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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

世法(せほう)と仏法(ぶっぽう)

大白法・平成7年9月16日刊(第440号より転載)教学用語解説(9)


世法(せほう)と仏法(ぶっぽう)

 世法とは、俗諦(ぞくたい)また世俗諦ともいわれ、凡俗の迷情によって立てられた道徳や法律、または社会・組織などにおける規律などをいいます。
 また広くいえば、文化や政治・経済などのあらゆる現象も世法に属します。
 仏法とは、真諦(しんたい)または出世間法ともいわれ、仏の悟りの内容、さらには迷いの衆生に対して説いた法界の真理と、それを体得するための修行をいいます。
 世法(俗諦)と仏法(真諦)について、天台大師は『法華玄義』に、

「名は衆経に出づれども、其の理は暁め難し」

と、名目は種々の経典に出ているが、その理を正しく説き明かすことは難しいことである、と述べています。
 しかし、法華経の『方便品』に

「是の法は法位に住して 世間の相常住なり」(開結 一八三頁)


また、『法師功徳品』には、
 

「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(開結 五六一頁)


とあるように、天台は、世法における政治・経済・文化等のあらゆる現実の姿がそのまま仏性常住の世界であると説く法華経(諸法実相)に立脚し、世法(俗諦)と仏法(真諦)の解釈をしました。
 すなわち、『法華玄義』に

「円教の二諦とは、直ちに不思議の二諦を説くなり。真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり。乃至不二にして而(しか)も二」

とあるように、法華円教に明かされた世法と仏法こそ一体円融の不思議の法であり、法界の実相であることを明かしたのです。
 さらに天台は、『摩訶止観』に、世法のあらゆる姿のなかに法華経の真理が貫かれていることを説き、それを達観する一念三千の観心修行を説いたのです。
 このように、法華経の悟りの上からするならば、世法即仏法であり、別々のものではないことがわかります。
 しかし、私たち衆生の凡眼・凡智をもって、直ちに世法と仏法が一体であるということではありません。
 日蓮大聖人は『諸経と法華経と難易の事』に、
 

「仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし」(御書 1469頁)


と仰せのように、仏法の根本である下種の妙法は本体であり、世法はそれに対して影なのです。
 つまり、仏法の究極である文底本因下種の法華経に基づいてこそ、政治・経済、さらには文化をはじめとする世法の一切の現象が、悉く仏法の妙理のあらわれとして活現するのです。
 ゆえに『観心本尊抄』に、
 

「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得(う)べきか」(御書 662頁)


とあるように、末法の衆生は、正直に我意・我見を捨てて、一切法の根源である南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信行に励むならば、誰人も世法の上に揺るぎない幸福を確立していくことができるのです。