罪障消滅について

 【罪障とは】
 罪障とは罪業による成仏のさわ障(さわ)り、または成仏を妨げる悪い行為のことで、衆生が過去遠々劫(かこおんのんごう)以来積み重ねてきた様々な悪業・罪業が仏道修行を妨げ、成仏の障害となっていることをいいます。
 この罪障は、例外なく誰の命の中にも存するものなのです。
 天台大師は、『摩訶止観(まかしかん)』の中で、衆生の罪業が仏道修行を妨げ、成仏の障りとなることを、煩悩障(ぼんのうしょう)・業障(ごうしょう)・報障(ほうしょう)の三障を説いて明らかにしています。
 煩悩障とは、衆生が本来具(そな)えている貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろ)かなどが仏道修行を妨げることをいい、業障とは、倶舎論(くしゃろん)、涅槃経によれば五逆罪(殺父(しぶ)・殺母(しも)・殺阿羅漢(しあらかん)・出仏身血(すいぶつしんけつ)・破和合僧(はわごうそう))を犯した悪業が仏道修行を妨げることをいいます。そして報障とは、過去の悪業の報いによって修行が妨げられることをいいます。
 この三障を大聖人は『兄弟抄』に、
 

「煩悩障と申すは貪・瞋・癡等によりて障碍(しょうげ)出来(しゅったい)すべし。業障と申すは妻子等によりて障碍出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障碍出来すべし」(御書 九八六頁)

と、重い罪業を持つ私たち末法の衆生は、せっかく正法に巡り合っても、貪り・瞋り・癡かといった煩悩の「三毒」が障りとなったり、あるいは妻子眷属(さいしけんぞく)の反対や国主・父母等の迫害に遭うなどの障害、すなわち罪障が現れてくると、具体的に判りやすく御教示されています。
 更に言いますと、、私たち末法の衆生は、悪業深重の衆生ですので、生死を繰り返す中、十悪を犯しているのです。
 十悪とは、殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)・妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)です。


 【罪障の中でも謗法が一番重い】
 先に挙げた種々の罪業の中でも、正法を信受せず、かえって誹謗する「誹謗正法」、すなわち「謗法」が最も重罪であり、これがすべての罪業の根本原因となっています。
 大聖人様は『小乗大乗分別抄』に、
 

「今は又末法に入って二百余歳、過去現在に法華経の種を殖えたりし人々もやうや(漸)くつ(尽)きはてぬ、又種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出世の謗法の者数をしらず国に充満せり。譬へば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の水(まみず)、大地の中の金(こがね)なんどの如く、悪業とのみなりぬ。又過去の善業もなきが如く、現在の善業もしるしなし」(御書 七〇九頁)


 また『兄弟抄』に、
 

「我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ」(御書 九八一頁)


等とあるように、末法の衆生は過去遠々劫以来、重い謗法の罪業を積んだ衆生ばかりであり、その罪業は生命に深く刻み込まれているのです。
 末法に生きる衆生が宿す罪障の深さは計り知れません。ですから、釈迦仏法だけでは救い切れない、釈尊の法力が及ばないとされるのが末法時代と言われているのです。
 世間で、よく使い物にならなくなった物を指して「お釈迦(オシャカ)になった」と云いますが、ここに語源があります。


 【罪障は命の膿】
 これら私達の命に存する罪障を「命の膿」と譬えることが出来ます。当然ですが、放っておけばその膿は次第に広がり悪化し、患部周辺にまで転移して、命を危険に晒すような大事ともなります。
 膿の原因を探り、その元となる病気を究明して根本的な治療を施す。同時に表面に認識できる「膿」の治療も行う。これが一般的な医学であります。
 その治療には、手術も辞さない事例もあるでしょうし、又ウィルス系の病であればそのウィルスを撃退するワクチン、いわゆる抗生物質も投与しなければなりません。
 日蓮大聖人様の仏法に於ける、ワクチンは南無妙法蓮華経の題目であり、信ずる医師が日蓮大聖人であります。
 また、膿に限らず、怪我や病気を治癒する時には、その病気が為の痛みや苦しみの数倍の痛み、又は長い時間を要する場合がほとんどです。必要ならば、長期にわたりリハビリという過酷な試練にも耐え忍び、再生を図らなくてはなりません。その痛みや苦しみ、そのものを「魔」というのです。
 自己の病気(罪障)を治癒(ちゆ)(消滅)する為に受ける痛みを恐れ、逃げ、避けては「病」が完治することはけしてありません。如何に辛い治療やリハビリであっても、如何にまず不味(まず)く苦い薬であっても、病を直す為には実践し続け、又服用しなければなりません。その膿を出す痛み、治療やリハビリにかかる苦悩と辛抱を即ち「魔」と説きます。そしてその痛みや苦しみと正面から向き合い戦い、乗り越える事で、初めて自己の命を医師や薬の力と共に、何よりも自力を以て救うことが出来ます。
 ですから、本当の敵は外ではなく、内に在るのです。
 これらのことは、『法華経如来寿量品第十六』で説かれる「良医治子喩(ろういじしのたとえ)」がそれに当ります。
 心に染みつけた膿を消していけば、自分の心に自然に尊極の仏性が現れるのです。仏性というのは、大慈大悲の心をいいます。
 大慈というのは、一切の世間を救う心をいいます。大悲とは、人々を見捨てることなく、助ける心をいいます。この仏性の「仏」とは、仏の智慧を信受している人も含まれます。
 私たちで申せば、仏の智慧とは大聖人様の智慧です。大聖人様の智慧とは、南無妙法蓮華経です。ですから、南無妙法蓮華経と唱える心を「仏」と名付けております。
 仏性の「性」とは、変わらない、変えないという意味です。何が変わらないかというと、南無妙法蓮華経の心を久遠元初から変えないで信受している、南無妙法蓮華経の心を忘れないのです。動揺しない。この不動の心を「性」と言います。 
 大聖人様の智慧を信ずる心をしっかりと立てて、自分の心に染みついた様々な膿を唱題の行で、折伏の行で消していけば、南無妙法蓮華経の自分の本当の心が現れます。
 大聖人様が種々の御書の中でお示し下さっている、罪障消滅の教えがこれです。お題目を唱えて、過去の罪障消滅を願い、世間の中で大聖人様の教えを行じていく。これが仏道修行です。罪障消滅すれば、久遠の本来の自分のあり方が現れてきます。自分だけが救われていくのではなく、人々をも救い切っていく。このあり方をさして無作三身といっておりますが、罪障消滅の行を共々に実践していくところでは無作三身という尊い境界が得られるのです。
 お題目を唱えて修行している人には、この罪障消滅には転重軽受というおまけまでつけられているのです。重い過去の罪障を軽く受けて消滅していく。これほどの功徳・利益はありません。
 罪障消滅というのは、懺悔滅罪(ざんげめつざい)の行のことであります。菩薩と、声聞・縁覚の二乗との違いはどこにあるのかといいますと、二乗には欲望の煩悩を滅するという行はありますが、懺悔滅罪の行はありません。菩薩にはあります。
 昔、しゃりほつ舎利弗(しゃりほつ)が竹林外道(ちくりんげどう)に殺されるという事件が起こりました。息を引き取るまぎわに、目連が「あなたは智慧第一といわれているのに、どうしてその智慧で外道らを巧みにかわさなかったのか」と、問いました。
 これに対して、舎利弗は「確かに、智慧を用いればこのようなことにはならなかったでしょう。しかし、私は過去世に修行していたとき、目の不自由な母と、足の悪い父がどうしても修行の邪魔になり、竹林にす棄(す)てたことがあったのです。父と母は、虎に食われたことでしょう。私はこの罪障を消滅しなければならないのです」と、目連に告げたといいます。このことから、懺悔滅罪の行をもって臨終を迎えた舎利弗は、菩薩の境界を得ていたということが分ります。
 つまり、舎利弗法華経を聴聞してから亡くなったということなのです。なぜならば、舎利弗が譬喩品(ひゆほん)でけこうにょらい華光如来という記別を受けたとき、「菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」と説かれているからです。
 菩薩行の真っ最中に舎利弗は死を迎えたのです。
 罪障消滅の行、この修行は菩薩の行なのです。
 報恩抄に、
 

「極楽世界の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず」(御書 一〇三六頁)

と、大聖人様はご指南されております。
 極楽世界で修行することを欲する考えをやめて、五濁であふれ、悩みで苦しむ人々の世間にしっかりと立って、大聖人の教えを広め、大聖人の教えを職場で、家庭で、実践し、そのお手本を人々に見せて、共々に励み、生きていく道を歩みなさいということを教えておられます。悩み、苦しむ人々から、逃げてはいけないと仰せなのです。


 【真剣なる懺悔滅罪の勧め】
 先ほど舎利弗の話をしましたが、人は過ちを犯さず生きていくことは不可能です。ですから正直に仏様と向き合い、懺悔滅罪を祈ることは非常に重要なことなのです。
 二度と同じ過ちを犯さないことを誓って許しを請い、同時に自身の罪障消滅のため、正しい信仰によって真剣に仏道修行に精進することが大切です。
 一般的に「懺悔(ざんげ)」と言えば、牧師に罪の告白をするような場面が映画などにもよく登場し、キリスト教の専売特許のような印象を与えています。
 しかし、これはペニテンスという語(後悔・悔悛(かいしゅん))をそのまま懺悔に置き換えたものであり、実体は自己の罪に対する悔俊の儀式にしかすぎず、それは空虚な形式でしかありません。
 それに対して仏教では、古くは「布薩(ふさつ)」と呼ばれる集会を半月ごとに開き、戒を破った者が大衆と僧の面前でざんげ懺悔するという形をとり、心から罪への反省と浄化を図ることを目的として行われ、その懺悔のぎそく儀則や滅罪の相、その功徳は各経典に種々説かれています。
 特に涅槃経に示されるあじゃせおう阿闍世王(あじゃせおう)の懺悔改心の話は有名です。慈父殺害等の大逆罪の報いによって全身に悪瘡(あくそう)を現じて死の宣告を迫られた阿闍世王は、仏に懺悔して過去の数々の悪業を 詫(わ)び、改心と勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)を誓ったことによってたちまちにあくそう悪瘡(あくそう)は治癒し、さらに四十年の寿命を得ました。
 これは『富木尼御前御書』に、
 

「阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ」(御書 九五五頁)


とあるように、『寿量品』に説かれた更賜寿命(きょうしじゅみょう)の現証であり、実に阿闍世王が釈尊の説法の会座(えざ)に連なった法華信仰の功徳によるものと言えます。  この懺悔の根本行を修するためには、まず過去・現在・未来の罪業の生じた原因を知らなければなりません。
 普賢経には、
 

「一切の業障海(ごうしょうかい)は 皆妄想(みなもうぞう)より生ず も 若し懺悔(ざんげ)せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え 衆罪(しゅうざい)は霜露(そうろ)のごと如し  慧日(えにち)能(よ)く消除(しょうじょ)す」(法華経 六四八頁)


とあり、あらゆる罪業は妄想(とらわれの心によって、真実でないものを真実であると誤って考えること。また、その誤った考え。妄念。邪念。)から生じているため、その罪を懺悔しようと欲するならば、実相を思惟(しゆい)して智慧を明らかにしなければならないと説かれています。
 日蓮大聖人は、この経文を釈して『御義口伝』に、
 

「衆罪とは六根に於て業障 降(ふ)り下(くだ)る事は霜露(そうろ)の如し。然りと雖も慧日を以て 能(よ)く消除すと云へり。慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」(御書 一七九九頁)


と説かれています。
 すなわち、末法にあっては日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に対し奉り、自行化他に亘る題目を日夜、 口唱精進(くしょうしょうじん)するとき、衆罪の根源たる無始以来の謗法の罪業は瞬時に滅除して、事理の懺悔を共に成就することができるのです。
 しかし『神国王御書』に、
 

「懺悔の力に依りて生死やはな(離)れけむ。はたまた将又謗法の罪は重く、懺悔の力は弱くして、阿闍世王・無垢論(むくろん)じ 師等のごとく地獄にや堕ちにけん」(御書 一三〇三頁)

と仰せのように、謗法という大罪には相当に強い懺悔がなければ出 離(しゅつり)生死(しょうじ)は叶いません。
 故に『顕謗法抄』に、
 

「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期かたかるべし」(御書 二七九頁)

と、過去の謗法重罪の深さを実感しつつ、常に自ら戒めていくべきことを御教示されているのです。

 「懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし」(御書 二七四頁)

と大聖人は仰せです。
 一般的にも「仏の顔も三度まで」と言われますように、一度仏に悔い改めても、同じ過ちを犯し、しかも懺悔の心も持たず、もっぱら正法誹謗を繰り返すならば、もはやむけん無間(むけん)地獄に堕するほかあり得ません。
 どっく毒鼓(どっく)逆縁の徒として堕地獄の後、ようやく人界に生まれてきたときに、改めて懺悔滅罪を図るしかないのです。
 御法主日如上人は五月度の広布唱題行の砌、

『我々は値い難き人界に生を受け、さらに値い難き仏法に値い奉り、一閻浮提第一の大御本尊様に巡り値うことができまして、最高の境界におります。
 この喜びは何事にも代え難い無上の喜びでありますが、我々はこのたぐいまれなる境界に心から感謝し、仏祖三宝尊に対し奉り衷心より御報恩謝徳申し上げるとともに、この功徳と歓喜を受け身として自分一人だけのものとせず、自行化他の御聖訓のままに、一人でも多くの人々に大聖人様の仏法を伝え、下種折伏していくことが今、最も肝要であろうと思います。
 なぜならば、折伏は最高の報恩行であり、一切衆生救済の慈悲行であるからであります。つまり、折伏することによって相手を幸せに導き、また自らも無始以来の謗法の罪障を消滅し、現当二世にわたって自他共に幸せになることができるからであります』

と仰せであります。
 歓喜と御報恩感謝と慈悲の行動が出来てこそ日蓮正宗の信仰をしていると言えます。言い換えれば、どれか一つ欠けても本物の信仰とは言えないのです。
 私たち日蓮正宗僧俗は、まず自らの罪障消滅を祈念して即身成仏を期し、進んでは一切衆生済度のため、昼夜順逆を問わずに折伏弘教に励んでいくことが懺悔の修法と心得るべきです。
 『三大秘法抄』に、

 「三国並びに一閻浮提の人懺悔(ざんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して 踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」(御書 一五九五頁)


と仰せのように、大御本尊在(ましま)す総本山大石寺こそ真の懺悔滅罪の戒法、根本道場です。私たちは本門戒壇霊場への道案内として多くの人々を折伏・育成していきましょう。   

慈本寺様HP「御住職の法話」から転載させていただきました。