《日顕宗を斬る!!を斬る》③

日顕宗を斬る!!を斬る》③
【権実相対の文証に執着する池田学会】
《学会のマニュアル》
 §1−A.敵を攻めるは「御書」に依れ

※□は学会の引用御書 ■はこちらの破折である

□「仏法の邪正をただす事・皆経文をさきとせり」(星名五郎太郎殿御返事 新編364頁 御書1207頁)

■「仏法の邪正をただす事・皆経文をさきとせり、今当世の道俗・貴賎・皆人をあがめて法を用いず、心を師として経によらず」
(通解:仏法の正邪を明らかにするのは、すべて仏の経文を基準としている。しかし、今の世の中の僧侶や俗世間の人々、貴い人も卑しい人も、皆、人を尊敬して、法を根本として見ようとしない。また、自分自身の偏見や先入観でつくられた心を師匠として、仏の経文を根本としない)
※片手落ちのマニュアルである。しかも切り文である。今の学会のことを大聖人様は仰せではないのか?
 学会が「皆経文をさきと」しているならば、「創価学会はこれだけ広まっている」「池田センセーは世界に顕彰されている」と語ることや、選挙の戦いをもって「折伏・法戦」などととらえるはずがない。これこそ「人をあがめて法を用い」ない証拠であり、「人」とは『永遠の指導』たる池田大作のことに他ならない。

□「専ら経文を以って責め申す時」
(善無畏三蔵抄 新編436頁・全集881頁)

■「一代聖教の始末浅深等を弁へざる故に専ら経文を以て責め申す時」
 (通解:(他宗の開祖は)釈尊の御化導の次第・優劣を弁えず、自宗こそ最高であると自慢しているので、専ら経文を用いて破折を加えた)
※これも切り文である。
 そもそも御書を以て正宗を破折しようとすること自体不遜である。「大聖人様の一代聖教の始末浅深等を弁へざる」学会員は、正宗の相伝の教学を都合のいいように盗み取っているに過ぎない。

□「法門をもって邪義を正すべし」
(唱法華題目抄 新編233頁 全集16頁)
※文証を無視し、現証のみにはしるのは天魔外道である

■仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。
(通解:仏の遺言のように権教(仮の教え)を弘めて、真実の教えを最後まで弘めない者は、権教に深く縁を持ち魔に魅入られ通力を使うようになる。但し、仏法は法門によって正邪を決するべきである。利根や通力によってはいけない)
※『文証を無視し、現証のみにはしるのは天魔外道である』これは当たり前の事である。
 また、彼等がここで引く正邪とは、法華経とそれ以外の権教の事である。 あえて、正宗を攻める御文として持ち出すと言うことは、彼等の言いたい法門とは、大聖人の御書らしい。いったい、彼等の言いたい正邪とは何を基準にどのように誰が判断して決めるというのか?
 正宗の教義に利根や通力は無いが、唯授一人の血脈相承を指してそう言いたいのであろうか?
 かつて池田大作が、
「法水写瓶(しゃびょう)の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八−二二八頁)
と発言していたのは邪義なのだろうか?
 それとも、破門前は正しく、破門後は邪義となってしまったのだろうか?学会諸氏にじっくり聞いてみたいモノだ。

 創価学会のくどくどとして、ただ文証さえ引けばよいというような主張は、要するに、権実相対(法華経とそれ以外のお経を比べ法華経が勝れていることを顕す)の範疇の道理、文証をもって、大聖人の甚深の血脈口伝を同一に論じ、法義の所対(何について法を説かれているのか)を混乱する暴論・邪論であります。
 創価学会の引くこれらの大聖人のお言葉は、すべて権実相対に限っています。故に「経文根本という原則」が大聖人の御法門の如く言うけれども、大聖人の正意の御法門では、経文根本という執着を、かえって否定されていることを知らないのでしょうか。

●「一念三千の法門は、但、法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」
(『開目抄』新編526頁・全集189頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 いわゆる文底の御指南であります。すなわち、一代経の文に執(とら)われず、法華経を基準とせよ(「一念三千の法門は但法華経」権実相対)。迹門の文に執われず、本門を基準とせよ(「但本門寿量品」本迹相対)。本門の文に執われず、文底の意を拝せよ(「但文の底にしづめたり」種脱相対)と、明らかに仰せです。これでもなお「経文だ、経文だ」と言う者こそ、大聖人の御正意の法門に暗い謗法者であります。

●追て申す、竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず〔此に口伝有り〕
(『法華行者値難事』新編720頁・全集965頁)

●問うて曰く要法の経文如何、答えて曰く口伝を以て之を伝えん      (『曽谷入道殿許御書』新編785頁・全集1033頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 大聖人御自身、時に随い、機に応じて、本迹、種脱等の内容にかかる御指南を、口伝をもってなされていることも事実であります。したがって、御自身の文底の義をこれらの文(学会が引用してきた御文)によって否定されたなどの莫迦げたことは、全く存在しません。
 そして、この文底の意より、大聖人の口伝、すなわち『御義口伝』等が述べられているではありませんか。かえって、大聖人が御自身の法門の口伝をもって正義を顕されていることが明らかです。この口伝法門のさらに精髄・肝要が、日興上人、日目上人、日道上人と続く、歴代上人への相伝であるのです。故に『御義口伝』に、明瞭にその趣意が記されているではないですか。
●秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず。
(『御義口伝』新編1796頁・全集783頁)
文上に対する文底、すなわち、下種仏法の肝要の口伝法門は、まさに『開目抄』という御文に依るのであり、御書に基づくものであります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』36頁〜)