日顕宗を斬るを斬る!!》②

<血脈相伝の文証>
●唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
(仏が悟った智慧は、ただ仏と仏とのみがよく知り尽くすことができる)
法華経『方便品』89頁)
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 大聖人の教えは、いかに教学に勝れていても、何十年と信心をしていても、我々が理解し尽くすことはできない。「唯仏と仏とのみ」という境界こそが、大聖人と日興上人の境界であり、その内証が唯授一人の血脈相承によって歴代上人に伝わっているのです。

日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。
(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
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後加文ではない。

●日興謹んで之を記し奉りしなり。聖人の言く此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり。
(『産湯相承書』御書1710頁・全集880頁)
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後加文ではない。
「嫡々」= 代々、一家の家督を受け継いでいること。正統の血筋。

「嫡々」とあるから、相承が日興上人一代に留まるものでないことは明らか。このように、日興上人へ付嘱された唯授一人の血脈が、歴代上人へ流れていることは明らかである。「代々の聖人悉く日蓮なり」と仰せのように、大聖人の御内証が伝わっている歴代上人の御指南に基づくことは当然です。

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
(『身延山付嘱書』御書1675頁・全集1600頁)
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 大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されている。この戒めは、そのまま歴代上人に対してもあてはまることは当然です。

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

(『百六箇抄』御書1702頁・全集869頁)
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 後加文だが、日亨上人は「義において支語なき所」(『富士宗学要集』第1巻25頁)だとされてる。史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。


【御加文に難癖を付ける愚かさ】

 後加文についてはどの御方が付け加えられたかは分かりません。しかし後加文が誰が付け加えたかとか問題ではないのです。なぜならば相伝書であるからです。
相伝書と言うのは、唯授一人ですからその当事者であられる方が御所持なされるものです。故に、後の御法主上人が御相承により口伝されたものを、書き加えられたりしていくものなのです。それが相伝書の相伝書たる所以です。
 現在の学会教宣部は、御加文を平気で否定しています。今の学会員にとって都合が悪いから否定したいのであり、それを隠すために「誰が付け加えたのか分からないものを証拠に出来ないと」と言い張るのです。

●日寛上人
 【六巻抄/当家三衣抄第六】には、
『南無本門弘通の大導師 末法万年の総貫首 南無日興上人師、南無一閻浮提座主伝法日目上人師、 嫡々付法歴代の諸師。此の如き「三宝を一心に之を念じて」唯当に南無妙法蓮華経と唱え乃ち一子を過ぐべし云々、「行者謹んで次第を超越すること勿れ」』
と御指南され、 末法万年の総貫首 嫡々付法歴代の諸師。此の如き「三宝を一心に之を念じて」とし、『行者(僧俗)謹んで次第を超越すること勿れ(邪見・我見に陥るべからず)』と、結ばれています。

 一方だけ(大聖人御書等)を挙げて批判等を繰り返しても、もう一方(日寛上人等)の御文を併読することで、全てが「矛盾」と化します。そこが、創価学会の巧みな「引用切り文術」であり、又同時に最大の矛盾を自らが露呈してしまう原因となるのです。

●日亨上人
「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり』(富士宗学要集1巻25頁)
 もし、御加文は全てが不適当な内容で、“邪義”というならば、何故、創価学会版「御書全集」に未だに掲載されているのか?

創価学会は“邪義”を容認するのか?
創価学会は邪義容認の団体なのか?
甚だしい自己矛盾である。

●日淳上人 
  百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。 若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

●池田指導(百六箇抄講義)

本抄には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

 学会員は唯授一人血脈相承を否定するのであれば、何故にニセとはいえ日寛上人の本尊を拝み、文証には御歴代御法主上人の御書解釈を持ちだし根拠とするのか? その御書解釈はすべて、唯授一人血脈相承によって御相伝されてきたものです。 また、日寛上人は創価学会から出た僧侶でもなければ何でもないのですよ。 
 教義についてもしかり、創価学会はすべて日蓮正宗の教義を盗用し、都合に依っ教義を捻じ曲げ、御歴代御法主上人を否定したり肯定したりしています。
 明らかに矛盾しています。
 日蓮正宗は本門戒壇の大御本尊様と唯授一人血脈相承によって他宗と一線を画しているのです。
 かつての創価学会もそうだったのではないでしょうか?