の本尊に、法華本門の戒壇において、法華本門の題目を唱え奉る外には絶対にない。(略) 正法は正師につくにあらざれば、証得し能(あた)わぬとはこの意味である
(『牧口常三郎全集』第8巻69頁)
※この中の「正師」とは、すなわち第二祖日興上人と歴代の御法主上人である。学会ではこの「正師」とは日興上人のみである、と反論するのだろうが、牧口会長は「日興上人門流」と述べたのち「61世を重ねつゝ」と言っており、これが日興上人以来の歴代を指すことは明らかである。しかも、歴代上人によって伝えられる大石寺の教えに従って三大秘法を持つ以外に、法華経を理解する方法は絶対にない、と述べているのである。 この牧口会長の指導からすれば、今の創価学会は、絶対に法華経および大聖人の御意を知ることはできないことになる。

■御登山について
「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉御供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。」
(『戸田城聖全集』第3巻490頁)

■猊座の御事
「先代牧口先生当時から、学会は猊座(げいざ)のことには一切関知せぬ大精神でとおしてきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども、即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない」
(『戸田城聖全集』第3巻235頁)

■信徒の姿勢
「私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山へ尽くすことは当たり前のことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない」(『戸田城聖全集』第4巻237頁)

■法水写瓶 
「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)というのは、ここに二つの茶碗が、どんな形に変わっても、このなかの水をうつせば中の水は変わらないのであります。ですから、代々の御法主上人は、お人によって、いろいろとお姿は違うのでありますが、日蓮大聖人の法水が、そのまま変わりなく移されているのであります」
(『戸田城聖全集』第5巻439頁)

■政治・文化活動
「文化活動というものは、広宣流布の大構想からみれば、それは子供のオモチャのようなものである。(中略)それが広宣流布のための本格的な闘争であると思ったら大まちがいです。そう思われたら困る。(中略)政治のための政治ではない。だから自由党で立ちたかったら自由党社会党ならば社会党共産党で立ちたかったら共産党で立てばいい。その人の主義、政党には、私は干渉しない。胸の奥底に広宣流布をしまっておけば、何党でもさしつかえない」
(『戸田城聖全集』第4巻275頁)

■唯授一人の血脈相承は命脈中の命脈
「宗祖日蓮大聖人の御内証(ごないしょう)を二祖日興上人を経て、代々の御法主上人猊下(ごほっすしょうにんげいか)に法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)して末法万年の未来へ誤りなく伝承する金口嫡々(こんくちゃくちゃく)・唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)。これこそ、戒壇(かいだん)の大御本尊とともに、日蓮正宗の教義、信仰の根本中の根本であり、命脈中の命脈である。このことは、日蓮正宗の信徒であるならば、だれでも知っていることである」
池田大作創価新報』昭和58年4月20日付)

■御法主上人に随順
「血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。」
池田大作『広布と人生を語る』第3巻32頁)

■血脈否定は狂気の沙汰
日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化(ごせんげ)にともない、第六十七世法主・管長に就任。以来一年半にわたって、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚(はなは)だしい謗法である、と明言していた。 こうした経過からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分達の思い通りにならない日顕上人を法主(ほっす)の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。いかにタメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気の沙汰としか言いようがない」
池田大作創価新報』昭和60年12月4日付)

■仏法の正しき流れ
「ご存知のとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四祖日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない」
池田大作『広布と人生を語る』第3巻249頁)

■法水写瓶の血脈相承にのっとった信心
日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見から見ればわれわれと同じように見えるが、それらには唯授一人(ゆいじゅいちにん)・法水写瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈(けちみゃく)がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益(むやく)であり、功徳はないのである。」
池田大作『広布と人生を語る』第8巻228頁)

■御法主上人猊下様は遣使還告
「御法主上人猊下様は遣使還告(けんしげんごう)で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心のうえからはっきりしたものです」
池田大作『巻頭言・講義集』第3巻184頁)


【昔の学会教学】
◆その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。『一代聖教大意』に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せられ、日寛上人が『観心本尊抄文段』で「故に当抄に於て重々の相伝あり(中略)甚深奥旨(おうし)、宗門の淵底(えんでい)は唯(ただ)我が家の相伝にして諸門流の知らざる所なり」と記されているように、大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならないのである(御書講義録『生死一大事血脈抄』)

◆[経巻相承]=経典に依拠するのは仏教の基本であり、経巻を読んで仏の教えを学ぶことはだれでも同じで、特に相承を受けたなどと主張する必要はない。経巻から思い思いに学んでいくうちにいろいろの解釈や主張の乱れを生ずるので、単なる経巻相承では新たな分立諍論の基となる。そこで仏の真意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。仏教においては究極の法体はすべて血脈相承、師資相承される。
(『新版仏教哲学大辞典』初版313頁)

◆[相伝]=(「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(全集398頁)について)日蓮大聖人の法門は、不相伝の徒輩には知ることができないのである。
(『新版仏教哲学大辞典』初版1149頁)
□は学会 ■は日顕上人御指南


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



◆仏教には、経論にはなれたるをば外道という。
(『蓮盛抄』全集152頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――


□したがって、経文に明確に書かれていることに対して、歴代法主も含めて後世のどんなに立派そうな人がそれと異なることを言っても絶対に信じてはなりません。


■教外別伝の禅宗破折の文であります。臆面もなく、こういう所対の異なる文をもって歪曲の解釈を構え、宗祖以来の血脈に基づく歴代法主の御指南を否定する池田らの輩こそ、まさしく『聖愚問答抄』の、「正理を以て前とすべし」との大聖人の教えに背く仏敵であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ
(『開目抄』御書558、全集219頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――


■この文は伝教大師の『法華秀句』下の、無問自説果分勝三の結語中の文で、釈尊滅後、有見・空見に執着する者に対し、その歴劫修行等に関する人師の口伝を法華の大直道で打ち破ったあと、天台の釈する法華経の正義の大切なことを述べた文であります。要するに権実相対の文なのです。


 大聖人もまた、華厳、法相、三論、真言の法華に背く例証として伝教のこの文を挙げられたのであり、意は全く権実相対にあります。それを、大聖人の文底法門の奥旨における口伝法門と同一にすべき構格ではありません。こういうのを「乱引」と言い、全く見当違いの文証なのであります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』114頁)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆仏法は強ちに人の貴賎にはよるべからず只経文を先とすべし身の賎しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ。
(『聖愚問答抄』全集481頁)


―――――――――――――――――――――――――――――――――


□したがって、法華講員の方々は歴代法主の言葉を引用する場合は、併せて「経文(御書)にもこう書いてある」と示さなければならないのです。


■仏法の正義を示す論証の方法は、経文、御書と歴代法主の言を一々に並べて引くという形式に囚われることが正しいのではなく、その文理が正しく、論旨の浅深・勝劣の趣意が明確であることが大切であります。権実相対に示された文をもって全く場違いの証明に当てることは、法理から言うも、許すべからざることであります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん。
(『報恩抄』全集307頁)


―――――――――――――――――――――――――――――――――


■これは、口伝と文献の優劣を判じたものではない。伝教・義真の正しい法門と、慈覚・智証の邪義を対比されたものであり、既に伝教・義真の正しい指南が正文として残っているのであるから、それに従え、ということ。当然、権実相対の文。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか。
(『妙一女御返事』全集1258頁)


―――――――――――――――――――――――――――――――――


■慈覚と伝教大師の、真言と法華の関係の正義を論じ給う権実の上の文であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり。
(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――-

□これほど繰り返して大聖人が御指南されていることを守らない者は、まさに天魔であると断言しても良いでしょう。

■「上人」とは、弘法大師、善導和尚、法然上人を前文に挙げられ、それぞれ金剛薩?(こんごうさった)、阿弥陀如来、大勢至菩薩の化身と崇められている人が邪見なるや、との問いに対し、「経文を先として是をただすべきなり」との指南であり、この「経文」とは何の経文か知っているのでしょうか。これは、すべて権実相対の重であり、(※爾前権経に依るのではなく)法華経の経文を先として糾(ただ)すべしという趣意なのです。また、御書中にその例が多いのは、当時の権実雑乱が数多い状況より当然であります。「これほど繰り返して大聖人が御指南・・・」などの浮言は、その本来の法門の所対を忘れた低見に過ぎません。この文の「上人」とは、まさしく真言、念仏等の祖師であり、日蓮正宗の歴代法主とは全然、異なっているにもかかわらず、この語をもって「上人」とは正宗の法主のごとく重ね合わせ、なんら具体的事実を挙げず、無智の者をだまそうとする奸計は、許しがたい卑劣者であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり
(『祈祷抄』全集1355頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

真言宗を破折した権実相対の文。下種仏法の血脈相伝を否定する文証とならないことは当然。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり
(『行敏訴状御会通』全集181頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

□この文を引用すると「それは禅宗を破折しているだけだ」と、思いつきの愚かな言い逃れをする者がいますが、それでは大聖人が「禅宗の教外別伝はダメだが、我が正法では教外別伝は許されるのだ」とでも言われているというのでしょうか?

■これは、まさに、禅宗の教外別伝を破する文であります。それも涅槃経の取意の文です。「思いつき」でも「愚か」でもなく、まさしく禅宗破折の文そのもので、それ以外ではありません。すなわち、法門で言いえば権実相対であり、この経の文をもって下種仏法に当てはめるなら、その明確な証拠を出しなさい。(中略)そもそも、この文を下種仏法に短絡すること自体、法門の段階・筋道も弁えぬ愚かな者どもではありませんか。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるを何にいみじき人なりともご信用あるべからず候か。
(『唱法華題目抄』全集9頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

■この「法」とは、外道に対すれば内道たる一代仏教であります。また、爾前権経に対すれば法華経であり、迹門に対すれば本門であり、文上に対すれば文底深秘の妙法蓮華経であります。さらに、宗教に対すれば宗旨の三大秘法であり、これは相伝によって万代に伝承される歴代上人伝承の法体であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり。
(『如説修行抄』全集502頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

■この御文の前後始終は、すべて権実相対の趣旨で、この、「人の言を用う可らず」とは、権経をもって実経に背く謗法の人師の言を破されているのであります(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)。

 つまり、「人の言」とは権実相対を弁えない人のことである。もしこれを、文底下種仏法の立場より解釈するならば、「人」とは、種脱相対、下種仏法の真義を知らない不相伝の者となる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆経に云く「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」文、此の文の心は菩薩・人師の言には依るべからず。(『法華初心成仏抄』544頁)

※「依法不依人」とは、仏の説いた法そのものをよりどころとして、人によってはならないということです。仏法の勝劣浅深(せんじん)の判定は、釈尊が説いた経文を根本とすべきであり、他の人師・論師の所説を用(もち)いてはなりません。

 末法においては、大聖人が説かれた御書を根本とすることが大切です。しかし、『日興(にっこう)遺誡置文(ゆいかいおきもん)』に、

「当(とう)門流に於(おい)ては御抄(ごしょう)を心肝(しんかん)に染(そ)め極理(ごくり)を師伝(しでん)して」(御書 一八八四頁)

とあるように、下種の妙法の極理は、御書を心肝に染め、血脈(けちみゃく)相伝(そうでん)の指南を拝することによって正しく信解(しんげ)することができるのです。したがって、血脈への信順こそ「依法(えほう)」の姿と言えましょう。

 「依義不依語」とは、仏説の実義・真義をよりどころとして、経文の表面上の語句(ごく)にとらわれてはならないということです。

 大聖人の仏法にあっては、御書の語句の表面的意味にとらわれるのではなく、血脈相伝の深義・意義をよりどころとして御書を拝すべきです。

 「依智不依識」とは、仏の真の智慧をよりどころとして、人の浅い知識によってはならないということです。

 大聖人の御仏意(ごぶっち)を信じ、血脈付法(ふほう)の御法主上人の御指南に信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)していくことが大切であり、己(おのれ)の我見や浅識(せんしき)によって仏の教えを推(お)し量(はか)ってはなりません。

 「依了義経不依不了義経」とは、仏の真実の経をよりどころとして、方便の諸経をよりどころとしてはならないということです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

■涅槃経の法の四依を説き給うなかの一文で、これも文の前後は全く権実相対の趣旨であります。その義からは、宗門の血脈とは全く次元の異なる筋違いの盲引です。

もし、この文を依義判文すれば、大聖人の御書の正義は、古来の宗門の伝承法義に厳然たるものであり、創価宗も、かつてはそれを受けてきたのです。しかるに今、本仏日蓮大聖人のお定めに背き、他宗他門に擦り寄り、正系の血脈を否定するにいたっています。つまり、この文の破折に当たるのは、まさに創価学会なのであります。

(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり、今当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず。
(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

■「当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず」とは、まさに創価学会員が池田を崇めて、本門戒壇の大御本尊に参詣しないことを指摘されている文ではありませんか。また、「心を師として経によらず」の文も、自らの立場のみを正しいと執着する我見・偏見の心により、宗門700年の道理、文証、現証に背いて、クルクル猫の目のように変わる池田らの言に明らかな、創価学会の非を示される文であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり。
(『撰時抄』全集259頁)

―――――――――――――――――――――――――――――――――

法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され、経文という、文字によって誰にでも確認できる教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だと御指南されているのです。

■経文と天台等の釈との重要性を比較せられ、経が釈より重いことを言われたものであります。しかし、これは大聖人が「釈を捨てよ」と仰せられた文ではありません。そう取るのは、まさしく切り文であります。質問者が釈の所在を尋ねたのに対し、釈より経が元であり、大切であると注意された所であります。故に、経が根本であることを寸示されたあと、天台、妙楽、伝教の釈を引かれて、重ねて経の趣意を述べられているではありませんか。従って、大聖人は正しい釈を少しも否定されてはいないのであります。

 ところが、この文をそっくりそのまま悪用して「法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され・・・」などと言っているのは、まさに趣意のスリ替えであり、捏造の代物であります。

 日蓮正宗においては、法華経と宗祖大聖人、日興上人の教えを素直に拝して、その相伝に基づいて、歴代上人がそれぞれの時に応じて教えを垂れておられるのです。本宗における血脈相伝の大事は、天台、妙楽、伝教等の釈などとは、全く異なったものなのです。

 また、仏法は難信難解であります。大智・舍利弗すら、なお信をもって入るといいます。しかるの彼等の「経文という、文字によって誰にでも確認できる教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だ」などの主張は、まさに仏法の深意を蔑(ないがし)ろにする摧尊入卑の偏見です。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

 学会は権実相対以下の文証をもって口伝・人師の解釈などを否定しているが、真実の相伝(結要付属)を知らない者にとっては、御書もまた、経文に対する"人師の解釈"に過ぎない。邪師の邪義(誤った相伝・口伝・解釈)に基づいて、権実相対にさえ迷っている者に対しては、まず「経文を先として」(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)正しい経文解釈を示し、権実相対→本迹相対と導くほかないのである(依法不依人)。しかして、釈尊の正統仏法が結要付属によって上行菩薩(大聖人)に付嘱されていることを知ってはじめて、末法適時の正師たる大聖人の御書(塔中相承に基づく)を根本として経文を拝するのである(依義判文)

 しかしながら、大聖人の御書といえども、宗旨建立乃至宗門草創期であるため、ほとんどは、権実相対、本迹相対の経文解釈が中心である。そのために日興上人への付嘱を知ってしかもこれを軽視した者は、日興上人の御指南を通して大聖人の御書を拝することができず、それがために御書を拝しながら、大聖人の真意に到達できず、真実の種脱相対に迷ったのである。

 日興上人への付嘱・血脈を重視する者は、日興上人の御指南(相伝・口伝に基づく)を通して御書を拝するが故に、正しく大聖人の法門を知ることができるのである。

 日興上人の御指南もまた、その時代にしか適用されない化儀・法門もある。だから、日興上人滅後においては、正しい付嘱を受けられた日目上人の御指南を通して御書や日興上人の御指南を正しく拝することができる。以下同様である。
 大聖人が仰せの「依法不依人」について、

「依法不依人」とは、邪宗の人師の思想に執着し、経文(とくに法華経)を無視する人に正依を示すことだといえよう。もし「依法不依人」を文底下種仏法の立場から用いるならば、正しい相伝の内容も「法」に含まれる、と考えるべきでしょう。

正依といっても化導の時期、対告衆の機根、周囲の状況などによって様々な指南があり、矛盾もある。「依法不依人」といっても、経文や御書の文言だけみて、それがそのまま仏の真意を示すものとは限らない。それらを矛盾なく、総合的に正しく把握することは相伝による。

此の経は相伝に有らざれば知り難し。
(『一代聖教大意』全集398頁)

さらに、経文にも誤訳あり、釈にも誤伝あり。天台大師の伝と雖も、誤伝なきにしもあらず。しかし、天台大師は薬王菩薩の再誕であり、総付嘱を受けた方であるから、天台大師が生きておられたなら、無条件にその言葉を信じるべきである。大聖人の御書や宗門歴代上人の御指南もしかり。

書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん。
(『太田入道殿御返事』全集1012頁)

天台大師が一切経を正しく体系化できたのは、釈尊からの総付嘱による。大聖人が下種仏法の立場から経文を解釈し、御書を表されたのは結要付属によるのである。「依法不依人」とは、血脈相承を知らない者に正しい血脈相承の所在を教え、正法正師に帰依させるための法門である。付嘱の当所が定まったならば、付嘱を受けられた方の指南を中心にして文証を解釈すべきなのである。

大聖人の法門は御書がすべてではない。その振る舞い(化儀)や、相伝も合わせて大聖人の法門なのである。それを正しく伝えられているのが、血脈付法の方なのである。

『義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし』
(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)

経典や御書は歴史的に減ることはあっても増えることはない。さらに文字は固定化したものであり、仮にそれによって原理原則が正しく理解されたとしても、我々の直面する現実世界は無限に展開される。

無限に展開される個々の具体的状況に即した原理原則の具体的適用(四悉檀、随方毘尼、化儀や法門解釈その他の具体的対応)は、大聖人と一体の智慧・境界においてはじめてなされることである。

そこに、相伝付嘱が直授相承の口伝によって代々の正師に内証相伝される必然性がある。だから、経文や御書だけでなく、歴代先師の文証も、時の正師(御法主上人)の直接の御指南を通して、その時代に適合した正しい解釈ができるのである。

そもそも、釈尊自身、直接経文を書かれた訳ではない。弟子から弟子への口伝を後世の者が、文字に表したのである。そして、法華経をはじめとする大乗経典は、現実離れした譬喩が多用されているが、その中でも虚空会の儀式などは、釈尊自身と弟子までもが、"現実離れした譬喩"の中に登場する。 このことから考えても、釈尊の説法を言葉通りに反訳したものではないことは明らかである。
 つまり、正しい付嘱を受けた弟子が、釈尊の説いた大乗の法門を"意訳"して、大乗経典として書き表したのである。このような、仏典自体の成立の歴史から考えても、仏教として口伝を否定することはあり得ない。むしろ、付法の弟子の相伝・口伝によって成立したのが仏典なのである。
 このことは、末法の正依たる御書が、塔中における相伝・口伝に基づいて書き表されたことと規を一にする。

学会の御指南であそばされるか?
 学会員には堂々と答えて戴きたいものです。