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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

七慢

大白法・平成9年9月16日刊(第486号より転載)教学用語解説(31)


七(しち)  慢(まん)

 「七慢」とは七つの慢心をいいます。
 慢心とは、他をあなどる心、自ら驕(おご)り高ぶる心をいいます。
 「七慢」とは、慢(まん)・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じゃまん)をいい、『倶(く)舎論(しゃろん)』または『品類足論(ほんるいそくろん)』などに説かれています。
 一番目の「慢」は、自分より劣った者に対して「自分は優れている」と自負し、同等の者に対しては「同等である」と心を高ぶらせることをいいます。
 二番目の「過慢」は、自分と同等である者に対して「自分の方が優れている」と思い高ぶり、自分より優れている者には「同等である」と侮(あなど)ることをいいます。
 三番目の「慢過慢」は、自分より優れている者に対して「自分の方が優れている」と自惚(うぬぼ)れて、他を見下すことをいいます。
 四番目の「我慢」は、今では「耐え忍ぶ」というような意味で使われていますが、仏法本来の意味は、自我に執着し、我尊しと自惚れ、それを恃(たの)むことをいいます。
 五番目の「増上慢」は、未だ悟りを得ていないのに、「自分は悟った」と思うことをいいます。
 『法華経方便品』には、五千人の衆生が未だ悟りを得ていないのにも関わらず、釈尊の説法を聞く必要はないと増上慢を起こし、その座から立ち去ったことが説かれています。結局、増上慢となったこれらの衆生は、『法華経』の会座において成仏することはできませんでした。
 六番目の「卑慢」は、自分よりはるかに優れている者に対して、「自分は少ししか劣っていない」と思うことをいいます。
 七番目の「邪慢」は、自分に徳がないのにも関わらず、あると思って「自分は偉い」と誇ることをいいます。
 以上が「七慢」のおおよその意味ですが、慢心について『撰時抄』に、
 

「慢煩悩(まんぼんのう)は七慢・九慢・八慢あり」(御書 869頁)


とあるように、仏教では「七慢」の他にも「八慢」「九慢」等と広く説き明かしています。
 日蓮大聖人が『新池御書』に、
 

「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし」(御書 1457頁)


と仰せのように、慢心は信心修行を正しく全うする上での最大の障害というべきです。
 なぜなら、「七慢」等の慢心を起こすと、自分自身の信心の姿勢も、また他の物事に対する問題も、すべてにわたって正しく判断することができなくなってしまうからです。
 この慢心は十四誹謗のなかでは憍慢と呼ばれ、信心を破る恐るべき謗法の一つとして、固く戒めるべきであるとされます。
 私たちは、慢心を起こさないように、常に題目を唱えつつ、自分の信心生活を謙虚に反省していくことが大切です。