日蓮正宗の信心の基本

 いよいよ、明年の日興上人御生誕七百七十年の佳節を前にして、私たちは日如上人の御心に添った信心修行が出来ているのか、ここで再確認する必要があると思います。
 私の願いとしては、皆さんが、せっかくこの会い難き本物の日蓮正宗の信仰をしている以上、功徳にあふれた、笑顔の絶えない講中になって欲しいと願うばかりです。
 どうやったらそうなれるのかを、入信間もない方もおり、今日は再確認していきたいと思います。

 【本門戒壇の大御本尊様と血脈相承】
 日蓮正宗の仏法を信仰する者にとって、大聖人様の教えは絶対的なものであり、 我々凡夫はとにかく素直に信じ実践することが大切です。
 一切の人々を即身成仏させるために、 末法の御本仏・日蓮大聖人が御出現せられ、出世(しゅっせ)の本懐(ほんがい)である弘安2年10月12日の一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の戒壇(かいだん)の大御本尊を御図顕されました。
 そして、日蓮大聖人の教えの全ては、この本門戒壇の大御本尊とともに日興上人唯お一人に血脈相承(けちみゃくそうじょう)され、爾来(じらい)、日目上人より法統連綿(ほうとうれんめん)と現御法主日如上人に伝えられています。
 この唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承は「別付嘱」といわれ、我々僧俗に信心として付嘱される血脈「総付嘱」とは分けられています。この「総別の二義」が弁えられない教学では、大聖人の仏法を語る資格はありません。

 学会員はすぐ『我々の胸中(きょうちゅう)の肉団に御本尊がある』と言いますが、そもそも、その考えが不遜(ふそん)極まりない事なのです。
 凡夫が即(そく)仏なら、日蓮大聖人は御本尊を顕す必要はありません。
 確かに全ての命あるものには一念三千があり、その中に当然「仏界」も存在します。
 しかしそれは理(理論上)であり、事(事実)の上で、「仏界」が簡単に現れるものではありません。

 したがって大聖人様は御本尊という、対境としての「仏界」を顕されたのです。

 また『凡夫が仏』とは釈尊(色相荘厳(しきそうそうごん)仏)に対して大聖人が示同凡夫(じどうぼんぷ)としての姿を現されたことであり、我々煩悩充満の荒凡夫が、そのままで仏になることは絶対に出来ません。

 戒壇の大御本尊から離れて、仏界を湧現(ゆげん)することは不可能なのです。ですから、私たちは本門戒壇の大御本尊様がおわします、総本山大石寺への登山を真剣に取り組んでいかなければなりません。


 【僧俗の筋目】
 大聖人は『新池御書』に、
 

「法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし」(御書1461頁)


と仰せのように、仏を尊び供養し、法を崇め、僧侶を敬うことは、仏法を信仰する者として、信心の自然な発露と言えます。
 第九世日有上人は『化儀抄』の冒頭に、

「貴賤道俗(きせんどうぞく)の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然(しか)れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(日蓮正宗聖典973頁)


と仰せのように、僧も俗も同じく妙法蓮華経の信心によって成仏を志していく故に、基本的には同等・平等ですが、竹に上下の節があるように、その位を乱すことのなきよう、僧俗の礼儀の必要なことを説かれています。
 得度式の砌、毎年、日如上人猊下は新発意(しんぼっち)の親に「出家した以上は礼節を重んじ、例え自分の子供であっても道号に『さん』を付けて呼びなさい。決して呼び捨てはいけません。」と仰せられる所以(ゆえん)がここにあります。

 今の創価学会のように、大聖人の仏法において、猊下様や僧侶は無用である、などと考えること自体が大きな誤りと言えます。
 そもそも、大聖人御自ら実際に出家をされ、僧侶の姿をもって衆生教化をなされました。そして、自ら多くの出家の弟子・僧侶を育成、薫陶された歴史的事実があります。
 また、出家と在家の関係、教団の在り方は、大聖人御在世に範(はん)をとるべきであります。
 南条時光や四条金吾や阿仏房や日女御前などは、 大聖人御在世中に素直で熱心な信心を貫かれ、大聖人へのお目通り、御供養などを褒められて重要な御法門の記された御書をいただきました。
 それを、信心も無く、いくら御書直結と言い続けようと、創価学会員のような「私たちが本来仏である」などという増上慢(ぞうじょうまん)に与えられた御言葉ではありません。
 大聖人様は、
 

「一念三千を識(し )らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此珠(このたま)を裹(つつ)み末代幼稚の頸(くび)に懸(かけ)さ令(し )め給う」(御書662頁)

と説かれております。
 すなわち、我々のような仏法を知らない者に御本尊を授けて、その御本尊を信心することによって、はじめて我々が仏に成ることを示されておられるのです。
 『日女御前御返事』に、
 

日蓮が弟子檀那等、正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)、不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と無二に信ずる故によて、此御本尊の宝塔の中に入るべきなり。」 (御書1388頁)

 すなわち、御本尊と我々が一体になると仰せです。
 更に、

「たのもしたのもし。如何(いか)にも後生をたしなみ給うべし、たしなみ給うべし。穴賢(あなかしこ)。南無妙法蓮華経とばかり唱へてほとけになるべき事尤(もっとも)大切也。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす」 (御書同頁)

と、お説きになっております。 
 日蓮正宗は、僧俗ともに、戒壇の御本尊を一心に信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱え、現世安穏・後生善処の境涯に至ることが、もっとも大切なのです。


 【信心の姿勢】
 大聖人様は、
 

『夫(それ)信心と申すは別にはこれなく侯。妻のをとこをおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり』(御書1467頁)

と仰せです。 
 どんなことがあろうと、御本尊をどこまでも信じ、祈り、広宣流布に生きていく人が、結局は成仏していくのです。 

 【具体的な実践】
 では、具体的にどのように実践していくことが必要なのかお話ししたいと思います。
 残念ながらせっかく日蓮正宗に入信しても、必要な時にお寺に行って住職に相談すれば事足りるから、御報恩御講の参詣や座談会、勉強会、折伏などの活動や行事に参加したくないと、思う人もいらっしゃいます。
 しかし、一生成仏をめざす私たちにとって、善知識(ぜんちしき)が集う本宗の寺院こそ、大聖人様の正しい信仰を教わり、実践し、信心を磨く道場なのです。
 その寺院に参詣して、同志と共に信仰の活動をしていくことが成仏への道であります。

 大聖人様は『蓮盛抄』に、
 

「凡(およ)そ世間の沙汰(さた)、尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや」(御書 29頁)

と仰せられています。
 世間でさえ重大な局面では、よき相談相手を求めるのに、仏道にあって自分一人孤立し、その自己中心の心を本分として、大聖人様の正しい信仰を貫けるはずはありません。
 入信の日以来、指導教師である住職のもとに信心を磨き、支部の一切の人々がお互いに啓発し合い助け合いながら信心を深め、報恩感謝の信心を学ぶのです。
 そうして、広宣流布に向かって精進していくために寺院と法華講の組織があるのです。

 みなさんの菩提寺である慈本寺は、大聖人様の御遺命である広宣流布大願成就のために、僧俗和合して信行学に励むべき法城です。
 大聖人様は『生死一大事血脈抄』に、
 

「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。(中略)若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か」(御書 514頁)

と仰せです。
 私たちは常に自らの信心に濁りはないか、大御本尊に対する潔い信心をしているかを省みて、お互いに切磋琢磨するためにも寺院に集い、ここを信心活動の拠点として、僧俗一致して進んでいくところに、広宣流布の大願成就への道があるのです。

 また、一人ひとりが大聖人様から与えられた広宣流布の使命を全うするときに、初めて自己の幸福も自ずと叶うのです。
 先月もお話ししましたが、自分の欲や願いを中心にした祈りでは、本当の功徳は戴けないのです。
 大聖人様は、
 

凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(御書 1544頁)

と「志」こそが信心修行の一番基本であると仰せです。
 ところが御供養にしても「どのくらいしたらいいですか」という方がよくおられます。
 御供養で大切なことは「どのくらい」でなく、「どのような志を持ってさせていただくか」ということなのです。
 御本尊様との取引とか見返りを求めてするものではありません。
 御供養する金品の量や、大きさに関係なく、あくまでも純粋な「志」が大事なのです。
 日蓮正宗における御供養は、戒壇の大御本尊様にする御供養、仏様にする御供養です。
 世間では「お布施」と言いますが、正宗では「お布施」とは言いません。
 それは、例えお寺でお経をあげてもらったとしても、その住職にするのではなく、御本尊様にする「志」ですから「御供養」と書くのです。
 それを踏まえて御供養していただきたいと思います。
 但し、金額ではないと言っても、しないとするでは大違いですから、積極的に御講や行事に参詣され、御供養申しあげるように心がけましょう。
 この「志」は御供養に限らず、日頃の信心修行や折伏でも同じです。
 例えば、今日のように御講で受付をする、掃除をする、他の講員さんをお連れするなど、どれもが尊い修行の姿なのです。
 信心しても何も変らないと愚痴を言う方がいますが、それは、本当の信心の功徳、仏様の御心が見えてないからだと言えます。

 日蓮正宗折伏の宗旨です。常に自他の幸福を願い続けることを説きます。
 しかし、折伏の話になるとうつむいて、「出来ない」とか、「難しい」とか、「歳だからと」などと言う人がいますが、そうではありません。
 まず、縁を結ぶということならば、だれでも出来るはずです。
 寺院のパンフレットや寺報を渡すのも立派な下種ですし、一言「私は日蓮正宗の信仰をしています」と言えるだけでも素晴らしい事なのです。
 また、折伏したい人の幸せを願って唱題することなら、誰でも出来るはずです。
 一人で何もかも背負い込んでしまう必要はありません。その為の同士ですから、連帯して信心をし、連帯し折伏や信心活動をしていきましょう。
 共に学び、共に願い、共に行動し、そして共に功徳を受けていく。そうした姿で、進んで参ろうではありませんか。

慈本寺様HP「御住職の法話」から転載させていただきました。