フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

三宝

大白法・平成20年7月16日刊(第745号より転載)教学用語解説(126)


 三(さん) 宝(ぼう)  

 三宝(さんぼう)とは  

 仏法においては、衆生が尊敬し、供養し、帰依(きえ)すべき信仰(しんこう)上の対象として仏(ぶつ)・法(ぽう)・僧(そう)の三宝(さんぼう)が立てられます。
 「仏」とは真実の法を覚(かく)智(ち)し、衆生を救済される仏法の教主、「法」とは仏の悟(さと)りと慈悲(じひ)に基づいて世に説かれた教法、「僧」とはその仏法を譲(ゆず)り受け、後世に正しく護り伝えていく方をいいます。
 この三つはいずれも、衆生を救い世を清(しょう)浄(じょう)に導く最高の宝であることから三宝というのです。
 
 釈(しゃく)尊(そん)在世の三宝
 
 仏法には、小(しょう)乗(じょう)・権(ごん)大(だい)乗(じょう)・迹(しゃく)門(もん)・本門・文(もん)底(てい)下(げ)種(しゅ)という勝(しょう)劣(れつ)浅(せん)深(じん)がありますが、それらの教法によって三宝の内容が異なります。
 たとえば小乗の三宝は、小乗の教主・丈(じょう)六(ろく)劣(れっ)応(とう)身(じん)の釈(しゃく)尊(そん)を仏宝、空理を説く四(し)諦(たい)・十(じゅう)二(に)因(いん)縁(ねん)・六(ろく)度(ど)等の法門を法宝、これを修行する声(しょう)聞(もん)・縁覚(えんがく)の二乗等を僧宝とします。
 権大乗の三宝は、権大乗の諸教主を仏宝、大乗の六度や戒(かい)定(じょう)慧(え)の法門を法宝、大乗の菩(ぼ)薩(さつ)を僧宝とします。
 また法華経迹門の三宝は、始(し)成(じょう)正(しょう)覚(がく)の釈尊を仏宝、迹門理(り)の一(いち)念(ねん)三(さん)千(ぜん)を法宝、法華会(え)上(じょう)の声聞・縁覚・菩薩を僧宝とします。さらに本門における文上脱(だっ)益(ちゃく)の三宝は、久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)の釈尊を仏宝、本門事(じ)の一念三千を法宝、本(ほん)化(げ)の上(じょう)行(ぎょう)菩薩等を僧宝とします。
 
 
末法文底下種の三宝

 第二十六世日寛(にちかん)上人は『当流行事抄(しょう)』に、

「文上脱益の三宝に執(しゅう)せず、須(すべから)く文底下種の三宝を信ずべし。是(こ)れ則(すなわ)ち末法適(ちゃく)時(じ)の信心なり(中略)久遠元初(がんじょ)の仏法僧は則ち末法(まっぽう)に出現して吾(われ)等(ら)を利(り)益(やく)したもう。若し此の三宝の御力に非ずんは極悪不善の我等争(いか)でか即(そく)身(しん)成(じょう)仏(ぶつ)することを得ん」(六巻抄一九四頁)

と、正(しょう)法(ぼう)・像(ぞう)法(ぼう)時代の文上脱益の三宝ではなく、末法適時の文底下種の三宝を信じなければ、末法の凡(ぼん)夫(ぷ)は即身成仏の功(く)徳(どく)を得られないことを仰(おお)せです。
 そして、末法の一切衆生を利益する久遠元初の三宝について、日寛上人は同抄に、

「久遠元初の仏宝豈(あに)異(こと)人(ひと)ならんや、即(すなわ)ち是れ蓮(れん)祖(そ)大(だい)聖(しょう)人(にん)なり(中略)久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊(ほんぞん)是れなり(中略)久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」(同一九六頁)

と御(ご)教示です。
 即ち、末法の御本仏日蓮大聖人を久遠元初(文底下種)の仏宝、本門戒壇(かいだん)の大御本尊を久遠元初の法宝、血(けち)脈(みゃく)付(ふ)法(ほう)の日興(にっこう)上人を久遠元初の僧宝(随一(ずいいち))と拝(はい)することが、末法適時の信心となるのです。
 
 
三宝は一体

 さて、大聖人が『御(おん)義(ぎ)口(く)伝(でん)』に、

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三頁)

と仰せのように、法宝である御本尊と仏宝である御本仏日蓮大聖人は、人(にん)法(ぽう)一(いっ)箇(か)であり、一(いっ)体(たい)不(ふ)二(に)の関係にあります。即ち、久遠元初における御本仏の悟りがそのまま妙法(法宝)であり、その妙法がそのまま御本仏大聖人の御(ご)内(ない)証(しょう)なのです。
 しかし、この人法一箇の御本尊が世に出現されても、これを正しく相伝される僧宝の存在がなければ仏法は断絶してしまいます。
 大聖人が『真言見聞(けんもん)』に、

「凡(およ)そ謗法(ほうぼう)とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(同六〇八頁)

と仰せのように、三宝は実は一体であることから、仏宝・法宝と同様に、心から僧宝を尊崇(そんすう)していくことが大切です。
 日寛上人は下種の僧宝について『当(とう)家(け)三(さん)衣(ね)抄(しょう)』に、

「南無本門弘(ぐ)通(づう)の大導師、末法万年の総(そう)貫(かん)首(ず)、開山・付法・南無日興上人師。南無一(いち)閻(えん)浮(ぶ)提(だい)の座主(ざす)、伝法・日目上人師。嫡(ちゃく)々(ちゃく)付法歴代の諸(しょ)師(し)」(六巻抄二二五頁)

と嫡々付法の御歴代上人が、総じての僧宝であることを示されています。
 
 
下種三宝の内(ない)証(しょう)と外(げ)用(ゆう)

 日寛上人は『三宝抄』に、

「若(も)し内体に約せば実に是れ体一なり。所謂(いわゆる)、法宝の全体即ち是れ仏宝なり。故に一念三千即(そく)自(じ)受(じゅ)用(ゆう)身(しん)と云(い)い、又(また)十(じっ)界(かい)具(ぐ)足(そく)を方に名づけて円仏と云うなり。亦(また)復(また)一(いっ)器(き)の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり。故に三宝一体なり。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以(もっ)て師と為(な)し、僧は仏を以て師と為すが故なり。故に法宝を以て中央に安置し、仏及(およ)び僧を以て左右に安置するなり」(歴全四−三九二頁)

と仰せのように、文底下種の三宝には、内証の法体(ほったい)に約した一体の義と、外(げ)用(ゆう)の相に約した勝劣の義との二義が存します。
 外用に約せば、仏は法を師と仰(あお)ぎ、僧は仏を師と仰ぐため、法・仏・僧の勝劣次第が存します。
 したがって、総本山客(きゃく)殿(でん)の御本尊奉(ほう)安(あん)様式においては、中央に法宝の漫(まん)荼(だ)羅(ら)御本尊、向かって左に仏宝の大聖人、右に僧宝の日興上人の御(み)影(えい)を御安置するのです。
 また、内証の法体に約せば、仏宝・法宝は元来休一ですから勝劣はありません。僧宝については、唯(ゆい)授(じゅ)一(いち)人(にん)の血脈相(そう)承(じょう)によって、本仏本法の法体が御歴代上人の内証に止住し、師弟不二の境界を成(じょう)じているため、勝劣はないのです。
 
まとめ

 日蓮正宗における三宝尊信の姿は、宗祖日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信じ、さらに血脈承(しょう)継(けい)の御法主上人の御指南に信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゅう)して、折(しゃく)伏(ぶく)弘(ぐ)教(きょう)に邁進(まいしん)するところにあります。
 まさに、この三宝尊信の信行に徹するとき、自他共に即身成仏の大利益を得ることができるのです。