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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

生死即涅槃

大白法・平成19年5月16日刊(第717号より転載)教学用語解説(115)


 生(しょう)死(じ)即(そく)涅(ね)槃(はん)  
 「生死即涅槃」とは、生死の苦しみがそのまま涅槃の悟(さと)りであり、両者が一体不二の関係にあることをいい、煩(ぼん)悩(のう)即(そく)菩(ぼ)提(だい)とも言われます。
 
生死とは 

生死とは、煩悩や迷い、苦しみの境(きょう)界(がい)をいいます。仏教では、生まれては死に、死んでは生まれるという生死輪(りん)廻(ね)の世界を苦しみの世界と説き、具体的には四苦八苦等を説いています。
 四苦とは、衆生の避(さ)けられない根本的な苦しみである生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)のことで、それぞれ生きる苦しみ、老(お)いる苦しみ、病(やまい)の苦しみ、死の苦しみをいい、この四苦に、愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)(愛する人と別れる苦しみ)、怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)(怨憎の相手と会う苦しみ)、求(ぐ)不(ふ)得(とっ)苦(く)(求めるものを得られない苦しみ)、五(ご)陰(おん)盛(じょう)苦(く)(五陰が盛(さか)んになることによって起こる苦しみ)の四苦を併(あわ)せたものを八苦といいます。
 こうして迷いの衆生は、煩悩によって業(ごう)を作り、業によって四苦八苦等の様々な苦しみを感じ、六道(ろくどう)(地(じ)獄(ごく)界(かい)から天界)の中で永遠に流(る)転(てん)していくのです。

 涅槃とは 

一方、涅槃とは、悟り、安楽の境界をいいます。生死の苦しみは、種々の煩悩が元になって起こることは先に述べましたが、仏教ではその煩悩を断ずることによって六道の生死の苦しみから脱(だっ)却(きゃく)し、涅槃という悟りの境界へ至ると説かれます。
 すなわち、釈(しゃく)尊(そん)は爾(に)前(ぜん)権(ごん)経(きょう)において、衆生が生死と涅槃とは二元的な隔(かく)絶(ぜつ)したものとの迷見に執(しゅう)していることから、煩悩を断ずることによってはじめて六道を離れた解(げ)脱(だつ)の世界、悟りを得ることができると説かれたのです。そのために無量の長い期間を要する歴(りゃっ)劫(こう)修行が説かれました。しかし、実際には煩悩は無数であって、到(とう)底(てい)、凡(ぼん)夫(ぷ)には断じ尽(つ)くすことはできません。

 法華経に示される生死即涅槃

しかし、法華経迹(しゃく)門(もん)に至ると、二(に)乗(じょう)の成(じょう)仏(ぶつ)が明かされ、九(く)界(かい)即(そく)仏(ぶっ)界(かい)・仏界即九界の法義が確立し、生死の苦しみの九界と、仏界の互(ご)具(ぐ)互(ご)融(ゆう)を明かされました。この十(じっ)界(かい)互(ご)具(ぐ)・一(いち)念(ねん)三(さん)千(ぜん)の妙(みょう)用(ゆう)によって、地獄・餓(が)鬼(き)・畜(ちく)生(しょう)等の六道も、法(ほっ)性(しょう)真(しん)如(にょ)の全体であって、煩悩を断じ尽くさなくても、煩悩がそのまま悟りの当体と開かれ、生死の世界もそのまま解脱の世界であることが示されたのです。
 天(てん)台(だい)大(だい)師(し)は、この法華経の意義から『摩(ま)訶(か)止(し)観(かん)』に、

「煩悩是(こ)れ菩提なりと名づけ、亦(また)煩悩を断ぜずして涅槃に入ると名づく」(摩訶止観弘決会本)

と釈しています。すなわち、生死と涅槃という相反する境界は、仏の智慧(悟り)から見るならば、本来そのままが共に一念三千であり、一体不二の関係にあることを説いたのです。
 しかし、法華経迹門において九界即仏界・仏界即九界が説かれたといっても、二乗の成仏は未来におけるものであって、あくまで理論上のことです。『十法界事』に、

「迹門には但(ただ)是始覚(しかく)の十界互貝を説きて未だ必ずしも本(ほん)覚(がく)本(ほん)有(ぬ)の十界互具を明かさず。故に所化の大衆・能化の円仏皆是悉(ことごと)く始覚なり。若(も)し爾(しか)らば本(ほん)無(む)今(こん)有(ぬ)の失(とが)何ぞ免(まぬか)るゝことを得んや」(御書一七八頁)

と説かれるように、迹門は始(し)成(じょう)正(しょう)覚(がく)の仏が説いた教法であり、本無今有の失(とが)を免れることはできません。
 本門寿量品に至って釈尊の久(く)遠(おん)常(じょう)住(じゅう)の命が説かれ、始覚の十界互具を開して本覚の十界互貝・一念三千が顕(あらわ)れて、ここに生死即涅槃の義が仏の身の上に実体として確立し、一切の衆生は自身の命が仏と同じ永遠の命であることを覚知して、真の成仏を遂(と)げることができたのです。

 真の生死即涅槃とは

 末法、本(ほん)未(み)有(う)善(ぜん)の私たち衆生における生死即涅槃とは、『本因妙抄』に、

「今日熟(じゅく)脱(だつ)の本迹二門を迹と為(な)し、久遠名字の妙法を本と為す。信心強(ごう)盛(じょう)にして唯(ただ)余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉(たてまつ)れば凡身即(すなわ)ち仏身なり。是を天(てん)真(しん)独(どく)朗(ろう)の即身成仏と名づく」(同一六七九頁)

と示されるように、久遠名字の妙法の当体である三大秘法の御本尊に妙法を唱え境(きょう)智(ち)冥(みょう)合(ごう)するとき、はじめて生死の身がそのまま涅槃の仏身と開かれるのです。
 また『一念三千法門』には、

法華経は念々に一(いっ)心(しん)三(さん)観(がん)・一念三千の謂(いわ)れを観ずれば、我が身本覚の如(にょ)来(らい)なること悟り出だされ、無(む)明(みょう)の雲晴れて法性の月明らかに、妄(もう)想(そう)の夢醒(さ)めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即ち本(ほん)有(ぬ)常(じょう)住(じゅう)の如来となるべし。此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す(中略)一念一千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まれり」(同一〇八頁)

と示されています。
 このように、日蓮大聖人の下(げ)種(しゅ)の妙法蓮華経にこそ煩悩即菩提・生死即涅槃の不思議の妙用が具(そな)わり、衆生がその身を改めることなく煩悩が浄化され、一切の苦悩を安楽へと転じていけるのです。

 ま と め 

日蓮大聖人は『御義口伝』に、

「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは生死の闇(やみ)を晴らして涅槃の智火明(みょう)了(りょう)なり。生死即涅槃と開覚するを『照は則(すなわ)ち闇生ぜず』と云(い)ふなり」(同一七二一頁)

と仰(おお)せられています。私たち大聖人の弟子檀(だん)那(な)は、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるとき、生死の苦しみは妙法の光明に照らされて、そのまま涅槃の智(ち)慧(え)と開覚することができるのです。