《日顕宗を斬るを斬る!!》①

 まず、彼等のマニュアルを一読するに、こちらの話を聞こうという真摯な姿勢も、謙虚さも一番大事な慈悲も感じられない。
 さらに悲劇なのは、この一闡提確定のマニュアルを作製した、学会職業幹部に上手く洗脳され操られている点である。
 僧宝について論じている段の、「日蓮正宗要義」を引用している箇所は、不正直な学会の真骨頂である。よく見比べるが良い。(中略)の部分に何が書かれているか。

「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境地冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする。(中略)広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である」(317頁)
「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境地冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする歴代の御法主上人が僧宝である。広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である。しかし尊信の対象としては、右に述べるごとく中心に要括すべきである」

 学会幹部は、「日蓮正宗要義」を学会員が殆どもっておらず、また、確認をしないことを承知でこういう汚い手法を使っているのである。学会職業幹部は、一般会員をバカにしきっているのである。

 さらに、鬼の首でも取ったように日顕上人の「(僧侶が)自分から進んで『僧宝』なんだからもっと尊敬しろ』というようなことを思ったならば、やはりこれは間違いです」(昭和55年3月28日、在勤式得度式祝賀会)とのお言葉を出してきて、「大きな自己矛盾を生じている。」としているが、

これは、お弟子に対する師匠としての薫育のお言葉である。例え小僧であっても僧宝の一分には入るが、増上慢ではいけない、奢ってはいけないという戒めである。 わざわざこのお言葉を持ち出し、自己矛盾とする思考回路が理解不能である。

池田大作のように、「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」
池田大作発言・『池田大作――その思想と生き方』)
と恥じることなく言い放てる人間を師と崇めるから、学会員はおかしくなるのだろう。

 洗脳され、こういう対論に出てくるような幹部は、「真実が知りたい」のではなく、「マニュアルに即して、やっつけたい」という魂胆で出てきているだけのようだ。
 マニュアルに従って論を進め、そこからは決してはみ出さず、都合の悪いところは黙殺するか話をはぐらかし、最後は「破門したくせに放っておけ」「破折パンフレットを配るな」で終わる。
「化儀は時代と共に変わって当然」と開き直り、ニセ本尊販売も、懈怠チョロチョロ勤行も受け入れる。

従って、彼等に真摯に答えるだけ、それこそ時間の無駄と言える。
 同じ学会員でも、相手をみて、話は変えていった方がいい。




【こちらから先に質問してあげる】
 彼等の常套手段として、まず、パンフレットの内容というより、彼等のマニュアルに載っている御文を持ち出し「こちらで引用している御書の御文について聞きたいのですが」と開口一番に切り出すので、まずはこちらから先に質問する。
 質問に答える形になると、どうしても受け身になり、言い訳がましくなってしまうからである。

①学会教宣部が相手だった場合は、座った途端に「学会では、●●と言うが、その文証を出しなさい」とはじめる。
大概の幹部は、当方の非常識さを主張しながら、びっくりして、挙動不審になる。でも、一歩も引かない。答えさせる。
(もちろん、御書にはそのものズバリの文証がない質問を用意しておく)
・御書に全て書いてあるというが、弘安二年十月十二日御図顕の御本尊様が戒壇の 大御本尊様であるという文証を示せ。

・引き題目や題目三唱の唱え方は御書のどこをみたらわかるのか?
・なぜ創価学会では日蓮宗のように、なむみょうほうれんげきょうと唱えないのか 。それはどの御書によるのか?
・数珠にも色々な形があるが、あなた方の念珠が大聖人の教えに叶っていることを 御書で説明せよ。
・御宝前に色花でなく樒を御供えする理由を御書で説明せよ。
②さらに、こっちから一方的に質問攻めにする。
・学会のみが御本尊をコピーして配布してよい文証は?

・選挙運動が広宣流布につながるという文証は?
・池田名誉会長が勲章をもらうことによって広宣流布の役に立つという文証は?
広宣流布とは三大秘法の流布にある。三大秘法惣在の大御本尊を持っていない学 会の教えが広まって、それが広宣流布になるという文証は?

・時の貫主に背いてよいという文証は?

※これは誘い水の質問で、当然、「時の貫主たりといえども仏法に相違して己義を構えば之をもちうべかざる事」(『日興遺誡置文』御書1885頁・ 全集1618頁)を言ってくるので、当方としては、その次の「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)くべき事」を言い返す。

◎次の御文を知らない幹部は大抵、閉口する。すなわち、仏法の正邪を判定し、状況に応じて衆義を摧くべき立場にあられるのはあくまで「貫首」すなわち御法主上人である。数を頼んで血脈を冒涜する創価学会こそ、「摧くべき衆義」に当たるのである。

③時に反対の立場となり、まずそうになったら、「いいから、さっきのの文証を出せ。こっちの方が先だろ」と言い続ける。


相伝の仏法を否定する愚かさ】

まず、学会が「御書以外の口伝は用いず」というならば、当宗は相伝の仏法であるから、相伝を論ずることなくしての対論は無益です。
 そもそも口伝口伝と軽々に言うが、口伝とは誰からの口伝か考えましょう。御本仏大聖人からの口伝であります。
 創価学会版の「仏教哲学大事典」を見ても、大聖人の甚深の御法門を説明する場合、御書のみでは説明仕切れないのである。
 特に「御本尊書写」の項目はそれが如実に顕れている。
『御本尊書写の大権は唯授一人金口相承の御法主上人にあって軽々しく論ずべきではない』と冒頭述べている。学会が現在否定している項目が、この短い文章に目白押しである。
 また、さすがに私論で書けないため、『有師化儀抄註解』『百六箇抄』『日興上人詳伝』(日亨上人著)とつないでいるだけである。

これを無効として対論しようというならば、御本仏の教えを無用とする天魔の見に堕している愚に気付いたほうがいい。
 禅宗は仏無用という邪教です。創価学会は御書の外道読みに執して御本仏の御意を否定する意味で、天魔の邪教と言えます。
相伝無用というならば、学会員が拝んでいる御歴代上人の御本尊の相貌をはじめ、五座三座の勤行様式、数珠の形、しきみを供えること、線香を立てないことなど、化儀化法の全てが相伝なのです。
 大聖人様の教えは、文面上では表記されていなくても「相伝」として今日まで来ていることがあるのです。
 そこが「血脈伝持」の大事大切なところなのです。
 世間での簡単なことさえ100年間変わらず続けて来ることは容易ではないことは周知のとおりです。まして最大大事の正法を700年来、これからも末法万年尽未来際まで完璧に伝えられてゆくのは「日蓮正宗」の「正嫡の血脈」しかありえないのです。

相伝無用という学会員が相伝によって伝えられている御本尊を拝むこと自体が矛盾している事をまず説明してください。
 日蓮正宗相伝の仏法である。
 時の猊下は大聖人の御名代です。最大の敬意を払うのは当然なのです。

 学会にしても正信会にしてもカメレオンのように教義から勤行に至るまで大聖人様がなされておられた尊い行体から外れてしまっているのは、ただ気の毒としか言いようがありません。
 勝手に思いつきで教義、行体を変えてしまう幹部は大謗法であるのは当然ですが、知らずに言われたとおりにしてる末端の会員も同罪です。一人でも救ってゆきましょう。